閑話「英雄と呼ばれる男 前編」
また前編、後編で分けさせてもらっています。
一話完結を続けられなくてすいません(汗)
「お、お前達! さっさとモンスター共を追い払えよ!」
フォウルは恐怖に歪んだ顔で、護衛として戦う奴隷達に怒鳴り散らす。
彼は王都に店を構える商人なのだが、商品の仕入れのために隣町へ出掛けた帰りに、馬車をモンスターの群れに取り囲まれていた。
冒険者達の活動が活発となっている王都周辺はモンスターの生息数が減少傾向にあり、比較的安全となっている。とはいえ、危険が完全になくなった訳ではない。
今回のように、商人や旅人がモンスターの群れに襲われるというのは珍しいことではなかった。
本来なら資金に余裕のある商人は護衛として冒険者や傭兵といった、戦闘を生業とする人間を雇うことで安全を確保するのが必須といえる。
しかしフォウルはその出費を惜しみ、自分が所有する奴隷達を護衛として運用していた。
だが、戦うために身体を鍛え上げた戦士達とは違い、フォウルが雑用や汚れ仕事をやらせるために買い集めた奴隷では、モンスターの群れと戦わせたところで勝ち目などない。
今までがたまたま、手に負えない数の群れに襲われたことがなかったというだけで、フォウルの行いは明らかな自殺行為だった。戦わされている奴隷達の中には、恐怖に震えながら短剣を出鱈目に振るう、メイド服を着せられた女性もいる。
家事をするために設えられたメイド服は、とてもではないが戦闘という激しい運動には適していない。彼女を含めた奴隷達が今もまだ誰一人欠けることなく生き残っているのは、ただ幸運なだけだった。
他の奴隷達も、似たり寄ったりだ。実力で生き残っている者などごくわずかで、それも長くは持ちそうにない。不十分な食事しか与えられず、劣悪な労働環境に置かれてきた彼らは、存分に戦うことなどできるはずもなかった。今はまだかろうじて耐え凌いでいるが、やがては力尽きてしまうだろう。
「くそ、くそっ! この役立たず共め!
お前らが弱いせいで俺がこんな目に……王都まで後少しだっていうのに!」
自分の行いが招いた窮地であることを理解すらせずに、命を賭けて戦う奴隷達に罵声を浴びせるフォウル。奴隷達も、彼のために戦っているのではない。自分が生き残るために必死で目の前のモンスター達に抗っていた。だが、1匹のモンスターに対して集団で挑むのならともかく、多数の相手に囲まれた戦況というものは、手馴れた冒険者でも死亡率が高い。
眼前のモンスターに集中しているうちに、横合いから襲われてはひとたまりもないからだ。経験を積んだ戦士であれば、そうならないように立ち回るか、あるいは気配を察知して死角からの攻撃を避けるなんて芸当も行えるようになる。しかし、訓練も行われていない奴隷達にそれを求めるのは酷というものだ。
端的に纏めるのであればこの事態は、フォウルという男がモンスターを侮ったことが原因だ。
十分な力量を持つ護衛を雇い入れていれば、下級モンスターに囲まれたところでたやすく切り抜けることはできていただろう。けれど現実には、フォウルが節約と称して人件費の支払いを渋ったせいで必要な護衛は雇われず、彼らは死の危機に瀕している。
「し、死にたくない……俺がこんなところで死ぬわけがない……!
