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29「夢心地の地獄」



 自分が取返しのつかない地点にいることを、彼女は今更になって理解した。

 初めは、ほんの出来心でしかなかった。思い返せば、最初の一歩から間違えていたのだ。これは、気軽に踏み込んでよい遊びなどではなかった。


 呼吸すら、唇が震えてまともにできない。それでもなんとか深呼吸して、気持ちを整える。もっとも、落ち着いたところで、現実が変わることはない。

 自らの意志と行動が生み出した窮地を前に、少女は選択を迫られていた。

 進むか、止めるか。どちらを選んでも地獄しかない最悪の二択。


「もう今更、失ったものは戻らない……なら、いっそのこと」


 ――行きつく果てまで、進んでしまえ。

 ――いや、これ以上は止めるべきだ。

 心の中で天使と悪魔がせめぎ合う心境というのはこういうことかと、どこか他人事のように考えながら、改めて思考を整理する。

 目的の物は、あと少しで手に入る……しかし、その『あと少し』が、遠い。

 しかし諦めれば、これまでに失われた代償が全て無駄になる。


「こんなこと、始めなければよかった……!」


 後悔したところで、もう遅い。もう始めてしまった。それも、後戻りができない程に進んでしまった。なかったことになどできない。

 できることは、決断することだけ。進むか、止めるか。どちらの地獄へ落ちるのか、それしか選べない。

 いつまでも悩んではいられない。刻限はもう間近まで迫っている。


「――ッ!!」


 悩んで、悩んで、悩み抜いて、少女は。

 手元の薄板タブレットに浮かぶ文字へ、手を伸ばした。


『今月の課金額が5万Gを超えますが、本当によろしいですか?』

「イエス、イエス、イエエエエエス!!」


 購入する意志を確認する文字を力強く押し、手続きを先へと進める。

 少女は、地獄へ落ちる(ガチャを回す)覚悟を決めた。決めてしまった。

 あとはもう、転がり落ちるだけである。


「限定☆3キャラピックアップ終了までもう時間が、時間がありませんわ!!」


 薄板(タブレット)に浮かぶ『10連ガチャ』の文字を連打しながら、少女は叫ぶ。

 悩んでいる間にも時間は進んでしまった。少女が手に入れたいと願った限定☆3キャラ――カジノ提供の遊戯ゲームの特別なキャラクターが出現する時間は、あと少しで終わってしまう。

 もうためらいは投げ捨てると決めたというのに、これで目当てのキャラが手に入らなかったなら、何のために地獄へ落ちるのか分からなくなる。


「天井まであとすこし! 課金して回すだけでタダで手に入るのですわ!!」


 天井、というのはガチャを規定回数まで回した者への救済処置の通称。

 ガチャの回転数が天井として定められた回数まで達すれば、限定☆3キャラを交換する権利が与えられるというものだ。

 どれだけ回しても目当てのキャラが手に入らないという苦情に対して用意された救済処置であり――欲望を掻き立てて人の心を闇へと引きずり込む魔物であった。

 目当ての物が確実に入手できるゴールがあることで、道半ばで諦めるという選択を迫られた際に、止めるという覚悟を阻まれてしまう。

 そこですぐに諦めきれるのであれば、魔物はそれ以上追ってはこない。しかし途中で諦められる程度の物なら――そもそもここまで執着することはない。


「スキップ! スキップ! スゥキキィィップ!! 今は回すことこそ正義!! 大当たりまで止まりませんことよ!!」


 本来ならガチャを回す際には、気分を高揚させるような演出が起こる。

 しかしそれを毎回見ていては時間切れになると判断して、演出を見ずに結果だけを表示するスキップボタンを連打していた。

 ガチャの結果表示だけは確認して、目当ての期間限定キャラが出ていないことを確認すると即座に次の回転へ。

 彼女の思考には既に、退却の選択肢は存在していない。ガチャを一回でも多く回すために、指を少しでも早く動かすことしか考えられない。


「とける、とけますのおおお!! お金がとけちゃいますのおおおおお!!」


 脳がとろけるような感覚に飲まれながら、彼女はガチャを回すことを止められなくなっていた。天国に堕ちていくような、得体のしれない幸福感。幸せなのに、さっさと終わってほしいと願う、夢心地の地獄の時間。

 しかし自ら終わらせることはもうできない。期間限定ピックアップガチャの終了時間はもう目前。突き進まなければ、これまで投じた資金の全てが無駄になる。

 後は終わりに向かって進むだけ――そのはずだった、彼女の手が、止まる。


「……あっ、く、ううう! なんで、なんでもっと早く……!」


 彼女が追い求めた、限定ピックアップガチャの最高の当たりであるキャラ。

 その雄姿が、画面の向こうでキラキラと輝いていた。

 引き当てたのだ。自力で、願い続けた夢を。

 ――天井まであと10回転で到達するというところで。


「もう少し早く来てくれれば、こんな……こんなああああ!!」


 嬉しさと悔しさが同時に溢れ出し、彼女の喉から叫びが迸る。

 天井というシステムは、利用しなかった場合、ガチャの景品が入れ替わる更新日に回数分に応じたポイントへ自動で引き換えられる。

 そのポイントはゲーム内のアイテムと交換することができるが……限定キャラと引き換えられる権利と比べれば、その魅力は微々たるものだ。あくまでおまけ程度にしかならない。


