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海怪  作者: 五十鈴 りく
❖ 稲荷

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27/70

稲荷 ―肆―

 そんなわけで、甚吉はこもの陰から自分を恨めしそうに眺めている白猫になるべく目を向けないようにしながら生け簀を掃除した。今日は生け簀の水を丸ごと抜く日でなかったのが幸いだった。


 ただ、放っておくと甚吉の願い――照の快癒が叶わぬのも困る。手が空いたら縮緬の紐を解いてやろうとは思っている。猫狐には他に頼る相手――声が聞こえる相手もいないのだろうから。


 雑念は置いておいて、今は必死で体を動かさねば間に合わない。這いつくばりながら板敷を雑巾で拭き清める甚吉を、マル公は涼しい顔をして泳ぎながら眺めていた。右にスィッと、左にスィッと、おちょくられている気がしないでもない。



 ――その末に、なんとか体裁は整えた。いつもの何倍も朝から疲れが溜まった甚吉であった。

 しかし、まだ仕事は残っている。


 夏も盛りの西両国。

 雲の白さと青い空の鮮やかな朝。


「さあさ、寄ってらっしゃい寄ってらっしゃい。世にも稀な海のばけもの。遠路はるばるやってきた海のばけもの、お江戸で見られるのはこの寅蔵座だけでございッ。さあさ、御覧じろ、御覧じろ」


 甚吉の兄貴分、長八の口上が賑やかな両国の中でもひと際よく通る。薦掛けのチャチな小屋が並ぶ広小路。のぼり丹青たんせいが咲き誇る。


 あまりの人の多さに、あの猫狐がおののいている。薦の陰にアタフタと隠れた。この人々の目当てがマル公だと知ったら驚くだろうか。そう思ったらクスリと笑いが零れた。


 さて、と甚吉がしまっておいたマル公の餌となる魚を箱から取り出した時、向こうから寅蔵親方の胴間声が飛んだ。


「おぉッ、魚目当てに猫が来やがったな。おめぇにやる分はねぇよ。失せやがれッ」


 寅蔵親方の太い指が、白猫の毛によく似合っている緋縮緬の紐をチョイとつまんだ。白猫はにゃあとも言わなかった。

 それは仕方がない。

 実は猫ではないのだから、とっさににゃあとは鳴けない。


 甚吉はこの時、あ、とかう、とか、とりあえず何かを言ったと思う。けれど、そんな小さな声は雑踏に消えた。緋縮緬で吊るされた猫は、さすがに首が締まる。そこで千切れてくれたらよいのだけれど、案外丈夫であった。


 猫の首が締まると親方も気づいてくれたらしく、首根っこの皮に持ち替えてくれた。ただ、ぶらんと猫がぶら下がっている現状は何も変わらない。


 寅蔵親方に連れ去られていく白猫。

 その目が甚吉に向いた時、とても恨めしげであったような気がするのは、甚吉の罪悪感の表れであろうか。

 しかし、下っ端の甚吉が寅蔵親方に逆らえるはずもなく、虚しく見送るしかない。そんな目で見ないでほしかった。


 せめて化けたものが猫ではなく、犬や雀であればよかったのか。そう思うと悔やまれてならないけれど、後の祭りである。

 白猫を見送った甚吉は、許してくだせぇ、と心で拝み、そして魚の入ったたらいを抱えて仕事に戻った。


 これを後の人は不可抗力と呼んだ――かもしれない。



 しかしまあ、甚吉にしてもマル公にしても今が掻き入れ時である。猫狐にばかり構ってもいられなかったのだ。人気者のマル公は多忙である。よって、甚吉も忙しい。


 いつもの口の悪さは可愛い顔の陰に隠し、ヲゥッと元気よく鳴いて客に愛想を振り撒いている。


 マル公は、ちょっと弱々しい子供には特に構う。小首を傾げたりと可愛い子ぶってその子を見る。

 本当は触ってみたいのに、親兄弟の陰に隠れてしまうような子供をその陰から引っ張り出すことで、きっと勝利を噛み締めているのだろう。ケケケ、釣られやがった、と。


「か、可愛いねぇ」


 と、マル公を指でつつき、嬉しそうに頬を染める子供に、甚吉は少しばかり複雑な心境である。



 そうして、今日も忙しく働き、客が引いた頃になって、甚吉は生け簀で泳ぐマル公とようやく二人きりになった。それでようやくあの猫狐が寅蔵親方に連れていかれたことを告げた。


「ちょっと悪かったかな?」

「そうかぁ?」


 とても気のない返事であった。ついでに魚臭い曖気げっぷまでした。


「おれ、お照さんが元気になりますようにってお願いしたんだ。あの猫をなんとかしないと、神様まで願い事を伝えてくれねぇんだろ? やっぱりおれ、ちょっと探してくるよ」


 はぁ、とため息をつくと、マル公はスィーと泳いで生け簀の縁までやってきた。そこにてん、とヒレを突く。


「待ちな、甚」


 どうせあんなコンコンチキはほっとけとか言うのだろう。

 しかし、マル公は言った。


「オイラが願いを叶える知恵を授けてやる」

「え?」


 意外なひと言であった。思わず、生け簀の前に行儀よく正座して拝聴しようと構える甚吉に、マル公は言ったのである。


「このお江戸には稲荷社が溢れてやがる。つまりだな、あのコンコンチキを探すよりも別の稲荷社に行きゃあいいんじゃねぇのか?」


 つまりその別の稲荷社にはちゃんと別の神使がいて、しっかりと稲荷神への報告も行っているだろうと。


「そ、その場合、あの猫は――?」

「店の娘っ子が可愛がってくれるだろうよ」


 ハハハン、と笑っている。

 甚吉の願い事は急ぎの用である。猫狐を探すより他の稲荷社へ向かった方がもしかすると確実かもしれない。


 しかし、それでいいのだろうか。


「え、ええ、と――」


 いいのだろうか。


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