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海怪  作者: 五十鈴 りく
❖ 富くじ

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64/70

富くじ ―伍―

 マル公の食べる鯵を魚河岸から運んできた魚屋にいつものごとく怒鳴りつけられても――いや、向こうは怒鳴っているつもりはなく、口が悪いだけだ――甚吉は真砂太夫のおかげでにこにこと笑顔で受け流せた。

 朝からいいことがあると清々しい。


「さあさ、寄ってらっしゃい寄ってらっしゃい。世にも稀な海のばけもの。遠路はるばるやってきた海のばけもの、お江戸で見られるのはこの寅蔵座(とらぞうざ)だけでございッ。さあさ、御覧じろ、御覧じろ」


 甚吉の兄貴分、長八(ちょうはち)の口上が両国広小路に響き渡る。人でごった返した盛り場でも掻き消されず、いつ聞いてもよい声だ。


 続々と吸い込まれるように、列を作って寅蔵座に入っていく客たち。生け簀ではマル公が、それは可愛らしく愛想を振り撒いていた。


「ヲォ」


 水からひょっこりと顔を出し、小首を傾げてみせる。それだけで客たちは大喜びだ。


「わぁ、可愛いねぇ。こんな可愛い子、見たことないよ」


 小さな女の子が嬉しそうにはしゃいでいる。マル公が内心では『ハッ、あったりめぇだろうがよ』とか得意満面で思っていても、それを知っているのは甚吉だけである。

 見たところは無垢な生き物に見えるのだ。事実、甚吉もずっとそう思って世話をしていたのだから。


 マル公は女の子にヒレを振った。それがあたかも手を振っているように見えて女の子は大層喜んだ。


「おてて振ってくれたッ」

「よかったねぇ」


 優しそうな母親が微笑んでいる。

 今日も満員御礼だった。


 客が引けた後――。


「っぷはぁ。今日も一日よく働いたゼ」


 なんて言って、マル公は生け簀をプカリと漂った。言動が親父くさい。

 まあ、実際に人間の親父だった頃があったのかもしれないのだが。


 前世とやらが人間で、それ故にこんな人間臭いらしいのだ。熱海(あたみ)から来たはずなのに、江戸っ子らしいべらんめぇなのもそのせいではないかと。

 そう考えると腑に落ちることが多いので、多分そう外れてはいないのだろう。


 ――こんなふうに、なんでもない日が過ぎていく。

 このままだと、富くじのある九日なんてすぐだ。どうしよう。


 何も拾わなかったことにしようかと考えた。

 けれど今朝、真砂太夫に富くじのせいで首をくくる者がいると聞き、甚吉が見て見ぬふりをしたら誰かが不幸になるような気になってしまった。この札の持ち主が首をくくったらどうしよう、と。


 甚吉はやはり自分にできることをしようと思い直す。


「なあ、マル先生」

「あぁん?」

「おれ、やっぱり落とし主を探してぇんだ」


 それを言うと、マル公は呆れると思った。けれど、案外落ち着いて聞いてくれた。


「ま、おめぇがそうしてぇってんなら好きにしな」

「う、うん」

「二度と八百善(やおぜん)のきんとんなんぞ食えねぇとしても、まあ仕方ねぇな」

「――――」


 一度ありつけただけで贅沢を覚えないでほしい。あんなことはもうない。

 これが『美味いもん食わせろ』というマル公の催促であったとしても、甚吉は思いきって聞き流した。


「落とし主はこれがなかったら大変なことになるかもしれねぇし」


 甚吉がしょんぼりとつぶやくと、マル公は濡れた口をブブブ、と震わせてため息をついた。


「ホムラ狐によると、落としたのは若ぇ男だって話じゃねぇか」

「そうなんだ」

「だったらよ、博打の末に借金こさえたか?」

「そうかも」


 大いに考えられる。しかし、そう答えた途端に怒られた。


「カ――ッ。だからおめぇのおつむりにはなぁんも詰まってねぇってんだよッ」

「す、すいやせん」


 ひどいことを言われたが、つい癖で謝ってしまう。マル公は生ぬるい生け簀の水をピッピとヒレで飛ばしながら言った。


「んな切羽詰まったヤツが木戸銭払って、のん気にオイラを見に来るわきゃねぇだろうがよぅッ」

「あ――」


 本当だ。そこにちっとも気づかなかった。

 銭のことばかりでなく、何か心配事がある時に見世物小屋に来るような人は少ないのではないか。どんな娯楽も楽しいと思えないはずだ。

 甚吉は少しだけほっとした。落とし主はこの札のせいで首をくくる人ではなさそうだ。


「よかったぁ」


 思わずつぶやくと、マル公はフン、と鼻を鳴らしてからブツブツと独り言つ。


「若ぇ男で、富くじを買ってもまだ懐が冷えきっちゃいねぇ稼ぎの――いいや、生来の博打打ちでたまたま実入りがよかっただけか? あの日、若ぇ男なら何人かいたが、侍やイイトコの若旦那は富くじなんて買わねぇから外すとしても、どいつだぁ?」


 マル公はそれっきり水の中に潜ってしまった。と思ったら、しばらくして浮いてきた。


「若ぇ男なら、住まいは裏長屋か。もしくはどこぞのお店の奉公人かもな。大して銭のねぇヤツが富くじを買う手はいくつかある。まず、人様から金を借りること。おめぇみてぇに拾ったってのもアリだ。そうじゃなけりゃ、仲間を作ることだ」

「仲間?」

「二人とか四人とか数人で割るんだよ。出し合った金で売札を買って、当たったら配当金も割る。実入りは少ねぇが、外れた時だって懐に優しいだろ」

「確かにそうだな。賢いなぁ」


 甚吉は感心してしまった。


「落としたくせに探しに来ねぇのは、落とした番号を覚えていねぇから、自分のだって言えねぇのかもしれねぇな。落とすなんて、それだけでもトンマだがよ、相当なヌケサクだ。もし二人割りか四人割りだとしたら、失くしたなんて言えねぇよなぁ」


 落とし主は今頃くしゃみが止まらないのではないかと思うほど噂されている。しかも、獣から悪し様に。甚吉はハハと苦笑するしかなかった。


「まあ、落としたって言ったら仲間内から半殺しにはされるよな」

「うわぁ」


 マル公の考えが当たっていたら、やっぱり富くじは命取りかもしれない。げにや恐ろしきは人の業である。


プロファイリング・マル公。

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