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海怪  作者: 五十鈴 りく
❖ 稲荷

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28/70

稲荷 ―伍―

 ――それでよいのかどうかは別として、甚吉は芝居小屋を出た。外へ出て辺りを見回しても、とりあえず白猫の姿はなかった。


 さてどうしようかと甚吉がしばし考えていると、そこに隣の見世物小屋の稼ぎ頭、真砂太夫がやってきた。

 齢十七の瑞々しい姿。青海波の単を着て、舞台の後だろう。得意の水芸は成功したのだと、その高揚した顔を見ればわかった。


「甚吉」

「真砂太夫、お疲れ様でございやす」


 ぺこりと頭を下げると、真砂太夫は苦笑した。いつまでも堅苦しいと思っているのだろう。


「甚吉も疲れただろうね。今日も一日よく頑張ったね」


 こんなふうに下っ端の甚吉にまで優しい言葉をかけて労ってくれるのは真砂太夫くらいのものである。

 その上、飛び抜けて美しいのだから、甚吉が猫狐のことを少し忘れてデレッとしてしまったのも仕方のないことだろう。


 ただ、それも少しのことだ。甚吉はすぐに思い出した。

 そうしてそれを真砂太夫に訊ねる。


「あの、この辺で首に緋縮緬の紐を巻いた白い猫を見やせんでしたか」

「猫? ――ああ、見たかもね。客の中に猫を抱いた女の子がいたよ」


 その猫があの稲荷神の使いで、女の子がくだんの女の子なのかはわからない。けれどもしそうだとしたら、あの猫狐は女の子が連れて帰ったのだろうか。


 甚吉は少し悩んだ挙句、今日はもう如何いかんともしがたいという結論に達した。明日、もう一度稲荷社へ赴き、様子を見よう。そこで出会えなければ、マル公の言う通り別の稲荷へ足を向けるしかない。

 いつかまた出会った時、縮緬を外してやれたらいいのだけれど。


「それならいいんです。ありがとうございやす」


 真砂太夫に頭を下げ、甚吉は小屋へと戻った。



     ●



 翌朝に稲荷社へ出かけたかったのだが、生憎と今日は生け簀の水を抜いて入れ替える日である。これをやらなかった日には、マル公が怒り狂い、暑さで腐りかかった水をヒレで盛大に甚吉へ浴びせかけることだろう。この臭さをお前も味わえと。


 マル公は綺麗好きである。事実、稼ぎ頭のマル公に腐った水の中を漂わせるなんてあんまりだろう。せっせと水を抜き、藁縄で底を磨く甚吉に、盥にちゃぷんと収まったマル公がのん気に声をかけてくる。


「おぅおぅ、ちゃっちゃと手を動かしやがれ。狭ぇじゃねぇか」


 あれは悪意あってのことではない。ただ退屈で構ってほしいだけなのだ。しかし、甚吉は忙しい。


「急いでるよ」


 シャカシャカシャカシャカ。

 甚吉が床を磨く音がマル公との間にある。そうしていると、マル公は盥の縁に顎を載せ、だらしなくつぶやく。


「ン。そういやぁ、あのコンコンチキ、今朝は来ねぇなぁ」

「うん。もしかすると来るかと思ったんだけど、来ないな。見世物が終わったら一度稲荷社に行ってこようかと思うんだけど」

「コンコンチキのこたぁいいんだが、オイラ稲荷寿司が食いたい」


 ――また始まった。

 マル公の食い意地はいついかなる時でも衰えを知らない。毎日たくさん魚を食っているというのに、食への好奇心が強く、人の食べ物に興味を示すのだ。腹を壊そうと、喉を詰めようと、それでも諦めない。すごい根性だとは思うけれど。


「何も稲荷寿司丸ごと一本とは言ってねぇぞ。ひと切れでいいんだ。食わせろやい」


 稲荷寿司は主に屋台で切り売りされている。寿司ではあるものの、握り寿司よりも羊羹のような棹物菓子を連想させるような細長さだ。一人で丸ごと食べるには大きく、ひと切れ四文から切り分けて売ってくれる。


 甚吉自身も稲荷寿司を食べたことなど、今までに一度くらいしかない。甘辛い油揚げの中のには酢飯が詰まっており、キクラゲやかんぴょうの歯ごたえもよく、美味いものであったとは思う。

 飲んだ帰りに小腹を満たすのにちょうどいいとのことで、夜の方がよく売れるから、日が暮れた頃でも手に入りやすい。


「うん、まあ、また――」


 食いたいというのなら食わせてやりたい。ただ、今はあの猫狐――いや、それは少し違う――照の体を治してやりたい。それが先であって、そのためにはちゃんと稲荷神へ祈りを届けたいのだ。


 そんな甚吉の気持ちを賢いマル公が読めないわけではなかった。ふぅ、とひとつ息をついてから言った。


「あのコンコンチキが娘っ子に捕まってるとするだろ? 思わずくつろぎたくなるような縁側なんざ、まあそれなりのたなだろうよ」

「そうだろうな。おれ、縁側のある家なんてあんまり知らねぇよ」

「――でな、大店ってぇのは奉公人やらなんやら人の思惑が渦巻くところだからなぁ。そうじゃなくても大店の主なんてぇ金のあるヤツは恨みも買いやすい。ま、おめぇみてぇなどんくせぇのは関わらねぇに越したことねぇぞ」


 やたらと猫狐を放っておけと言うのは、単に気に食わないからではなく、甚吉が厄介ごとに巻き込まれるという心配を、もしかするとマル公はしてくれているのだろうか。


 だとしたら――鈍くさいという一か所を聞き流せば――嬉しいけれど。

 甚吉はくすりと笑った。


「おれみたいな貧乏人、巻き込まれるどころか相手にされねぇさ」

「ほんとにわかってんのかねぇ、おめぇは」


 などとマル公の小言が聞こえた。


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