饅頭 ―捌―
甚吉は見世じまいの後、見咎められたら叱られるのを覚悟して、それでもなるべくこっそり見世物小屋を抜け出した。
影が薄いと言うのか、いてもいなくても目立たない甚吉である。誰にも呼び止められることはなく抜け出せてしまった。それを幸いと言うべきなのだろうか。真砂太夫ほどの華があればまず無理であっただろうに。
これも特技と――そう思っておこう。
そうして、甚吉は夕暮れでもまだちらほらと人気のある広小路を歩きながら、最初に行き会った碁盤縞の着物を着た年増の女に声をかけた。
「すいやせん。おれ、笹屋のまんじゅうを買いに行きてぇんです。笹屋って知ってやすか」
女は一度、甚吉を上から下まで縦に見遣った。みすぼらしい子供だと思ったのかもしれない。けれど、やはり相手は子供で、顔もあまり賢そうには見えないのだ。警戒心はすぐに薄れた。
「ああ、笹屋なら確か、両国橋を越えて少し行った先の方だよ。でも、あんな小さい店より、手前の大三木屋の方がいいんじゃないかい」
「あ、ありがとうごぜぇやす」
笹屋の場所を思いのほかあっさりと知ることができた。甚吉はぺこりと頭を下げて両国橋へと向かう。
その途中、どこかの店の丁稚らしき小僧がもぐもぐと口を動かしながら歩いてきた。手に持っているのはまん丸いまんじゅう。それも、顔が入っている。マル公の顔が入ったまんじゅうだ。頭をかじられ、無残な姿であるけれど、それを見ていて甚吉は少しだけ笑ってしまった。
まんじゅうは美味い。こうして、奉公に疲れた丁稚が嬉しそうに頬張る。仕合せな甘い味。
そんなものに悪戯をしては絶対にいけないのだ。
甚吉は気を引き締め、笹屋へと急いだ。
あの年増女が教えてくれたように、途中で大三木屋という店があった。看板の文字も堂々たるもので、紺木綿の暖簾がはためいている。通りがけに奥を覗いてみると、慌ただしく動く奉公人たちと客の姿があった。なかなかに繁盛している店のようだ。
しかし、用があるのはここではない。
甚吉は大三木屋の前を通り過ぎた。そうして、笹屋の暖簾を探すと、確かにそこにあったのだ。小さな店構えの笹屋が。
この小ささでは奉公人もそれほど多くはないだろう。さて、この店の主はどのような人なのか。マル公が言う通りなら、人様を陥れるろくでなしの部類だろう。
甚吉が店に入ろうかどうしようかと悩んでいると、店の前に小さな小僧が出てきた。丁稚でもないただの子供だ。肩上げの着物をたすき掛けにし、箒を持って出てきたのだ。きっと、主の子供が手伝いをしているのだろう。
年の頃は八つか九つか。頬が赤々とした男の子だ。
その男の子は店の前に立つ甚吉に気づくと、にこやかに挨拶をした。
「お客かい。いらっしゃい」
「え、あ、うん――」
歯切れの悪い甚吉の返事に、子供は頬を膨らませた。
「なんだよ、違うのかい。うちのまんじゅうは大三木屋より美味しいんだ。一度食えばわかるよ」
その割には流行っていない。それは子供の贔屓目ならぬ贔屓舌ではないのだろうか。
食いつかない甚吉に、子供はさらに言った。
「今流行りの海怪まんじゅうも売ってるんだぞ」
「えッ」
やはり、そうなのか――
甚吉は覚悟を決めた。
「じゃあ、まんじゅうひとつくれ」
すると、子供は嬉しそうにうなずいた。
「あいよ。毎度ありッ」
そうして、暖簾を潜って中へと呼びかける。
「おっとう、お客だよ。まんじゅうひとつだって」
中からは、おー、と嘉助とは違った意味で商売っ気のない声がした。
「お、お邪魔しやす」
ドキドキと、甚吉の方が恐縮しながら中へと踏み入った。笹屋の小さな店舗は――お世辞にも綺麗とは言えなかった。いかにも左前の寂れた様子がする。正面の台も、商品を載せる大事な場所だというのに埃が目立った。