「ふぅ、はあ……あ、あああ」


 天井目前で目当ての限定キャラを引き当てたことで、彼女には選択肢が生まれてしまった。

 あと10回。回すか、否か。

 既に所持しているキャラを改めて入手した場合、そのキャラをさらに強くするために必要なアイテムが手に入る。それは中々に貴重で、ゲームを長く続けて貯めた素材と交換して入手することもできるが、それだけで特定のキャラを強化することは、かなりの労力を要する。

 そんな貴重なアイテムを、あと10回ガチャを回すだけで交換できる。

 魅力的な選択肢であり――しかしそのために消費されるのは、大切なお金だ。

 元々回す予定だったのだから回してしまえばいい――目的の物は手に入ったのだから回す必要なんてない――相反する思考がぐるぐると頭の中で回る。


 しかし、ガチャが更新されるまで、残り1分しかない。

 迷っている時間はないのに迷うしかない。

 回すか、否か。進むか、止まるか。

 時計が回る。思考が回る。視界が、足元が、世界が回る。

 彼女は、震える指先を、伸ばして――。


   〇


「ごきげんよう……その、何ですの、その……?」

「もやしというそうですわ。安くておいしいですのよ」


 これからはもやし生活ですわ、と呟きながら、彼女は皿に盛られた朝食……もやしだけを炒めた料理を口に運ぶ。

 期間限定ガチャに投じた資金は、貴族の令嬢である彼女にとってもかなりの大金であり、しばらくは節約せざるを得ない状況となっていた。

 我ながら散財したものだ、と彼女は自分に呆れ返る。

 目当ての物を手に入れた満足感はあれど、もうこれでガチャを回すかどうか迷わなくてよいという苦悩からの解放感の方が喜ばしいと感じるのだから、もう何のための娯楽ゲームなのだろうか。

 そのせいで、カジノのVIPルームの常連客でありながら、安いというだけでよく分からない食べ物で飢えを凌がなければならないというのだからたまったものではない。


「……もしかして、昨日の限定ガチャですの?」

「ガ、チャ……うぐっ、はぁ、はぁ……!」

「トラウマになってるじゃありませんこと!?」


 ガチャと聞いただけで動悸が乱れる程の狼狽えぶりに、令嬢の友人である少女は慌てながらも彼女を宥めようと、その背中をさすって声を掛け続けた。


「無理をせずとも、手に入れられた方からお見せいただけばよいでしょうに」

「わ、分かっておりませんわね……自分で手に入れるから楽しいのですわ」


 彼女は胸を張って答える。その声は震えていた。

 ――カタン。背後で、グラスを置く音が響いて、思わず彼女は振り向く。


「……」


 視線の先には一人の女性が、どこか不機嫌そうな顔でソファに身を委ねていた。

 その女性の名を、彼女は知っていた。VIPルーム常連客の間で有名で、よく話題となる女性だったからだ。


「アメリア様、今日も物憂げですわね」

「あれほど勝負強いお方でも、悩みがあるものなのでしょうか」


 席は離れているとはいえ、本人には聞かれないようにと小声で彼女達は話す。

 アメリアという女性は、このカジノで凄まじい勝負運に恵まれて賭けに勝ち続けている、稀代の勝負師と名高い存在である。

 元は一介の冒険者の身ながら、今では貴族の資産すら上回る財貨を得ていると噂されていた。それなのにいつも不満そうに過ごす姿は、常に近寄りがたい雰囲気があり、今では声を掛ける者も少なくなっている。


「あなたは他人のことより、自分の心配が先ではなくて?」

「……だ、大丈夫ですわ。数か月もやし生活すればなんとか……きっと」

「どれだけ使い込みましたのあなた」


 呆れた様子の友人の視線から逃れるように、彼女はもやしを頬張った。


   〇


「……聞こえてるってーの」

 

 離れた席で小声で話す二人に、溜息混じりでアメリアは呟く。

 グラスに残ったワインを口に含み、美酒と評して相違ない味を堪能しながらも、その心は拭いていないグラスのように曇っている。

 悩みがある。何が悩ましいのか、自分でも分からないという厄介な悩み。

 どれほど賭けに興じても、勝利を積み重ねても、心が満たされない。自分が何を求めているのか、どうしたいのか、まるで分からない。


『自分で手に入れるから楽しいのですわ』


 先程、やけに大きく聞こえたその言葉が、脳裏をよぎる。

 名前も知らない貴族達の、何気ない会話の一端いったんに過ぎないはずなのに、その言葉は何故か心に残っていた。


「……ふんっ」


 悩みの答えが見つからず苛立ち、アメリアは手元の呼び鈴を鳴らす。

 やってきたウェイターにワインの追加を注文して、空いたグラスを下げさせると、いつものように不機嫌な様子で、思考に沈んでいった。




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