俺は幸運なんだ、まだまだいくらでも金を稼ぐんだ……!」
やがてフォウルは、現実逃避にぶつぶつと呟き始める。
彼は商人を名乗ってこそいるし、自分の店も持っているが、それは彼が実力で手に入れたものではない。事故死した両親が残した遺産と商店。その資産を食い潰しているだけの男だった。
商才など欠片もなく、知識を学ぶ努力も行わない。そして店の資金を賭博に費やして、一度は借金の担保として店を差し押さえられた。その境遇から脱することができたのは、単に王都のカジノで『幸運』に恵まれただけのことだ。
賭博で得た金で店を取り戻して、奴隷を買い漁ることで自尊心を満たし、店の経営はまともに行わず、日々を賭博に費やしている。自分で何かを成し遂げたことなど一度もないのに、金があるからと他人を平然と見下す自称商人の成金。それが、フォウルという男の実態だった。
フォウルが現実逃避している間にも、戦況は刻一刻と悪化していた。
メイド服の奴隷少女に、モンスターの狂爪が迫った。
彼女はろくでもない己の生涯に涙して、世界を呪いながら瞳を閉じて最後の時を待つ。――彼が現れたのは、そんな時だった。
「うおおおお! 最初っからイベントがハードすぎるぜ、ファンタジー!」
訳の分からない大声と共に、どこからともなく現れた少年が、剣を振り回す。
奴隷の少女は、その声に思わず瞳を開いた。その瞳に映るのは恐ろしいモンスターではなく、縦横無尽に駆け巡る少年の姿だ。強引に振るわれて、まるで剣術の体を成していない出鱈目な剣閃。
しかしその少年の振るう剣は常識外の速度で振り回されて、モンスター達を次々と葬っていく。
刃で切り裂くというよりも、叩き潰されたモンスター達は、見るも無残な姿で息絶えていった。少年は、奴隷の少女がモンスターの脅威に震えている間に何匹ものモンスターを倒していたらしく、周囲にはもう外敵となるモンスターはどこにも見当たらない。
「うげえ、グロい……こういうのはやっぱ、倒したら霧とかになって消えてほしいんだけどなあ。せっかくの異世界なのにリアリティありすぎるのはきついぜ……」
自分が殺したモンスター達の残骸に顔を顰めながら、独り言を呟く少年。
しかし彼は、自分を見るメイドの少女に気付くと、照れた様子で話し掛けた。
「や、やあ、お嬢さん! 怪我はなかったかい?」
少年としては、大活躍した自分には少女の黄色い悲鳴と共に「きゃあ素敵、惚れました!」という具合で好意を向けられるものだと思えて、素敵な出会いを演出しようと精一杯に微笑みかける。
「ひ、ひぃ……!?」
だが、帰ってきたのは恐怖に震える少女の悲鳴だった。
少年は気付いていなかったが、彼の身体はモンスター達の返り血や肉片で汚れており、直視に耐えうるものではなかった。
相手が命の恩人だと頭では理解しながらも、恐怖に震える彼女には、少年がまるで人の姿をした化け物に見えてしまっていた。思惑とは違う反応に少年は戸惑い、頬を掻きながら「あれ? 選択肢ミスったかな?」と呟く。
「い……いやあ、君! 凄いじゃないか、助かったよ!」
そんな少年に、フォウルは声を掛けた。思いがけない幸運で命の危機から救われたことに、フォウルは内心で「やはり僕は幸運の女神に愛されている!」と喜び、その歓喜は表情に浮かび上がっている。
「それで、ええと……君の名前はなんて言うんだい?」
「あー、えっと。俺の名前は日向武……こっち風に言うとタケル・ヒナタってところかな?」
「ほ、ほほう! 家名持ちということは、お貴族様でいらっしゃいましたか?」
「い、いやあ、貴族じゃあないんすよ。
ええっと、俺の故郷では平民でも家名を持っているのが普通なんっすよね」
少年はフォウルの誤解を解こうとしながらも、小声で「こういうイベントは、お姫様かお嬢様相手ってのがテンプレなんだけどなぁ……」と不満そうに溜め息をついていた。
「じゃ、じゃあタケル君でいいのかな? 君のおかげで助かったよ!
本当、いくら礼を言っても足りないね!」
「まあ困った時はお互い様ということで……それで、物は相談なんすっけど」
少年の言葉に、フォウルは身構える。命を救った謝礼として、多額の謝礼金を要求されるかと思ったのだ。命を救われたのだから、いくらかの金品を要求されたところで文句は言えないのだが、支出を快く受け入れられる男なら、そもそも最初からきちんと護衛を雇っている。
しかしフォウルの予想と違い、少年の願いはささやかなものだった。
「この近くに街とかないですかね?
迷っちゃいまして……案内なんてしてもらえると、助かるんですけど」
「なんだ、そんなことかい?
なら僕の馬車に乗るといいよ、王都まで送ろう!」
どうやら金は支払わずに済みそうだと分かり、上機嫌で案内を申し出るフォウル。命を救われた恩に報いるには、道案内だけというのは不十分だが、少年はそんなこと気にした様子もなく嬉しそうに笑った。
少年の様子に、与しやすいと感じたフォウルの頭に、ひとつの案が浮かぶ。
タケルと名乗った少年は見た所、世間知らずな田舎物に思える。王都の場所を知らないことからも、どこからか旅してきた余所者だと推測できた。実力については、フォウル自身がその目で確かめた。圧倒的な武力でモンスターの群れをたやすく制圧できるという、一般人からすれば驚異的な力量。
(こいつを利用すれば、あの狂犬……アクトの奴に仕返しができそうだ。
いや、絶対にできる!)