聞こえないような声でいらっしゃい、と言ったのだと思われる店主も、月代と無精髭、貧相な風体であった。これでは食い物が少しも上手そうに見えない。
ようやく肝心のまんじゅうに目を向けると――甚吉の目も点になった。
そう、まん丸いまんじゅうに二つの点。二つの目があった。けれど、それだけなのだ。まんじゅうに目がある。それだけ――
いっそ清々しいほどに手をかけていない。マル公が知ったら激昂しそうであるが、これが自分だと言われた日には、甚吉だって悲しい。
しかし、言葉をなくしている場合ではなかった。店主が浅黒い手でまんじゅうをひとつつかみ、甚吉に差し出す。
「ほぅら、ひとつ四文だ」
「あ、ああ、へい――」
甚吉は大人しく懐から銭を出し、まんじゅうを受け取った。背中にあの子供の視線が刺さり、断れたものではなかったのだ。
「毎度あり」
愛想も何もない店主に甚吉の方が恐縮しつつ店を出る。早く帰りたい気持ちが募った。
そんな甚吉を、子供がじぃっと見ていた。もしかすると、甚吉は久々の客なのだろうか。まんじゅうを食って世辞のひとつでも言ってやるべきかと思い、甚吉は不格好なまんじゅうを口元へと運んだ。けれど――その時、ツンと鼻先にすえた匂いがして、甚吉はとっさにまんじゅうを口から遠ざけてしまった。
その途端、子供の顔のがっかりしたこと――
けれど、その子供は焦りながら言ったのだった。
「あのさ、うちのまんじゅうには針なんか刺さってねぇよ。ほら、向こうっ側の屋台のまんじゅうには針が入ってるって。うちのまんじゅうは安心だからッ」
まさか、と甚吉は考えた。
この子供が嘉助のまんじゅうに針を刺したのだろうか。子供なら背も低く、ぼうっとしている嘉助の目を掻い潜るのもわけはない。
けれど、笹屋の店主はまるで商売っ気がなかった。子供を使って商売敵を潰そうなんて悪だくみをしそうもない。
この子が、傾きかけた店を案じ、勝手にやったなんてことがあるのだろうか。
何も答えない甚吉に、子供は泣き出しそうだった。甚吉は慌ててまんじゅうを指さし、少しだけ笑ってみせた。
「なあ、もうちょっとこの顔、なんとかした方がいいんじゃねぇかな」
「え?」
「海怪はもうちょっと可愛い生き物なんだ。可愛くできたら、もっともっと売れるんじゃねぇかな。おとっつぁんと二人、色々と試してみなよ。巽屋さんはそりゃあ懸命にまんじゅうを作ってるんだ。あんな悪戯をされなきゃいけねぇお人じゃねぇよ」
ぐっ、と子供が押し黙る。握った拳が帯の辺りで揺れていた。
甚吉は、決めつけるつもりではないけれど、もしもこの子供がやったというのなら、二度とそんなことをしないようにと願った。それは嘉助のためであり、この子供と親のため、まんじゅうを食べる客のためだ。
「まんじゅうの針に気づかず食べた人が死んじまったら怖いよな。どんな理由があってもやっちゃいけねぇことだ。坊やのところのまんじゅうに針をさされたらどうだい? 坊やなら、巽屋さんの気持ちもよくわかるだろ?」
甚吉の言葉をどう受け止めたのか。子供の表情は、泣き出しそうにしか見えなかった。もしこの子が下手人だとするのなら、二度としない――そう信じたかった。
甚吉はまんじゅうを手に、両国橋へと歩む。大三木屋の前を通りながら、不格好なまんじゅうを眺めた。
このまんじゅう、捨てるのは忍びない。しかし、持って帰ったらマル公が怒り狂う。仕方なしに甚吉は痛みかけたまんじゅうを食うしかなかった。
行きにすれ違った丁稚が食べていたまんじゅうは大三木屋のもので、美味そうだった。値は同じのようだけれど、質が違う。
ゴホ、とむせながらも甚吉はまんじゅうを食べきった。腹を下す覚悟はした。
けれど、甚吉が腹を下すことはなかった。丈夫な腹――これも取り得としておこう。




