東両国 後日談
拾吉は、先に新兵衛座に行って世話になった礼と、急に帰ってしまった詫びとを述べてきたらしい。その足で甚吉のところに立ち寄ってくれたのだ。
マル公は拾吉の顔を見るなりツィィと生け簀の端の端に行ってしまったけれど、拾吉は痣も薄れて穏やかな顔つきをしていた。手には小さな風呂敷包みを持っている。
「お前さんには助けてもらった恩があるってぇのに、急に去ってすまなかった」
などと言ってくれた。
色々と思い出しはしたものの、ここ数日のこともちゃんと覚えているらしかった。
甚吉はかぶりを振る。
「いえ、拾吉さん、急いで見えやしたし。急な用事を思い出したんで?」
すると、拾吉は苦笑した。
「うん、まあ、お客様が毎日来られるからな。仕事に穴を空けちゃならねぇって慌てて戻ったんだが、この数日何をしていたと怒られるよりも、俺の無事を皆が喜んでくれて、まあありがたかったなぁ」
「拾吉さんは料理人でやしょう?」
ぽつりと言うと、拾吉は驚いて目を瞬かせた。
「おお、よくわかったな。お前さん、大した目利きだ」
「い、いや――」
目利きなのは甚吉ではなく、その生け簀の隅に潜って息を潜めている海獣なのだが。息をしている泡だけがプクプクと浮かんでは消えている。
「油の中の小判を鮮やかに箸でつまんでたのも見やしたし」
「あんまりにも阿漕な商売をしやがるから、つい手を出しちまったが、返り討ちに遭ってるようじゃ情けねぇもんだな」
拾吉は照れたように笑いつつ、手にしていた唐草模様の風呂敷を甚吉に差し出した。
「これはお前さんに。助けてもらった礼だ。遠慮なく食ってくれ」
「い、いいんで? ありがとうございやすッ」
くれるというのなら、もらってもいいだろう。
拾吉は料理が上手いのだ。それなら、これは美味いものだ。
東両国ですっかりスッてしまった手錢の代わりに美味いものが手に入った。世の中、そう捨てたものではないのかもしれない。
真砂太夫に気に入られた拾吉が妬ましくはあったけれど、やっぱりいい人だと甚吉はさっそく宗旨替えをした。
それが顔にも出ていたのか、拾吉はフッと渋く笑った。
「そうそう、私は国助ってぇんだ。浅草谷中にある『八百善』で料理番をしている。まあ、またこっちに来る用があったら顔を出すさ。じゃあな、ありがとよ」
甚吉はポカンと口を開けて拾吉――国助を見送った。
『八百善』という名はどこかで聞いたことがあるような気がする。しかし、甚吉にはまったく馴染みのないものだから、あまり気にしていなかった。
その時、ずっと生け簀に沈んでいたマル公が浮きあがってきた。
浮き上がったというよりも、勢いをつけて跳ね上がった。その水飛沫が甚吉にまでかかる。
「うわッ、なんだぁ、マル先生ッ。そんな慌てなくったっておれ、独り占めしたりしねぇよ」
国助にもらった包みを自ら庇いつつ甚吉が言っても、マル公が目を回さんばかりに落ち着きなく見えた。
「お、お、おめぇ、何をそんなに落ち着いてやがるッ」
「へ?」
「や、や、『八百善』だぞッ。あいつ、只者じゃねぇと思ったが、まさか『八百善』の料理番だとはッ」
八百善――
それは江戸を代表する高級料亭。
享保二年(1717年)に創業して以来、後に三百年以上も続くことになる老舗である。
その逸話は数知れず、茶漬け一杯が一両二分であったとか、とにかく高直で美味であると語り継がれるのだが、そんな料亭と甚吉が結びつくはずもない。
マル公は知っていたようだが、食ったことはないのだろう。
かけ離れた世のことで、甚吉はピンと来ないながらにも、この手の中の小包が大変なものである気がしてきた。
「あ、開けてみるよ」
「お、おう。気をつけてなッ」
マル公も生け簀の縁から身を乗り出して中を覗き込む。
風呂敷の中には木の箱が入っていた。薄くて小さな箱だ。滑らかで、木目が美しい。
甚吉がその箱の蓋を持ち上げてみると、まず艶やかな黄色が目に飛び込んできた。
「こ、これは――」
なんだろうか。
目にしたこともない。わからないけれど、とにかく美味しそうだった。
マル公も顎が外れそうなくらいに口が開いていた。
「この黄色は、卵じゃねぇか? こうくっきりと色づいてるんだからな、惜しげもなく使ってやがる。今回も世話んなったしな、ホムラも呼ぶか――」
よだれが零れそうになるのを我慢しながらマル公は言った。相変わらず義理堅い。
「そうだなぁ。急いで行ってくる」
置いていって誰かに拾われても困るので、甚吉は小包を包み直し、大事に抱えて稲荷社まで走った。
「穂武良様、穂武良様、大急ぎでおいでくださいッ」
「おぬし、よくこう毎度毎度呼びつけられたものよのぅ――」
そんな呆れた声が社から返ってきたけれど、甚吉は笑って応えた。
