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海怪  作者: 五十鈴 りく
❖ 東両国

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56/70

東両国 ―玖―

 そんなことがあった翌日は平穏に過ぎた。

 マル公があんまりにも怯えるから、拾吉を呼ぶのはもうやめておこうと思う。

 相変わらず、拾吉の身元はわからずじまいのようだ。今日も新兵衛座の手伝いをしているところを見かけたからわかる。


 真砂太夫たちがいよいよ困っているだろうと思ったのだが、見たところ、厄介者を扱いあぐねているという様子はなかった。拾吉はよく働くようだ。むしろ喜ばれているように見えた。

 やはり、厳しく育てられたどこぞの奉公人なのだろう。間違ってもやくざ者ではない。マル公が怯える何かを持っているとしても。


 ――いい人だと思う。

 少なくとも、いつも穏やかだ。何も覚えていないのにああなのだから、それは拾吉がもともと持つ気質なのだろう。


 それに、昨日は寅蔵から甚吉を庇ってもくれた。

 出会った時も、曲がったことを許さない、まっすぐな態度であった。きりりと締まった顔をしていて、それが格好良く見えたのだ。


 しかし、ほんの数日しか経っていないというのに、拾吉は尋常ではなく新兵衛座に馴染んでいる。男衆たちまでもが妙に拾吉に懐いて見えた。

 真砂太夫の美しさにも見慣れた男たちが、まだ顔の腫れた拾吉をちやほやしている。


「拾吉さん、今日もありがとよッ」

「あんた、最高だぜッ」


 拾吉は照れたように頭を下げている。そんな場に出くわし、甚吉はなんとも言えない心持ちであった。そこへ真砂太夫もやってきた。


「拾吉さん、あんたのことを捜しているお人がきっといるんだろうけど、ずっとここにいてくれたらいいのにねぇ。まあ、無理だってわかっちゃいるけどさ」


 少し拗ねたように、可愛らしくそんなことを言っている。


「ありがてぇお言葉でございやす」


 あの痣がなかった時は、見目だけでなく言動などからも甚吉でさえ格好いいと思ったのだが、真砂太夫にとってもそうなのだろうか。甚吉では太刀打ちできない大人の男の渋さが、真砂太夫にとっても好ましいものなのだろうか。


 じっと見ていると切なくなった。甚吉はそれをごまかすようにして駆け出し、マル公のもとへ逃げ込んだ。

 マル公は、生け簀の中でプカリと浮いていた。どうやら、何か考え事をしている。

 しかし、甚吉が来たことにより、マル公は顔を甚吉に向けた。


「なんだぁ、シケた面しやがって」


 ハハン、と鼻で笑われた。労ってはくれない。

 甚吉はしょんぼりと語る。


「あの拾吉さんのこと、真砂太夫がすっごく気に入ってるみてぇなんだ。真砂太夫だけじゃねぇ。新兵衛座の皆が気に入ってる。あんな短い間で打ち解けて、すごいお人なんだ」


 別に、真砂太夫と甚吉が特別親しいわけでもなく、真砂太夫は皆に親しみを向けてくれる。甚吉が拗ねる方がおかしいのだ。

 マル公にも呵々大笑されても仕方のない愚痴であった。しかし、マル公は拾吉の話題が出ると笑ってもいられないらしい。静かに沈んだ。


「マル先生、拾吉さんは来ねぇから」


 一応言うと、急に浮き上がってきたマル公に手ビレで水を引っかけられた。


「オイコラ、オイラが水に潜って隠れたみてぇに言うんじゃねぇッ。ちっとばかし考え事をしてただけだろうがよぅッ」

「す、すいやせん」


 怒られると素直に謝る癖がついてしまっている甚吉であった。

 マル公はふぃぃ、と妙な音を立てて息をつく。


「拾吉のヤツは天麩羅屋じゃあねぇにしろ、十中八九、料理人だ」

「うん?」

「新兵衛座の連中が懐いたのはな、きっと飯が美味ぇからだな」

「そ、そうなのか」


 油鍋の中の小判をつまみ出したあの手際を思い出す。料理をしている様を思い浮かべてみても似合っているような気がした。


「ああ、それもかなり腕っこきの料理人だろうよ」


 と、マル公は身震いしながら言った。

 食いしん坊なマル公が、料理人の拾吉を恐れる。むしろ興味を持つ方だと思ったので、甚吉にはそれが意外だった。


「そんな腕前なら、マル先生も拾吉さんの料理を食べてみてぇかい?」


 新兵衛座の皆が惚れ込んだ味ならば、事実美味いのだろう。けれど、そんな甚吉の何気ない問いかけに、マル公は小刻みに震え出した。


「く、食えるモンならな。その前にオイラが料理にされちまう」

「へ?」

「ヤツのあの目ッ。ありゃあ、品定めしてやがる目つきだ。オイラのこと、魚だと思ってやがるッ」


 マル公はそう言うと、バシャバシャと水を跳ね上げた。

 プリリと丸い胴には脂がのっていそうではあるが、マル公の口の悪さを知っている甚吉としては、食べたってきっと美味しくないと思う。


 料理人である拾吉には、マル公が食材に見えてしまった。未知の魚はどのような味がするのか――そんなことを考えながら眺めていたのだとするのなら、それを察したマル公は確かに怖かったことだろう。

 隙を見せたらろされてしまう。マル公の怯えは本気であった。


「料理人かぁ」


 甚吉はつぶやいた。

 それなら美味いものをたくさん作り、自らも食してきたことだろう。それが少し羨ましくなった。そして、料理が上手いと真砂太夫が喜ぶのかと、よこしまな理由でも羨ましく思った。

 

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