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海怪  作者: 五十鈴 りく
❖ 稲荷

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26/70

稲荷 ―参―

 稲荷社から逃げ帰った甚吉を、この怪しげな猫はつけてきたのだ。

 甚吉はマル公と白猫の間で大いに慌てた。マル公の口は悪く、口喧嘩なら勝てるかもしれないけれど、実際に猫と戦えるとは思えない。

 引っかかれたらどうしようかと甚吉は青ざめたけれど、よく考えたら相手は猫。水が苦手なはず。


「マ、マル先生ッ。生け簀の奥まで逃げてくれッ。相手は猫だから泳げねぇはず――」


 すると、マル公はハァン? と呆れた声を出した。


「なんでオイラが逃げなくちゃならねぇんだコン畜生」


 その身を案じた甚吉にひどい暴言である。

 しかしまた、猫もどこか呆れている様子であった。


「これ、ワタシが悪さをすると思うておるのだな? だから、まずは話を聞けと言うておるのに」


 と、猫はため息をついてから小首をかしげた。


「うん? そこな生き物、なんとも面妖な見てくれをしておるのう」


 とても余計なことを言った。マル公の頭の筋がピチッと鳴った気がした。

 つぶらな目を尖らせ、マル公は水飛沫を立ててガーッと吠えた。その激昂っぷりは甚吉が今までに見た中では一番のことである。


「面妖たぁどの口がほざきやがる、このコンコンチキがぁッ」


 牙を剥くマル公に、甚吉はあああ、と意味のない言葉を吐きつつうろたえた。けれども、猫は澄まし顔である。


「ほう。ワタシの正体が見抜けるとは、見てくれの割になかなかやるのう」

「うるせぇふざけんなコルァアッ」


 水をばしゃんばしゃんと跳ね上げて怒るけれど、この猫に喧嘩を売ってもいいものなのだろうか。甚吉はただただ不安である。


「ほ、ほら、マル先生、落ち着いてくれ」


 このままでは掃除もできない。見世が始まる時刻は迫りくるのに、甚吉は一体どうしたらいいのだろう。

 マル公は宥めにかかった甚吉をキッと睨んだ。


「オイ、甚ッ、こいつァなァ、猫じゃねぇ」

「へ?」

「猫のフリしてやがるだけだ」


 甚吉はおずおずと猫を見た。どこからどう見ても白い猫である。しかし、マル公がそう言うのならば猫ではないのかもしれない。

 猫はホホホと笑った。


「その通り。ワタシは稲荷神様の使いであるぞよ」


 稲荷の使いのコンコンチキ――つまり、狐だということか。狐は化けるというけれど、何故猫に化けているのかはよくわからない。目立ちたくなかったが故のことだろうか。

 甚吉なりに考えを述べた。


「神様のお使いってぇなら、神様の御用で猫に化けなすったのか?」


 それは深い考えではなく、とっさに浮かんだ疑問であった。

 けれど、その途端に猫は鉄砲で撃たれたかのようにして、うぐっと唸った。


「そ、それは、だな」

「まどろっこしいじゃねぇか。話があるってぇならさっさと喋りやがれ」


 マル公がケッと吐き捨てると、猫は気分を害した様子でマル公を睨んだけれど、それでもため息をひとつ――語り出した。


「あれは、よく晴れた雲ひとつない青空がどこまでも続いていた、そんな日であった――」


 どこか遠い目をして首をもたげ、猫は長い前置きを述べる。

 甚吉は焦れた。この後、まだ生け簀の掃除が残っているというのに、猫の話は長引きそうである。

 そんな甚吉の心を知らず、猫は滑らかに続けた。


「ワタシは稲荷神様の使いとして日々、稲荷をもうでた者たちの祈りの声を聞いておった。まあ、大金持ちになって吉原の花魁おいらんねんごろになりたい、富くじが当たりますように、などという俗物どももおったが、大概は慎ましく、身内の仕合しあわせを祈るような者が多い」


 語り出したはいいが、非常にまどろっこしい。本題はどこなのだろう、とさらに焦れた甚吉の心をマル公が代弁してくれる。


「カーッ、前置きの長ぇコンコンチキだなオイ」


 ただ、そんなマル公の声など聞こえないかのように猫は語る。


「毎日務めを果たしているワタシだ。供えられた油揚げの美味さで願いの優劣を決めることもない、立派な神使である。だが、しかし――」

「だが、しかし、なんなので?」


 甚吉は思わず先を急かす。猫は特に気分を害したふうでもなく、片耳をぺこんと動かした。


「だが、しかし――時にはゆっくりと休みたい時もあるのだ」


 はあ、と甚吉は気の抜けた返事をした。だからなんなのだと喉まで出かかったけれど。

 猫はもう片方の耳もぺこんと下げる。そうして、言った。


「とあるたなの奥にな、それはそれは日当たりのよい縁側があったのだ。あそこで少ぅしばかり休んでも、この働き者のワタシが叱られることはないはずであった。事実、稲荷神様より叱責などされてはおらぬ。ただ――」

「ただ?」

「ワタシが不自然でないように猫に姿を変え、すやすやと眠っているうちに、その店の娘がワタシの美しい姿に惚れ込んでしまったのだ。そうして、首にこのような縮緬を巻きつけた」


 緋縮緬の紐。白い毛によく映えて似合っている。

 けれど、それこそがこの猫狐の災難であった。


「その娘、くくりつけるだけならまだしも、あろうことか縫い留めたのだ。この縮緬を身につけたままでは――」

「ままでは?」


 甚吉が訊ねると、猫は顔をしかめて言った。


「もとに戻れぬ」

「へ?」


 するとそこで、大人しく聞いていたマル公がププ、と噴き出した。


「プハハッ、面白れぇな、オイ。稲荷神の使いがそんな縮緬の布っ切れひとつ千切れねぇとはよ。とんだお笑い草よなぁ」


 ケケケ、と笑い続ける。さすがにこれはあんまりだ。

 しかし、猫は怒らなかった。ギリギリのところで耐えていると言った方がいいだろうか。今は怒っている場合ではないと思うのだろう。


「ぐぬぬ、恥を忍んで頼み込んでおるのだ。小僧、この縮緬を外すのだ。さすれば、おぬしの願いはきっと叶うであろう。さあさあッ」


 そんなことを言って首を突き出してくる猫が、少し憐れなような気がしないでもない。ただ、マル公は冷ややかであった。


「オイ、甚。外すんじゃねぇぞ。外した途端、何するかわからねぇだろうがよ」


 ハハハン、と優雅に生け簀を漂う。面妖と言われたのをよほど根に持っているようだ。

 甚吉はチラリとマル公と猫とを見比べる。外してやりたいのはやまやまなれど、マル公の機嫌を損ねると後々大変なのだ。


 猫は甚吉がマル公に逆らえないのを覚ったのかもしれない。うる、と金色の眼を滲ませた。


「と、取ってぇ。取ってぇぇ」


 神使としての矜持も横へ置き、猫は泣き落としの猫なで声である。


「取るんじゃねぇぞ」

「取ってぇぇ」

「うっせぇッ」

「取ってぇ」


 人外たちのやかましさったらない。甚吉は、迫りくる時刻との戦いである。

 掃除が――間に合わない。甚吉の中で何かが弾けた。


「ああ、もうッ。掃除ができねぇッ。後にしてくんなッ」


 真面目な甚吉にとって、時刻が来ても仕事を終えられないなど、考えるのも恐ろしいことである。それに比べれば、他のことは後回しであった。

 よって、猫狐も後回しである。


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