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閑話「狂犬と呼ばれた男 後編」

※残酷な描写が含まれています。



「……! ……、……!」


 アクトは、バリケードの向こうから聞こえてくる微かな声に気付いて、立ち上がった。何を言っているのかは聞き取れないが、必死そうな声色から切羽詰った様子が伝わってくる。外の見張り達に何かあったのかと、アクトがバリケードに近付こうとした時だった。

 

 ガン! という硬い物を叩きつける音が聞こえて、木材で組み上げたバリケードに亀裂が入ったのは。亀裂の隙間から、見張りとして外に待機していた自警団員の1人である男の声が教会内に響き渡った。


「た、助けてくれえ!」


 その男は錯乱した様子で、手に持った斧をモンスターにではなく、バリケードに向けて振るっている。戦う力のない村人達を助けるためにと、自分達が必死で組み上げた、大切な防壁であるはずのバリケードに向けて。


「な、何をしている! 気が触れたのか貴様!」


「あんなの勝てっこねえよ! に、逃げないと……!」


「や、止めろよお前! 教会の中には俺達の家族がいるんだぞ!?」


「う、うるせえ! 俺の邪魔をするんじゃねえ!」


 仲間であるはずの自警団員達が言い争う声に、「何をやってるんだ」とアクトは憤慨していた。しかし、アクトのいる教会内部に向けて斧が振るわれている以上、不用意に近付く訳にも行かない。

 とはいえ放置することもできず、せめて制止のために怒鳴ろうとしたが――。


「ひっ……!? ぎ、ぎゃああああ!!」


 ――戦況が待ってくれることはなかった。

 斧を振るっていた男の絶叫が響き渡り、それきり途絶えた。


「全員構えろ! 呆けていたらやられるぞ!」


「ち、ちくしょう……やってやる! 絶対に生き延びてやる!」


 バリケードに空いた穴は僅かなもので、外の様子はアクトには把握できない。

 だが、モンスターに襲撃されているらしいことは、聞こえてくる怒号と悲鳴から容易に想像できた。


「ぎ、ああああ!?」


「チャールズ! くそ、この野郎!!」


「待て、突出してはお前が……!」


 危機が迫っていることは明確だ。自警団員達はどうにも足並みが揃わず、劣勢に追い込まれているらしい。


(仕方ねえ、ここは俺が加勢して――)


 そう意気込み、一歩を踏み出したアクト。

 踏み出したその足は……次の瞬間、膝から崩れ落ちる。


「あ……あれ?」


 何もない場所で転ぶなんて、と自分に叱責しながら、立ち上がろうとする。

 ――しかし、彼の足は震えて、まともに力が入らなくなっていた。


「な、何だよ、俺……こんな時に、びびってんじゃねえよ……」


 自分を責めるように呟くアクト。だが、誰が責められるだろうか。

 大人でも逃げ出してしまうようなモンスターが近くに迫っていて、すぐ傍で行われている戦闘ではおそらく、いや間違いなく……人が殺されている。

 そんな窮地に幼い子供が放り込まれて、恐怖に震えて動けなくなることを、誰が責められるだろうか。


「あ、あんなに訓練してきただろ……? 動けよ、なあ動けよ、俺の身体……」


 ダイナ傭兵団の元で、アクトは数年間の訓練を欠かさず行ってきた。

 命の恩人であり尊敬する男であるダイナに、一歩でも近付きたい。

 そして仲間であるダイナ傭兵団と共に戦いたい。その願いを叶えるために、必死で努力してきた。何日も、何年も。ずっと。


 だが、厳しい訓練を乗り越えた兵士でも、初陣で恐怖に飲まれることはある。

 それでも、それでも今は動かなくてはならない。それが分かっていても、アクトの身体は萎縮して動けなくなっていた。


「動かなきゃ……死んじゃうだろ……?」


 ――バリケードが激しい破砕音と共に砕かれた。先程、自警団の男の手によって穿たれてしまった亀裂を中心にバリケードに穴が開き、そこから物影が飛び込んでくる。物影の正体は、赤い毛並みの狼だった。

 

