饅頭 ―漆―
先ほどまでの機嫌の悪さは甚吉以外に見せることなく、今日もマル公は見物客に愛想を振りまく。手ずから餌をやった若い男は、魚臭くなった手を尻の辺りで拭きながら笑っていた。
「おお、バケモンなんて言う割に人懐っこいじゃねぇか」
「本当だよ。可愛いじゃないか」
連れの娘もそんなことを言った。
――しかし、マル公のことだからそんな二人のことも観察して楽しんでいる。そうして、きっと心の中で、おめぇにバケモン扱いされる筋合いはねぇってんだコン畜生、間抜け面しやがって――などと悪態をついているかと思われる。
まあ、そんな声が聞けるのは甚吉だけなので、客には伝わらない。それがせめてもの救いである。
そうして今日も大賑わい。店じまいの頃に甚吉は、生け簀の縁に客の下駄が残していった泥汚れを拭き取り始めた。すると、マル公がぼそりと言ったのだ。
「オイ、甚。聞いたか」
「へ――? なんのことだい?」
本当に何のことだかわからない。素直に訊き返した甚吉に、マル公はカーッと怒った。本当に気の短い生き物だ。
「ボサッとしてんじゃねぇぞこの唐変木がッ。まんじゅうのことだ。見物客どもが噂してたじゃねぇか」
「う、噂って」
ワイワイガヤガヤ、あの騒がしさの中で噂話なんて聞こえない。けれど、マル公には聞こえたのなら素直に謝っておくことにした。
「すまねぇ、マル先生。よく聞こえなかったんだ。おれにも教えてくれ」
すると、マル公は呆れたような顔――事実呆れている――をして甚吉に言った。
「仕方ねぇなぁ。オイコラ、耳の穴かっぽじってよぉく聞けよ」
「へい」
「おいらの形をしたまんじゅうで、針が刺さってやがったまんじゅうは『巽屋』って店のモンだってな。巽屋のまんじゅうには針が入ってるから買っちゃいけねぇって言ってやがった」
巽屋――嘉助の店に間違いない。甚吉はごくりと唾を飲み込んだ。
そんな甚吉にマル公は続ける。
「てぇした店構えでもねぇくせに屋号まであんのかよ。そいつが仇になりやがったな」
「え――?」
「そうだろうがよ。名前なんぞねぇ振り売りなら、うちじゃねぇってとぼければ終わるのによ」
「なあ、でも自分のまんじゅうに針なんて刺さねぇよ。誰かの悪戯だって、お客も少し考えればわかるよなぁ」
「んなこたぁどうだっていいんだ。客は針の入ってねぇまんじゅうが食いてぇんだから、どんな理由があるにせよ針が入ってるかもしれねぇまんじゅう屋以外の店で買やぁいいんだ。ちっぽけな屋台ひとつ潰れたからって、このお江戸はなんにも困りゃしねぇかんな」
甚吉は嘉助と知り合ってしまった。だから肩入れしたくもなるけれど、まんじゅうを買いにいく前にこの噂を聞いていたなら、甚吉も巽屋という店は避けなければと思っただけだろう。
「まあ、こう噂になっちまった以上、汚名を返上するにゃあ悪さをしたヤツを暴くしかねぇだろうな。もしくは屋号を捨てて振り売りになりゃあいいんじゃねぇのか」
「そんな簡単に捨てられる屋号なら端からつけねぇさ。嘉助さんにとっては大事な店の名なんだから、おれ、嘉助さんが店の名を捨てなくていいように下手人を暴いてやりてぇ」
義憤に駆られて拳を握る甚吉に、マル公の目つきは冷ややかであった。
「おめぇに何ができんだよ」
それを言われたらお終いである。甚吉はう、と呻いた。
けれど、わざとらしく息をついたかと思えば、マル公は言ったのだった。
「――ったくよぅ、仕方ねぇな。あのねぇちゃんにもらったまんじゅうを全部食っちまったからな、その分の借りは返してやるか。利口なオイラが知恵貸してやんぜ」
あれを意外と気にしてくれていたらしい。そのことが甚吉には少し可笑しかった。だからクスリと笑った。
「マル先生がついていてくれるなら百人力だ。頼むよ」
素直な甚吉の言葉に、マル公は照れているのかそっぽを向いた。
「ヘン、あたぼうよ。まずは――巽屋の評判を落としたい理由から考えてみろや」
評判を落としたい理由。
甚吉は唇に指を添え、考えながらゆっくりとつぶやく。
「嘉助さんは人のいい、恨みを買うようなお人じゃあないみたいだった」
そこでマル公は、おめぇに人を見る目なんてこれっぽっちも備わっちゃいねぇだろうがよう、とか返してくるかと思えばそうではなかった。あっさりとうなずいた。
「その嘉助ってヤツがただのお人よしだとする。だからって恨みを絶対に買わねぇとは限らねぇが、まあいいだろう。じゃあ、目当ては嘉助じゃねぇ。巽屋の方か」
「うん?」
「巽屋のまんじゅうは、まあ美味かった。けどよ、この界隈でまんじゅうを売ってるのは巽屋だけじゃねぇ。おめぇから聞いた分には、そんなに流行ってねぇ様子だった。どうして巽屋が狙われたのか――そりゃあ逆に目立たねぇ店だったからじゃねぇのか」
