第96話 女神の天秤
「……くそ! いつの間に魔法を!?」
いち早く魔法の発動に気付いたアンジェリカが、声を荒げて立ち上がりました。わたしの【魔力感知センサー】にも一瞬遅れて反応が確認できましたが、あまりにも唐突過ぎます。
【因子】の演算であれば高速で処理することが可能なわたしも、依然として『魔力』に関しては不慣れな部分が多く、彼女、ベアトリーチェが使った魔法の効果までは理解できません。
「くふふふ……案ずるな。わらわには、女の子を傷つけるような趣味はない。わらわが『世界の真実』に到達するため、メルティちゃんを貰い受ける──それだけのことじゃ。お前たちには、少しばかり大人しくしておいてもらえばよい。……むろん、そこの男は別じゃがな」
わたしたちが気づいたときには、既に室内の床一面に『黄金の砂』が敷き詰められるように出現していました。
「……世界の心を司る女神よ。森羅万象を掌握し、有為転変を支配するものよ。我が名はベアトリーチェ。我が意志は『罪と罰』。今ここに、奇跡を顕わし給え……《女神の天秤》」
「そうはさせるか!」
聖女の動きに反応したアンジェリカは、とっさに炎の魔法を使おうと試みたようですが、あと一歩遅かったようです。聖女の手の上に出現した『黄金の天秤』が軽く傾いたかと思うと、部屋中に広がっていた『黄金の砂』が一斉に舞い上がりました。
「ぐ……か、身体が……!」
部屋中に散った『砂』がアンジェリカの身体に緩やかに巻きつくと、掌の炎はむなしく掻き消え、彼女は身体を硬直させてしまいました。
聖女からの魔法攻撃と思われるこの現象は、当然のことながら、アンジェリカ以外にも効果を及ぼしています。わたしの身体にも同様に『黄金の砂』がまとわりついており、思うような行動がとれないのです。実際には、『身体を動かそうとする意志』を封じられているような感覚であり、マスターの『概念冷却』にも通じるところのありそうな現象でした。
そう思ってマスターを見れば、不思議そうに目をぱちくりと瞬かせているようです。
「これが……ウルバヌス司教の動きを封じていた精神支配の魔法ですか?」
わたしは、マスターの無事を確認しながら、時間稼ぎを兼ねた問いかけの言葉を口にしました。
「ほう? この状況で随分と冷静じゃな? だが、何のためにわらわが無駄話をしてまで、時間を稼いだと思っておる。『天秤の砂』によって、お前たちの意識下に魔法を浸透させるためじゃ。……そら、他の仲間もそのとおり、完全にわらわの支配下となった」
言いながらベアトリーチェが目を向けた先には、苦しげな顔で床に膝をついたメルティの姿があります。彼女の周囲には、同じく黄金の砂がぐるぐると渦を巻いていました。
「……メルティちゃん、大丈夫?」
そんな彼女を心配そうに見つめているのは、リズさんでした。しかし、彼女に関しては、辛そうな顔をしているものの、まったく身動きができないというわけでもなさそうです。
「う、うん。でも、動けない。こんなの、はじめて……」
メルティの『愚かなる隻眼』も、発動前に封じられてはどうしようもないのでしょう。彼女はリズさんにかばわれた状態のまま、不安げに言葉を漏らしています。
とはいえ、わたしがこの状況でも冷静でいられるのは、れっきとした理由があるからです。
「勘違いをしておいでのようですが、あなたの魔法は、この場の全員に効果を及ぼしているわけではありません」
「なに?」
わたしの言葉を受けたベアトリーチェは、ようやく何かに気付いたように、とある人物へと目を向けました。
「『身体の芯までお嬢様』。わたくしには……精神支配は効きませんわ」
凛とした声で言い放ち、毅然として立ち上がったのは、花柄のドレスを纏う新緑の髪の少女です。彼女の身体にも金の砂はまとわりついていますが、その砂も束縛の力を発揮できていないようでした。
「『閉じられた植物連鎖』……《ライフ・メイキング》。絡み合う蔦」
究極の精神耐性スキルを持つエレンシア嬢。彼女の使用したスキルと蔦を生み出す魔法の組み合わせは、たちまちのうちにベアトリーチェの周囲に無数の『千切れない蔦』を生み出し、その身体を拘束していきます。
「なんじゃ? この植物は……」
「抵抗しない方がよろしくてよ。その蔦に下手な攻撃をしたりすれば、無事は保証いたしかねます」
エレンシア嬢は、ご丁寧にも『開かれた愛の箱庭』も発動しています。さすがに明確な殺意までは抱いていないにしても、聖女の身体を麻痺毒に侵す程度なら十分でしょう。
しかし、ベアトリーチェはエレンシア嬢の言葉を受けて、肩を震わせて笑います。なぜかその動きは、麻痺毒の存在を感じさせないものでした。彼女はもしや、視覚や聴覚のみならず、嗅覚までもを肉体ではなくスキルで補っているのでしょうか?
