判じ絵 ―玖―
「アザラシ、なぁ――」
初詣が去った後、甚吉はマル公と差し向かいでつぶやいた。
「マル公はその呼び名を知っていたのかい?」
賢いマル公だから、もしかすると知っていたのかとも思った。けれど、マル公は丸い首を横に振った。
「知らねぇよ。んな名を知ってんのは学者か物好きくれぇだろうよ。戯作者はな、話のモトになりそうなもんを探してるから、変な知識も持ってんのサ」
そうなのか。
この時、マル公は何故か上機嫌に見えた。その場を動かず、水の上を丸太のようにクルクルと横に回っている。
「しっかしまあ、読んだ話の戯作者と会うことがあるとはなぁ」
「うん。なんかいろいろと大変そうだったけど」
「大変は大変かも知れねぇけどよ、そりゃ楽しいし好きでやってんだからな。オイラだって三度の飯より本が好きでな、馬琴先生の貸本は貸し賃も高ぇけどよ、ちょっくら飯を抜いてでも読みてぇって思ってな、ひもじいながらに楽しかったもんだゼ」
「三度の飯よりって、マル公が飯を抜けるのかい?」
思わず言ってしまった。食いしん坊なマル公だから。
そうしたら怒られた。
「カーッ、ふざけてんじゃねぇぞコラッ」
ふざけてはない。本気である。
甚吉は少し笑うと、懐の本のことを思い出した。
「あ、この本を真砂太夫に返してこねぇと」
「おお、ねぇちゃんのおかげで楽しかったゼ」
マル公は本を読めてよほど嬉しかったらしい。マル公が嬉しいなら甚吉も嬉しかった。
小屋を出て、新兵衛座の方へ急いだ。早くしないと真砂太夫も帰ってしまう。裃を脱ぎ、さっぱりとした単姿の真砂太夫が薦のそばに立っていた。甚吉は声をかけながら駆け寄る。
「真砂太夫、お疲れ様でございやすッ」
「ああ、甚吉かい」
美しく、艶やかに微笑む。甚吉はさっきまで話していた初詣のことも吹き飛んでしまいそうなほど、その笑みに釘付けになる。
しかし、そこでハッとした。呼び止めた用件まで忘れてしまうところであった。
「この本をお返しにきやした。ありがとうございやす」
甚吉が差し出した本を、真砂太夫は芸達者な繊手で受け取った。
「もういいのかい?」
「へい。――あの、実はおれには難しすぎて読めやしねぇんで、ちょっと賢いお人に読んでもらって、どんな話か教えてもらいやした」
賢い振りなどするだけ苦しい。甚吉には見栄など張る意味もないのだ。正直に生きるだけなのだから。
すると、真砂太夫は優しい目をした。
「そうかい。それでもね、本は面白いものだろ。自分じゃあない誰かになったような気分になったり、笑ったり、スッと胸がすいたり。甚吉もその賢いお人に習って読めるようになるといいのに」
「ちょっとずつ、教えてもらうのもいいかもしれやせん」
真砂太夫がそう言うから、甚吉も本が読めるようになりたいと思えた。それは、読んだ本の話を真砂太夫とできるようになるから、という下心からではない。しかしながら、その下心がまったくないかと言えば、そう言いきることはできないのだけれど。
「じゃあね、甚吉。またね」
そう言って、真砂太夫は帰っていった。その背を惚れ惚れと眺めつつ、一度マル公のもとへ戻る。すると――
ぷぅぷぅと鼻提灯を出して眠っていた。
昨日は寝ていないのだ。眠たいのは甚吉も同じであるけれど、マル公も眠たかったらしい。
邪気のない寝顔で生け簀を漂うマル公を眺め、甚吉はくすりと笑った。
甚吉も早く寝ないと明日こそ起きられないと思い、晩飯に佃煮を添えた茶粥を食べ、そうしてひとつあくびをすると、皆と同じ茣蓙の上に転がった。
そうして、目を閉じる。
けれどその時、ふと、正体のわからなかった小さな引っかかりが蘇ってきた。
『――オイラだって三度の飯より本が好きでな、馬琴先生の貸本は貸し賃も高ぇけどよ、ちょっくら飯を抜いてでも読みてぇって思ってな、ひもじいながらに楽しかったもんだゼ』
よく考えたら、変だ。
生け簀から離れられないマル公が、どうやって本を借りるのだ。大体、銭も持っていないのに。
いや、その前にどこの貸本屋がマル公に本を勧めるというのだ。
えぇ? と、思わず呻いたら、寝言がうるさいと長八に頭をぽかりとやられた。
痛む頭を摩りつつ、甚吉は思う。
これは何かの聞き間違いであっただろうかと。
そうでなければ一体なんだというのだ。




