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海怪  作者: 五十鈴 りく
❖ 判じ絵

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判じ絵 ―伍―

 翌日、甚吉は朝稽古をする真砂太夫に大きく手を振って駆け寄った。


「おはようございやすッ」


 真砂太夫は手にしていた扇をぴしゃりと閉じ、そうして甚吉の方に振り向く。その振り向きざまの流し目の美しさといったらない。甚吉はいつものごとく見惚れてしまったけれど、真砂太夫は快活に笑った。


「おはよう、甚吉。朝から元気だねぇ」


 またマル公に嫌味のひとつも言われそうだけれど、朝から真砂太夫と話せるのだから、それくらいは我慢する。


「あ、あの、実はこんな判じ絵を見つけたんで。これ、『水からくり』のことなんじゃねぇかって教えてもらって、もしかして真砂太夫なら何か知ってやしねぇかと思いやして」


 懐から取り出した紙を広げて見せる。マル公に教わった通りの説明を甚吉はたどたどしいながらに繰り返した。

 すると、真砂太夫はそれを受け取ってからふぅんとつぶやいた。


「そうだねぇ。水からくり――なるほどねぇ」

「真砂太夫に心当たりはありやせんか?」

「さあ、よくわからないけど、そういえば客の中にもこんなのを拾っていた人がいたかもしれないねぇ」


 判じ絵はまだ落ちていた。どうやらこの界隈に落として回っている者がいる。

 そこで真砂太夫はふと思い出したかのように目を瞬かせた。


「あ、判じ絵で思い出した」

「へい?」

恵比寿えびす初詣はつもうで

「へぇえい?」


 甚吉が思わず変な声を上げてしまったのも無理からぬことだろう。真砂太夫はクスクスと軽やかに笑う。


「いや、ね、貸本屋が持ってきた貸本の中に恵比寿初詣っていう戯作者げさくしゃの本があって、それが判じ絵にまつわる話だったのさ」


 戯作者、つまり戯作を作り出す人であり、その名は仮の名である。目立ってなんぼと思うのか、変わった名前が多いらしいが、これもまたあんまりな気がする。


「そ、そいつぁどんなお話で?」


 ふざけた名前の戯作者だ。きっとふざけた話なのだろう。そんな本を真砂太夫は何故借りたのだろうかと。ちょっと複雑な心境の甚吉であった。

 すると、真砂太夫は扇の先を自分の艶やかな唇に向けて言った。


「うん、若侍が惚れ込んでいる武家の姫が陰謀に巻き込まれて攫われてしまうんだよ。で、そのお姫様は見つからないように判じ絵を猫の首に巻いて助けを求めるのさ。愛しいお姫様を探して駆けずり回っていた若侍は、その判じ絵に導かれてお姫様を助け出す、そういうお話だよ」


 初詣はまったく関係ない、むしろ純然たる恋の話であるようだ。面白かったのかどうかは知らないけれど、判じ絵と聞くと少し興味があった。ただし、甚吉に難しい字は読めない。


「甚吉、気になるのかい?」

「え、あ、まぁ」


 と、曖昧な返事をした。すると、真砂太夫はフフ、と優しく笑った。


「甚吉が自由に使える時は少ないだろうし、ゆっくり貸本なんて読んでいられないか。でも、ちょっとくらいならどうだい? まだ借りているから、後で持ってきてあげるよ」

「いいんですかい?」


 読めないとは言えなかった。それでも、真砂太夫がこう言ってくれているのだから断りたくはない。

 けれど、この本と二枚の判じ絵が繋がるわけではないだろう。マル公にはきっと悪態をつかれる。何してやがったと。

 損ねた機嫌を回復するための『うめぇもん』もない。ここは素直に叱られよう。そうしよう。




 しかし、事態は思わぬ方へ動いたのである。


「甚吉、これ」


 見世仕舞いしようと外へ出た時、真砂太夫が再び声をかけてくれたのだった。その頃に甚吉は本のことなどすっかり忘れていて、一日に二度も真砂太夫と口が利けてデレッとしただけである。


「貸本屋が今度来るのは二日後だから、あんまり長いこと貸してあげられないんだけど。それでもいいかい?」


 差し出された本は、難しい漢字と手を取り合う男女の錦絵がられていて、右側を糸で綴じられている。それは薄い本であった。


「あ、ありがとうございやす」


 甚吉は顔が引きつらないように気をつけて礼を言った。借りた以上はこの本の内容をなんとしてでも知らなければならないような気になった。


 しかし、さすがのマル公も海の生き物でしかない。こんなに難しい字は読めないだろう。一座の皆もそうだ。そうしたら、甚吉が頼れるのは誰だ。読めそうな候補は、巽屋の嘉助だろうか。もしかすると、稲荷神の使いである穂武良ほむらならば読めるかいそもしれない。狐だが、賢そう――に見ようと思えば見えなくはなかった。


「じゃあね、また明日も頑張りなよ」


 にこやかに手を振って真砂太夫は去った。その背中を見つめ、本を胸に抱き、甚吉はしばし考え込んだ。そうして本を再び眺める。パラパラとめくってみたら、独特の紙の匂いがした。

 しかし、中はやはり表紙以上に難しくてまるで読めない。


 甚吉は仕方なく本を手に小屋に戻った。皆で夕餉の茶漬けを掻っ込み、それから甚吉はマル公のところへ行った。

 マル公は――今日も大勢の客に囲まれて疲れた様子であった。無気力に、生け簀をぷかりと漂っている。そんなマル公に甚吉は声をかけた。


「マル先生、あのさ、真砂太夫がこの本を貸してくれたんだ。この本にも判じ絵が出てくるんだって」


 その途端、マル公は大きな水音を立てて生け簀の縁に両ヒレを突いた。そうして、尾ビレでバシン、と水を跳ね上げる。いきなりすぎて甚吉の方が驚いて飛び跳ねてしまった。


「本だとッ」

「そ、そうなんだ。でも、貸本だから二日後には返さなくちゃいけないんだ。難しい字ばっかりでおれには読めねぇし、どうしよう――」


 そうつぶやくと、マル公は大層な剣幕で牙を見せて怒鳴った。


「そいつぁいけねぇッ。おい、甚ッ。稲荷社までひとっ走り、大急ぎでホムラ狐呼んできなッ」


 やはり、マル公も穂武良ならば読めると思ったようだ。甚吉は慌ててうなずいた。

 このマル公の様子からして、急を要する。日が沈む前に急がねば。

 甚吉は小屋を抜け出し、稲荷社まで駆け出した――


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