以前、アクトという冒険者に痛い目に合わされたフォウルは、いつか復讐してやろうと企んでいた。
しかし相手は、荒事を専門とする冒険者であり、真正面から挑んだところでフォウルの実力では勝てそうになかった。フォウルが子飼いにしている無法者達に仕掛けさせてもみたが、悉く返り討ちにされている。
表立って「復讐したいから実力者を求む!」と募集する訳にもいかず、かといって汚れ仕事を専門に請け負うような裏の住人達との伝手をフォウルは持っていなかった。だが、世間知らずのこの少年にフォウルの都合の良い様に話を吹き込めば、上手く事が運べるかもしれないとフォウルは画策していた。
「タ、タケル君といったね。君を実力者と見て、相談したいことがあるんだ。
王都までの移動中にでも、話を聞いてくれないかな?」
「お、さっそく初期クエストか。うんうん、やっぱ異世界チートのテンプレといえば、こういう都合の良い流れだよなあ。
……相手が美少女なら文句なしだったんだけど」
フォウルの言葉を聞いて、何やら満足げに頷くタケル。
「いやぁ、実は路銀が全然ないもので、依頼なら大歓迎ですよ!」
タケルの様子をいぶかしんだフォウルだったが、少年の返答に気を良くした彼はすぐに気を取り直した。 何も知らない少年に、フォウルは話を続ける。
「実は、悪党を成敗してほしくてね。
……アクトという冒険者なんだけど、こいつがひどい奴なんだ」
「悪党だから名前がアクトとか、すっげえ分かりやすいな……まさにチュートリアルのかませ犬じゃないか」
「そうそう、狂犬なんて呼ばれてる、野良犬のような乱暴者なんだよ。
まあ、立ち話もなんだし詳しい話は馬車の中で……」
フォウルに促されるまま、馬車へと乗り込んでいくタケル。
彼らが王都に辿り着くまで、それほど長い時間は掛からなかった。
〇
王都の街中を、レンは思い悩んだ顔で歩いていた。
その脳裏を占めるのは、アクトという冒険者の男のことだ。
以前、アクトに同行していた時のことを考えると、今でも身の竦むような恐怖が蘇ってくる。
殴られて。詰られて。見下されて……そんな生活が、ずっと続いた日々。
飢えに苦しんでいた自分を拾ってくれた恩を感じていても、拭いきれない程の恐怖と苦痛がいつも共にあった。アクトには「お前を強くするためだ」と、何度も言われていた。
けれど、レンがどれだけ頑張っても、アクトの足元にも及ばない。
冒険者としての年季が違う。生まれ持った素質が違う。命を懸ける覚悟が違う。
レンは孤児院を卒業してからアクトに拾われるまでの一年間、ずっと薬草採取だけで食い繋いできた。
まともにモンスターと戦ったことなんて一度もない。
怯えながら物影に隠れて、ずっと逃げながら薬草を集めていた。命懸けで都市の外へ出向き、じっと息を潜めてモンスターから逃げて、丸一日を掛けてようやく必要数ぎりぎりの採取量。
そうして得る金銭は、物価の高騰していた当時の迷宮都市では一日の食費としてあっという間に消えていった。運が悪い日には、やっとの思いで手に入れた金銭や食料を物取りに奪われていた。
アクトに拾われてからは、そういった出来事はなかった。守られていたのだと思う。アクトがそうするつもりだったのか、盗人達が彼の暴力を恐れたのかは、レンには分からないけど。
あたたかい食事も、ベットのある寝室も、パーティのサポーターとしての給料も、全てアクトが与えてくれたものだ。だから、感謝する思いも確かにあった。アクトのおかげで今も生きていられるのだと、素直に感謝の言葉を伝えるべきだと思う。
それでも――命の恩人だと理解していても、逃げ出さずにはいられないくらい、辛かった。
嘔吐する程に蹴られて、痣ができるくらいに殴られて、事あるごとに罵られた。
もしも「命を拾われたのだから、恩人に生涯を捧げよう」と思えるだけの覚悟があったのなら、どんな境遇でも受け入れられたかもしれない。
あるいは「そういう風に生きるしかない」と諦めたままで、数ヶ月前までのようにアクトと共にいるべきだったのかもしれない。けれど、王都を訪れた日。カジノで掴んだ『幸運』によって、眩暈がするような金銀財宝を手に入れた時に、思ってしまった。
――これでようやく、僕は普通の人間になれる。
路地裏で生き足掻くだけだった僕が、普通の人間に……!
