饅頭 ―弐―
甚吉が小屋から出て、ひとつ大きく伸びをすると、その横顔に伸びやかな声がかかった。
「甚吉ッ」
薄い単姿で軽やかに手を振り、小走りにやってくる娘は、甚吉の目には天女か乙姫かに見えた。
甚吉のいる寅蔵座の隣、新兵衛座で水からくりを披露する水芸人、真砂太夫である。芸の最中は凛と神がかっているほどに美しい。けれど、舞台から降りると普通の娘らしい朗らかさも見える。
甚吉が盗人の濡れ衣を着せられた際、ちょっとしたことから顔を合わせれば口を利くほどの間柄になった。寅蔵座の男衆たちからはそれをとても羨ましがられている。
「真砂太夫、おはようございやす」
照れつつも返した甚吉に、真砂太夫は少し拗ねたように唇を尖らせた。
「もう、お勝でいいって言ったじゃないさ」
勝というのが真砂太夫の名なのだけれど、それを呼ぶのは同じ一座かよほど親しい間柄である。甚吉は、自分風情が真砂太夫をそう呼んでよいものだろうかと、怖気づいていつも呼べないのだ。
「す、すいやせん」
頭を下げては謝る甚吉に真砂太夫はひとつ嘆息したかと思うと、急に甚吉の手を握った。それは白く、ほっそりとした手である。
柔らかく滑らかな手に甚吉が顔を真っ赤にしてどぎまぎしていることも知った上で、真砂太夫は艶やかに微笑んだ。
「はい、これ」
と、そんな甚吉の手の平に真砂太夫はうっすらと色づいた丸っこいものを載せた。それは――蕎麦まんじゅうである。
「甚吉にあげるよ」
なんということだろう。先ほどのマル公との話を真砂太夫が聞けたはずはないのだけれど、驚くような偶然である。それとも、マル公の執念がこのまんじゅうを引き寄せたとでもいうのだろうか。
「あ、ありがとうございやす」
甚吉が驚きつつも手の平のまんじゅうを見つめていると、真砂太夫はクスクスと軽やかな笑い声を響かせた。
「ほら、こっちから見て。ね、可愛いでしょう?」
真砂太夫は甚吉の手の上のまんじゅうをつまみ、くるりと向きを変えてみせた。そこにあったものとは――顔である。
大きな焼き印が二つ。それから、細い筋が数本。まん丸いまんじゅうに焼き入れられている。その輪郭には見覚えが、というよりも、さっきまで顔を突き合わせてぎゃあぎゃあ文句を言われていた。
そう、まんじゅうはマル公に似ていたのだ。
「アンタんとこの海怪、すごい人気じゃないか。色んなところでまんじゅうになってたよ。せっかくだから甚吉に買っていってあげようかと思って。お八つに食べなよ」
あの丸い頭はまんじゅうにするには最適である。
ただ、甚吉はそのまんじゅうよりも真砂太夫の笑みに釘付けになった。身分も何もないただの小僧である甚吉を、売れっ子の真砂太夫が気にかけてくれている。もう、それだけで天にも昇る心地がした。
「頂いても――いいんですかぃ」
「もちろんさ。そのために買ってきたんだからね」
と、真砂太夫は軽やかに笑った。
マル公に言わせれば、甚吉は女の上っ面しか見えていない大莫迦なのだそうだが、真砂太夫は鉄火肌で裏表のない人に思える。その気風のよさが美貌と相まってそれは素晴らしく感じられるのだけれど、マル公はひねくれているから、誰に対しても悪態のひとつくらいはつきそうだ。
マル公は食い意地が張っているだけでなく、人間観察が好きなのだ。自分を見物している人間を逆に眺めては楽しんでいる。人間様の方が安くもない見料を払って見物されに行っているのだ。
今のところ、その事実を知るのは甚吉だけであるけれど。
「大事に食いやす。ありがとうございやす」
まんじゅうを両手で押し頂き、甚吉は真砂太夫を崇めるように礼を言う。
すると――
「甚吉は本当に素直ないい子だねぇ。可愛い可愛い」
などと言って、頭を撫でてもらった。
それほど年が違うわけではないけれど、真砂太夫にとって甚吉は男というよりも子供なのだ。
その子供扱いに甚吉が気を悪くするかと言えば、そんなことはない。子供でよかったと思っている。
自分でも顔がふやけていると感じるけれど、どうしたら元に戻るのかわからない。マル公に見られたら、デレデレしやがってと言われるだろう。
「じゃあ、頑張りなよ」
「へいッ」
手を振って去る真砂太夫を見送りながら、甚吉はまた勢いよく頭を下げた。そこでハッとする。
せっかちな棒手振を待たせたりしたら、後が怖いのだ。聞き取れないほどの罵詈雑言を浴びせられる。甚吉はまんじゅうを大事に袖の中にしまい込むとマル公のための魚を受け取りに走った。
後で、このまんじゅうをマル公と半分ずつ分けて食べよう。
きっと、マル公も感激してくれるだろう。
それを楽しみに、甚吉はせっせと立ち動いた。