「どういうことだい?」
「ちったぁおめぇも頭使いやがれ。いいか、十中八九、まんじゅうを扱う他の店モンの仕業だろ」
「えッ」
生け簀に浸かっているだけのマル公がそう断言する。その根拠は一体何なのだ。
甚吉は唖然としてしまった。
「ちょっと待ってくれ、マル先生。巽屋が繁盛してるってんならそれもわかるよ。でも、その、巽屋のまんじゅうが売れても売れなくても、商売敵にはたいした影響がねぇんじゃねぇのかな」
嘉助が一人で作って売っている、そんな店なのだ。だから作れる饅頭の数もたかだか知れている。どの店にとっても巽屋は脅威にはなり得ないのではないだろうか。
「だから、巽屋と同格の店だろうな。あまりに格が違いすぎりゃ話は別だ」
そう言って、マル公は水をパシャリと一度跳ね上げた。
「こいつはな、単純な目に見える銭儲けだけのことじゃねぇんだろうよ。人ってぇのはな、自分の身近なヤツのことは大事にできても、関わりの薄いヤツには残酷になる時があんのさ――」
またマル公お得意の人間観察の結果であろうか。
以前巻き込まれた事件も、思い起こせば小さな女の子が自分の身近な人を守るために甚吉を使った。義理人情に篤い江戸の町ではあるけれど、自分の利のため、他人の事情を思い遣る人ばかりではない。
甚吉は、すべての人に優しくできているだろうか。そう自問する。首肯するにはまだ、甚吉は未熟な小僧である。
考え込んだ甚吉に、マル公は遠慮なく言った。
「巽屋の評判を落としたかったんじゃねぇのか。流行ってねぇ店かもしれねぇけどよ、悪評は立ってなかっただろうよ。それが、針の入ったまんじゅうが出てからはどうだ」
「そりゃ――前以上に客は寄りつかなくなってるよ」
当たり前のことを、甚吉は当たり前に口にした。けれどその答えは、マル公にとっては物足りないものであったらしい。
「カーッ、んなこたぁわかってんだよ。あそこのまんじゅうはいけねぇって、そういう噂になるだろうがよ」
「そ、そうだけど」
「そこでひとつ考えてみな。もしその前に『あそこのまんじゅうはいけねぇ』って噂されてやがった店があったらどうだ? 巽屋のまんじゅうはいけねぇって噂が立ちゃ、そっちの噂は隠れちまうんじゃねぇのかよ」
マル公の言うことは、甚吉には思ってもみなかったことである。噂を隠すために新たな噂を立てた。マル公はそう決めつけるのだ。
「どこかの店が、自分たちの噂を隠すために巽屋のまんじゅうに針を仕込んで噂を立てたって――マル先生はそう言うのか」
それが事実ならひどすぎる。そんなことがあるものなのだろうか。
愕然とした甚吉に、マル公はそれでも意見を覆すことはないようだった。
「この見世物小屋はオイラのおかげで大盛況、向かうところ敵なしだがよ。商売ってえのはそうな生半なモンじゃねぇ。商売敵を追い落とすくらいでなけりゃ、自分が追い落とされんのさ」
そんなことがあるのだろうか。
甚吉もこの見世物小屋で使われているだけの、世間を知らない小僧である。そんなにすさんだ世の中だとするのなら悲しすぎる。まんじゅうは甘いのに、世間は辛い。
「そんな――」
「オイラは客どもの話し声もちゃんと聞いてんだ。巽屋の噂をする時、一度だけ別の店の名が出てきやがった。『笹屋の次は巽屋か』ってな」
「さ、笹屋って」
甚吉は詳しくないけれど、そういう名前のまんじゅう屋があるのだろう。だからといって、その店が悪さをしたと決めつけるのは早計だ。そもそも、証拠が何もない。海のばけものがそう宣ったなどと言っても甚吉の正気を疑われるだけである。
そんな甚吉の考えなど、マル公にはお見通しであった。
「ってなわけだ。オイ甚、ひとっ走り行って調べてこいや」
「へ?」
「オイラが行けるわけねぇんだから、おめぇが行くしかねぇだろうがよ」
それはそうなのだが。
「おれ、笹屋の場所、知らねぇよ」
その名すら今初めて聞いたくらいなのだ。
すると、マル公は鼻息荒く叫んだ。
「何も笹屋に行けって言ってねぇだろうがよぅ。笹屋に関する噂を探れってんだよ、コン畜生めッ」
「ああ、なるほど」
どうやらマル公も笹屋の場所までは知らないようだ。しかし、何から何までマル公頼りにしていてはそのうちに愛想を尽かされてしまう。甚吉なりにどうしたら真相にたどり着けるのかを考えなければ。
甚吉もまた、濡れ衣を着せられて路頭に迷いそうになったのだ。マル公に助けてもらった甚吉だからこそ、今度は困っている嘉助にとってのマル公になりたい。
そう思った。