お金があれば。力があれば。勇気があれば。きっと、自分は普通に生きていられるのではないか。
そんなとめどない夢想を思い描いては、現実はそうならないと諦めていた。
しかしあの日、カジノで回させられたガチャからは、願い求めていた全てが手元へと転がり込んできた。
数え切れない程の金貨。とても立派な装備品。そして……本来は幾千ものモンスターを倒した者だけが辿り着く、Aランク冒険者相当の能力までもが。
手に入れた後は、無我夢中だった。アクトの元から逃げ出して、カジノの従業員の案内で匿われた後は、街の高級宿屋へと泊り込んだ。
ずっとできなかった贅沢も、お金があれば我慢することなくできた。おいしいご馳走を毎日のように食べて、心穏やかになれる場所で思う存分に身体を休めて、欲しかった玩具だっていくらでも買うことができた。
夢に見た、理想の生活。誰にも怯えることがなく、安心して過ごせる安寧の日々。けれど、何故か……どうしても、「これが自分の望んだ生き方だろうか」という疑問が拭えなかった。まるで心が、自分にも分からない本当の願いに気付かせようと、必死に叫んでいるかのように。
(僕が望んでいること……僕が納得できる答え)
冒険者ギルドのマスターであるラカムには「アクトを許すか、許さないか決めるのはお前自身だ」と言われて、たくさん考えた。
どうするべきなのか。どうしたいのか。どうすればいいのか。
レンはずっと、自分の心に問いかけ続けてきた。
けれど、どれだけ考えても確かな答えは出ない。
以前、同じ宿に宿泊した縁で出会ったマリエルという女性には「本人と一度、話してみた方が良いと思う」と言われて、話しかけようとしたけれど、臆病な少年はアクトに話し掛けることができずに、こそこそ後をつけたことで怒らせてしまった。
きっと、アクト本人ときちんと話して、拾って保護してくれたことにきちんとお礼を言って、アクトに行われた過去の暴行については諦めて我慢すれば、全ては丸く収まるのだろうとレンは思う。
昔のように「自分が諦めればそれでいいだけだ」と何もかもを諦めて、状況に流されているだけだった頃の自分に戻れば――楽には、なれるのだろう。
けれどそれが、本当に自分の納得できる未来なのかと、想像してみる。
アクトは、笑えるかもしれない。彼を慕う人々も、喜ぶかもしれない。
だけど、想像の中の未来で自分は、笑うことなく俯いていた。
「どうすれば、僕は……」
呟いてみても、答えは出ない。
少年の口から続いて零れそうになった言葉は、しかし発せられることはなかった。
「そこ行く少年よ、どうにも浮かない顔をしておるのう」
横から、少女の声が聞こえてきたからだ。
レンは我に返り、声のした方を向く。
少年の視線の先では、狐の耳が頭から生えた少女がベンチに腰掛けていた。
「あ、あの、あなたは……?」
「わしはタマモなのじゃ。ただのしがない冒険者じゃよ」
タマモと名乗った少女はレンを安心させようとするかのように、柔らかい微笑みを浮かべた。
彼女はベンチの空いている場所をぽんぽんと叩く。ここに座りなさい、と促しているようだった。
「悩み事かえ? ちょいと、わしに話してみんか?
一人で抱え込んでいるより、楽になるかもしれぬぞ」
「え、ええと、その……ご迷惑では……」
「子供が遠慮なんてせんでよいのじゃよ。
年寄りの暇つぶしに付き合うと思ってほしいのじゃ」
「と、年寄りって……」
「こう見えてお主の400倍は長生きしとるでの」
世界には人間の何倍も生きる種族がいると、レンも聞いたことはあった。
けれど目の前の女性は、自分と同い年くらいの少女にしか見えない。
だが、彼女の落ち着いた声色は嘘をついているように思えなかった。
「急いでおるなら無理にとは言わぬがの。どうじゃ、しばし言葉を交わそうぞ」
どうしようか迷ったレンだったが、断るのも失礼になりそうに思えて、タマモに促されるままベンチに腰を下ろす。そのベンチは奇しくも、以前レンがカジノオーナーの少女と話す際に座ったベンチだった。
「お主の悩みは、アクトのことかえ?」
タマモが事実を言い当てたことに、レンは驚いて彼女を見る。
「二人のことは、冒険者の間で話題になっておるからのう」
「……どんな、話ですか?」
「まあ、色々じゃな。アクトを批難する者、逆に庇う者。
それから『レン君って実は女の子じゃね?』と言う者もおったのう」
「ぼ、僕は男ですよっ!」
誤解を解こうと慌てて大声を出すレン。
少年のそんな様子を見て、タマモはおかしそうにくすくすと笑った。
「わしとしては、お主がどう思っているのかは気になるところじゃのう」
