判じ絵 ―漆―
チュンチュン、と雀の鳴く声で甚吉は我に返った。
マル公は、一度読んだだけでは飽き足らず、二度読んだのである。穂武良は狐火を出し、そこにいた。
どうやら穂武良が眠ってしまうと狐火も消えてしまう。一度居眠りをした途端、辺りが真っ暗になり、マル公が生け簀の縁をドシドシと叩いて起こしたのだった。
神使の狐でも眠たくなるものなんだな、と甚吉はぼんやりと思った。そういえば、染に緋縮緬の紐を首にくくりつけられるという災難も縁側でうたた寝したせいであったかもしれない。
穂武良でさえ眠たいのだから、ただの小僧である甚吉が眠たくないわけがない。しょぼつく目を擦りながらマル公に訊ねた。
「それで、マル先生。なんかわかったのかい?」
すると、マル公は大きくうなずいた。マル公も眠っていないというのに元気なものだ。
「ああ、わかったゼ。恵比寿初詣――侮れねぇな」
何がどう侮れないのか。
しかし、ここからは訊ねるべきではなかった。いや、訊ねずともきっとマル公は語ったであろう。その本を。
「まあ、オイラにはちっとばかし色恋がどうだとか甘ったりぃとこもあったけどよ、まあよくできてら。判じ絵の謎解きが上手く絡めてあってな、そこが盛り上がらぁ。こりゃ、女子供にゃ丁度いいんじゃねぇのか。ただ、惜しむらくは最後の詰めの甘さだな。めでたしめでたしってぇには都合がよすぎら。身分差のある男と女、もうちっと周りが騒ぐだろうがよ。ここんところ、納得のいくように書けてりゃもっとよかったよな。若侍がたまに見上げる空だの、梅の枝だの、そこんとこが思い浮かべやすくて綺麗なもんだったな。初詣のヤツ、日頃から俳諧でもやってんじゃねぇのか」
べらべらと、朝からよく喋る。その話のすべてが疲れた甚吉の耳には入ってこなかった。それは穂武良も同じであったようだ。
「日も昇った。ワタシはもう帰るぞよッ」
その時、マル公は穂武良を呼び止めた。ヒレで手招きするようにも見える。
「待て待て」
「うん?」
「あのな、戯作ってぇのは奥が深ぇんだ」
甚吉は疲れたけれど、それでもなんとかマル公の話を聞こうとした。しかし、マル公はいつも以上に饒舌であった。
「まずなぁ、曲亭馬琴は別格よぅ。『椿説弓張月』『南総里見八犬伝』、あの才は崇め奉っても釣りがくらぁな。で、合巻の傑作としちゃあ柳亭種彦の『偐紫田舎源氏』、滑稽本は十返舎一九の膝栗毛モノ、式亭三馬の『浮世風呂』『浮世床』だろ。それから、人情モノといえば為永春水の『春色梅児誉美』は外せねぇぜ」
早口でまくし立てる。しかし、その著者と題名の羅列がどれほど甚吉の中に残っただろう。何ひとつと言っていいほど残らなかった。
「オイラはな、どっちかってぇとサッと読めちまうようなモンより、長くしっかり作り込まれたモンの方が好みなんだよなぁ。その方が読みごたえがあるだろ、なぁ」
聞いてんのかとばかりに甚吉に振るけれど、眠い。ぐったりとした甚吉を嘲笑うかのように雀のさえずりが聞こえる。そして、気づいたら穂武良の姿はなかった。いつの間にやら消えている。
それでも、マル公は目をキラキラと輝かせて語るのであった。美味い食い物を食った時と同じほどに上機嫌である。
マル公が嬉々として『判候恋花夢』を語るから、文字の読めない甚吉でさえもその本を読んだような気になれた。お侍は大変だなと思いつつ聞いていた。
しかしながら、拾った判じ絵の謎は解けぬままであった。戯作と関係があるなどとは誰も言っていないのだけれど、マル公があまりに夢中になるから、関連づけてしまいたくなっただけだ。これはもう、ただの落とし物、で片づけるしかないのだろうか。
そうして、いつもの支度をしなければならない頃合いになった。甚吉は本を懐に入れて立ち上がる。これは真砂太夫に返さなくてはならない。自分のものであれば、もっとゆっくりマル公に読ませてやれるけれど、生憎と本は食い物以上に高価なものだから、それは無理な相談である。
背中を向けた甚吉は、バシャンという大きな水音に気を取られて振り返る。すると、マル公は水音を立てた後、下を向いてぽそりと言った。
「甚、ありがとな」
ひねくれたマル公が素直な礼を口にする。これは相当に嬉しかったのだ。そんなマル公を見たら、眠たくとももう何も言えなかった。
「いいや、マル先生が楽しかったならよかったよ」
自然と笑いが込み上げる。さあ、今日も気張って仕事をせねば。
甚吉は、その大事な本を懐にしまい込んで仕事をした。見世物小屋を仕舞ったらこの本を真砂太夫に返すつもりであった。
ただ、人がごった返す中、餌の魚が入った盥を頭上に掲げ、少し身をよじった拍子に本が甚吉の懐からぽろりと落ちた。
「あ――」
手が塞がっている甚吉であった。大事な本が見物客に踏まれてしまう。そう思った時、その本を拾い上げてくれた手があった。
「落としたぞ。――ん?」
何度か見物に訪れてくれている品のよい老爺であった。その老爺は本を見るなり何度も目を瞬かせた。
「すいやせん。それ、返さなくちゃならねぇ貸本なんで」
甚吉が慌てて言うと、老爺はハッとして本を甚吉の懐に差し込んでくれた。
「ありがとうございやす」
人に揉まれながら軽く頭を下げると、老爺はにこにこと微笑んでうなずいた。それは何度もうなずいた。
甚吉は餌が遅れて苛つく客の声で我に返り、慌てて桶を抱えて急いだのであった。
そうして、その老爺は最後の客が去るのを何故だか最後まで待っていた。