「くっくっく! やるではないか。世界の心を支配する『女神』の精神魔法を正面から無効化するとは……異常極まる能力じゃ。しかし、逆に言わせてもらおう。この程度で、わらわを封じることができるとでも?」
「ま、負け惜しみを言わないでくださいませ! わたくしがその気になれば、あなたの命はありませんわよ?」
なおも警告の言葉を発するエレンシア嬢ですが、聖女の浮かべた余裕の表情に動揺しているのか、彼女の声には焦りがあるように感じられます。
「お前は、エレンシアと言ったか? 世にも珍しいユグドラシルの娘よ。お前は誤解しているぞ」
「え?」
「わらわの《天秤》は、単なる精神支配魔法ではない。それは副次的な効果に過ぎんのじゃからな。本番は……これからじゃよ」
ベアトリーチェの身体から放たれた、輝く光。それは部屋全体をまばゆく照らし、視界を真っ白に染め上げていきます。
そして、光が消えた後には、他のメンバーと同様、苦しげな顔でその場に座り込むエレンシア嬢の姿がありました。彼女の周囲に漂う『砂』は、その色を赤銅色に変化させているようです。
「くふふ! 『罪の重さ』は心だけでなく、身体も、そして、魔力をも縛るものじゃ。思った以上に罪を犯しておったようじゃな? 虫も殺さぬ顔をして、『殺人』を経験済みとは思わなかったぞ」
自分以外に立つ者のいない室内を見渡し、ベアトリーチェは満足そうに笑います。よく見ればアンジェリカには『灰色』の砂が、リズさんには『銀色』の砂が、そしてメルティには『深紫』の砂がまとわりついています。
「ど、どうして身体が! わ、わたくしの耐性が効かないなんて……」
「当然じゃ。《女神の天秤》は対象の心のみならず、その身体をも走査して、罪の在処を探し出す。心と身体はつながっておる。心に残らぬ罪も、その身体が記憶しておることもあるのじゃからな」
自慢げに語るベアトリーチェ。しかしここで、、そんな彼女に冷水を浴びせるような声をかけたものがいました。
「罪を量るなんて、面白いね」
「……なに?」
見たくもないとばかりにそこから目を逸らしていた彼女も、その声を無視するわけにはいきませんでした。なぜなら、その声の主……マスターは、胡坐をかいたその状態からゆっくりと立ち上がり、身体についた埃を叩いていたからです。
「馬鹿な……なんじゃ、それは? あり得ぬ。そんなことがあり得るはずがない!」
ベアトリーチェは彼の姿を視界に入れた途端、声を張り上げて叫びました。
「え? ああ、僕が動けることがそんなに不思議かい? 驚かせて悪かったね。正座なんて久しぶりだったから、足が痺れちゃってさ」
肩をすくめて笑うマスターですが、ベアトリーチェはなおも首を振ります。
「動けるかどうかなど、関係ない! なんなのじゃ、その『色』は! そんな……無垢なる赤子のような色……。うぬは今まで、ただの一度も『罪』を犯したことがないとでもいうのか!」
彼女が指差しているのは、正確にはマスターではなく、彼を取り巻く『砂』でした。そしてその色は、ベアトリーチェが魔法を発動させた時と同じ『黄金』のままです。
「……罪の重さを表す色がその状態では、束縛の力もほとんど及ばぬ。しかし、そこのメイドの女の子でさえ、『銀色』じゃ。些細な『罪』でも色は変わる。どんな人間でも、まったく何の罪も犯していないことなどありえぬ……」