「美味いもんがあるんで、一緒に食いやせんか? それで呼びにきやした」
美味いもん、なぁ、とぼやきながら穂武良が白い毛並みを現した。
「じゃ、すぐ来ておくんなせぇ。マル先生が首を長くしてまってやすんで」
首を長く――したところを思い浮かべると笑ってしまいそうだ。甚吉はニヤニヤと堪えきれず、締まりのない顔で小屋に戻った。穂武良はそんな甚吉のすぐ後ろについていたらしく、姿を現すとコホン、と咳払いをした。
「勿体つけて、一体なんじゃ?」
すると、マル公は興奮冷めやらぬ様子でバシャバシャと手ヒレを動かしながら唸った。
「見て驚け、聞いて驚けッ。今回ばかしはもう二度と食えねぇようなシロモンだぜ」
甚吉は粗相をしないように気をつけつつ風呂敷を開き、木箱の蓋を持ち上げた。ふわりといい匂いがした。
マル公と違い、穂武良は落ち着いたものだった。詰め合わせに鼻面を近づけてフンフンと匂いを嗅ぎ、うなずいた。
「伊達巻と紅白蒲鉾、それから栗きんとんだな」
「だ、だて?」
甚吉はもちろんのこと、マル公も知らないようだ。軽く首をひねった。
「なんだそいつぁ?」
「魚のすり身、卵を甘く味つけして焼いたものであるぞよ」
「さすが穂武良様は物知りで」
「ホホホ、前にお染がワタシに食わせてくれたのでな」
得意げに鼻先を上に向けた狐に、甚吉とマル公は冷めた心持ちになった。喜びに水を差されたようなものである。
「このシラタマ野郎がッ。せっかく呼んでやったのに、黙って食えばよかったぜ」
「穂武良様っていいものを食べてるんでございやすねぇ」
「ほんとによ、お染ってガキも『八百善』の伊達巻を猫にやんなよな」
穂武良は細い目を瞬かせた。
「うん? 『八百善』とな?」
「穂武良様が助けてくだすったあのお人、『八百善』の料理番だったんで。それでこの箱は礼だって言ってくれたんでさぁ」
「それはまた、とんでもないものをもらったな。フムフム、『八百善』の料理となるならば、相伴に預かるのもやぶさかではない」
「偉そうなコンコンチキだなオイ」
などと言ってマル公は悪態をつくけれど、事実偉いのだし、世話にもなっている。甚吉はまず、伊達巻をひと切れ穂武良の口に入れ、マル公の口に入れ、そうして、自分の口に入れた。
皆、言葉もなかった。至福としか言いようがない。
甘味と書いて『うまみ』と読ませる江戸庶民の味覚でいうと、甘いものは間違いなく馳走である。舌が、今まで感じたことのない新天地であった。
放心していた甚吉が我に返ったのは、マル公のつぶやきである。
「オイ、甚ッ。呆けてねぇで蒲鉾と栗きんとんも食わせろやいッ」
つぶやきというほど控えめではなかった。眼の色が違う。
「あ、ああ」
続いて蒲鉾、そして、栗きんとんを食べた。栗きんとんも匙がないので手ですくったところ、マル公に手まで食われるかと思った。それくらいの勢いでがっついた後、マル公は真ん丸な目を潤ませ、深々とため息をついた。
「舌が肥えちまうゼ」
それはやめてほしい。切実に甚吉はそう思った。
ちなみに、甚吉の舌は何を食べても美味しい。『八百善』と聞いてさらに美味しいような気がしたけれど、目の前で繰り広げられる談義には参加できそうもなかった。
「この蒲鉾、鱚を使っておるな。しっかりと味わいはあるが、臭みもなく、舌触りも滑らかだ」
「伊達巻も甘ぇが、ただ甘さでごまかしちゃいねぇ。あの絶妙な焼き加減たるや、職人技だな」
「栗きんとんの栗も、最上級の丹波栗と見た」
「上品なあんこみてぇな喉越しが堪らねぇなぁ」
人外たちは饒舌に語り合う。
東両国にて、汗して稼ぐのではなく、楽をして小判をせしめようとした途端、手錢をスッてしまった。世の中甘くはないと学んだつもりが、今、こうして江戸屈指の贅沢を味わっている。これが十二文で手に入ったとすると、元手が化けたことになる。
小判一枚以上の値打ちが、この詰め合わせにはあるのではないだろうか。
これでは、欲張ったと反省したように見えたマル公も味を占めてしまいそうだ。それだけはやめてほしい、と思いつつも、上機嫌で語り合うマル公と穂武良を見ていると、甚吉もまた楽しげな気分になるのだった。
【東両国】完。
いや、八百善の料理番が油の鍋から小判をすくい出したとかいう噂があったとのことで、面白いので採用しました( *´艸`)
一両二分の茶漬けと言われてもどんな価値かピンと来ないかとは思われますので、参考までに。
(*一両小判一枚=二分金二枚)
現在のお金に正確に換算する方法はないので、米価をもとにすると、ざっと六万~十万相当とのことです。九万~十五万の茶漬け……?(*´з`)
茶漬けに必要な美味しい水を汲みに走った駕籠代が含まれているそうです(え?)