「……僕の、気持ち」
それは他ならぬレン自身が知りたいことだった。
自分の中で燻っている、「このままでいいのか」という焦りは、日に日に大きくなっていく。
かといって、どうすればいいのか分からない。許す、許さない……あるいは全て忘れて、王都を離れる。
いくつかの選択肢を思い描くことはできるが、そのどれもが「自分のしたいこと」だと思えなかった。
「アクトの奴に復讐したいのかのう?」
「っ、そんなこと、僕は望んでいません!」
タマモの言葉に、思わずレンは声を荒げた。
思うが侭に叫んで、そこでレンは気付く。
自分の心の中に、アクトに復讐したいという思いは、欠片もなかったことに。
「それは、自分の手を汚したくないということかえ? それとも、周囲の者に知られるのが怖いかの?」
「違います! 僕は……僕はっ!」
アクトにされたことを許せるかと問われれば、それは自分でもよく分からない。
けれど、アクトに対して復讐を行い、もし仮に成功したとしても。
そんな未来では笑えない、と。レンは頭に浮かんだ光景を振り払うように首を横に振った。
「僕は……アクトさんに不幸になってほしいんじゃないんです。
酷いことをたくさんされましたし、嫌いな人です……でも、命の恩人なんです。
それに、最近はたくさんの人を助けていますし、すごい人だなって……尊敬も、しているんです」
凶悪なモンスターと戦って、命の危機に陥った人々を助けていく。
そんな、幼い頃に孤児院の絵本で見た物語の中の英雄みたいな勇敢さは、レンにとって憧れる在り方だ。
憧れて……けれど、怖くて真似できない生き方だ。
「とかく、人の心は複雑なものじゃな。
嫌いな者の幸せを祈ることもあれば、好きな者の不幸を望む者もおる。
ひとまず、お主が復讐を望んでおらんようで、一安心じゃな。
幼子が復讐に走る姿など、見ていて嬉しいものではないからのう」
「……自分でも、よく分からないんです。僕が何を望んでいるのか」
搾り出すような声でレンが呟く。
その小さな声には、彼の苦悩が滲み出ていた。
「たくさんの人に感謝されていて、冒険者として活躍していて……。
そんな人には、幸せになってほしいと思います。
けれど、昔のことが忘れられなくて……あのことを全部、忘れるなんてことは……できそうにありません。
だからといって、僕はアクトさんに謝ってほしい訳でもないんです。
僕はただ……僕が納得できる未来が、ほしいんです」
自分が幸せになれて、アクトも幸せになれて、全てが上手くいくような。そんな理想的な未来。
そうなればいいと思うし、そうしたいと思うけれど。自分がどうすれば納得できるのか。
それがどうしてもレンには分からなかった。
「ふむ……お主、中々に強い心を持っておるのう」
「……え? ぼ、僕が……ですか?」
タマモの言葉に、レンは思わず聞き返した。
レンは自分のことを、強いなんて思えたことは一度もない。
カジノで引き当てた装備品やレベルアップカードのおかげで力は手に入った。けれど、本当に強い人と比べたら幸運で手に入れただけの力なんて大したことはないのだと、思い知らされてばかりだ。
「自分が嫌いな相手の幸せを願えるのは、すごいことじゃよ。
人はふとしたことで他人に敵意を向ける。そして嫌いな人間の不幸を喜ぶ者がほとんどなのじゃ。
わしはそんな人間を何人も見てきた。この目で何人も、何年も……数え切れぬ程にな」
悲しそうに目を伏せるタマモの胸中は、レンには分からない。
それはきっと、彼女にしか分からない苦しみなのだろうと思う。
励ますような言葉なんてレンには思いつかなくて、少年は押し黙ってしまう。
「お主は確かに、臆病者かもしれん。だが、それだけがお主の全てではなかろう。
臆病でも、その心には確かな優しさがある。自分の嫌いな相手に幸せを願えるような、そんな優しさが。
それはとても大切な、お主の心の力じゃよ。そのお主自身の気持ちを、決して忘れるでないぞ」
「僕自身の、気持ち……」
レンは自分の胸に手を当てて、瞳を閉じる。
小さな胸の中で息づいている自分の心に、語りかけるように。
無論、何か明確な答えが返ってくる訳ではないけれど。
ここにいるよ、と応えるかのように響く鼓動が、なんだかとても温かいものに思えた。
「……! ……!!」
「む? 何やら騒がしいのう。何事なのじゃ?」
遠くから聞こえる喧騒と、タマモの声にレンは我に返る。
騒ぎ声のする方へ目を向けると、一人の男が走りながら街を行く人々に知らせるように、叫んでいた。
「決闘だ! ガチャ狂いのアクトと余所者が、広場で決闘しているぞ!!」