ベアトリーチェが言うことから推測するに、恐らくこの砂の色は、金から銀、銅、灰色と色を変えていくことで、対象の『罪の重さ』とやらを量っているのでしょう。この中では、メルティの『深紫色』が一番重いのかもしれません。
などと、人のことばかり解説してしまいましたが、わたしの周囲の『砂』も通常とは少し異なる状態にあるようです。
「……ヒイロ? 大丈夫?」
それに気づいたのか、マスターが気遣わしげに声をかけてくれました。しかし、わたしには返事をすることができません。『砂』による束縛の効果は、ますますその度合いを強めており、それはわたしに一切の行動を許さないのです。
「ふむ。おかしいな? ヒイロよ。お前にかけた『天秤の砂』は、未だに安定していない。このようなこと、今までに一度たりとてなかったのじゃが……」
不思議そうに目を瞬かせるベアトリーチェ。するとここで、マスターが何かを思いついたように彼女に声を掛けました。
「ああ、そうか。……僕、わかったかも」
「何がじゃ?」
「君の魔法が、僕にだけ効かない理由だよ」
「ふん。下等生物が粋がるのではないわ。《天秤》が上手く働かぬとも関係ない。わらわの《拷問具》は、うぬに十分な苦痛を与える力を有しておるのじゃからな」
「またまた! そんなに照れなくってもいいのに」
「は?」
意味不明なマスターの発言に、ベアトリーチェが間抜けた声を出しました。わたしもまた、発声が許されているのなら、同じ声を出したに違いありません。彼はいったい、どうしてしまったというのでしょうか?
「何を言っておる?」
「僕だけを特別扱いしている。それってつまり、僕に惚れちゃったってことでしょ? 『男は嫌いだけど、あなたは特別よ』って感じ? いやあ、照れるなあ」
「……な、ななな! け、汚らわしいにもほどがあるわ! いいや、おぞましいというべきじゃ! 何をどう考えたら、そんなあり得ない自惚れにたどり着くのじゃ!」
「あれ? 違った?」
ニヤニヤと、マスターは人を食ったような笑みを浮かべています。
「違うわ、ぼけえ!」
怒りに顔を真っ赤に染めて叫ぶベアトリーチェ。激しく取り乱す彼女の姿は、気高き聖女様には到底見えないものでした。
「まるで正反対じゃ! いいか? うぬは、彼女たちに随分と気に入られておるようじゃからな。彼女らの目の前でうぬの精神を破壊し、散々に醜態をさらさせた挙句に切り刻んで処刑してやるつもりなのじゃぞ。そんなわけがなかろうが!」
「うわあ……えげつないこと考えるなあ。あのノコギリでの拷問と言い、ここまでぶっ飛んだ女の子、僕、初めてかも……」
物騒な言葉を投げかけられたにもかかわらず、マスターは感心したようにベアトリーチェに笑いかけています。彼の身体には、相変わらず『黄金』の砂がまとわりついているようでした。
「まあ、いいや。それより、そろそろ皆を解放してもらうよ。嫌だと言うなら、無理やりにでも言うことを聞いてもらうけど?」
「ふん。できるものならやってみるがよい」
さほど広くもない客間の中で、マスターとベアトリーチェはただ二人、立ったまま睨み合っています。
しかし、まさに一触即発の空気が弾けようとした、その時。わたしの『心』に、突如として耐えきれないほどの負荷が発生しました。
「う、あああああああああ!」
悲鳴を上げるわたしの視界を埋め尽くす『色』──それはどこまでも純粋で、一片の曇りもない程に完全な、『暗黒の闇』そのものだったのです。
次回「第97話 狂える鏡と女神の聖女」