 レッドウルフと呼ばれる、低級に分類されるモンスター。しかし、低級とはいえどモンスターである以上、人間を害する能力は十分にある。恐怖に震えているだけの子供など、瞬く間に食い殺してしまうだろう。


「あっ……く、くそ、来るな。来るなよ……!」


 立ち上がることもできず、床に腰をつけたまま必死になって後ずさるアクト。

 レッドウルフはそんな少年を、じりじりと追い詰めるように間合いを詰める――それは敵を仕留めるための動きではなく、獲物をいたぶるためのものだった。

 弱者を追い詰めることに愉悦を感じているかのように獰猛な笑みを浮かべるレッドウルフに、アクトは怯えながらも後退する。

 だが、それも長くは続かなかった。背中に硬い感触を感じて、アクトは振り返る。そこにあるのは、村人達が避難している地下室に続く扉だった。


(……何をやってんだ、俺は!)


 アクトは自らの現状を恥じながら、自分の頬を両手で強く叩いた。

 脳裏に浮かぶのは、先程の少女に話した己自身の言葉。


『怖くなんてねえよ。俺はダイナ傭兵団の一員だからな』


 自分を助けて、育ててくれた憧れの人達。

 そんな彼らの一員として認められたくて……守られる子供ではなく、共に戦える男になりたくて、アクトは強さを追い求めてきた。


『子供でも俺は男だ。そして傭兵だ。どんな敵が相手だって、戦うんだよ』


 ダイナ傭兵団の面々は、みんな勇敢な者達ばかりだった。

 アクトは傭兵としての仕事現場に同行を許されなかったが、傭兵団の皆はいくつもの戦場を渡り歩いている。

 いつも安全な場所で帰りを待つだけだったけど、いつかは共に戦えるようになりたいと、ずっと願って努力してきた。


『いつか本当に強くなるために、強がり続けるんだ……!』


 子供の強がりと笑われようと、強がり続けて強くなれ、と。

 血は繋がっていなくても、本当の父親だと思っている男にもらった言葉を、今一度思い返す。例え根拠のないただの強がりだっていい。大切なのは、ただの強がりを本当の強さに変えていくことだ。今はまだ幼い子供の強がりだとしても、自分は強くなれると信じられない者は、本当に強くはなれないのだから。


「――おうこら犬モドキ! てめえ、誰に喧嘩売ってるのか分かってんだろうなぁ!?」


 アクトは必死に自分を奮い立たせて、立ち上がる。

 膝はまだ震えていても、心も恐怖に怯えていても。それでも、勝つまで強がりを押し通すために、自身の弱気を蹴り飛ばすように叫んだ。


「男の意地を背中に背負い、突き進むは喧嘩道!

 ダイナ傭兵団の若き新星アクト様たぁ、俺のことだ!」


 モンスター相手に言葉が伝わっている訳ではないと理解しながらも、アクトは声を張り上げた。これは相手を怯ませるためではなく、己を奮い立たせるための言葉だ。育ての親であるダイナが、気合を入れるためによく行っていたことを真似しただけの、ただ強がるための叫びだ。

 

 だが――不思議と、アクトの身体から震えは消えていた。

 今は研ぎ澄まされた闘志が、彼に力強い活力を滾らせている。


「ここは絶対に通さねえ……!

 皆の傍ではまだ戦えなくても、ここが俺の最前線だ!」


 レッドウルフが、アクトの敵意を感じたのか飛び掛ってくる。

 アクトはそれを真正面から剣で受け止めた。しかし、予想よりレッドウルフの方が力強く、押し倒されてしまう。

 

 剣の刃を銜え込み、敵の武器を封じたとばかりに勝ち誇った様子で己を見下すレッドウルフに対してアクトは――ポケットに忍ばせていた砂を素早く片手で掴み、レッドウルフの顔面に叩き付けた。

 

 どんな獰猛な生物でも、眼球は弱点であることが多い。即席の目潰しで相手を怯ませたアクトは、レッドウルフの腹に爪先蹴りを喰らわせる。ただの蹴りではない。靴の先端に仕込み刃が装着された、特別製の靴による刺突だ。

 腹を刃に抉られたとあってはさすがに堪え切れなかったのか、レッドウルフは悲鳴を上げて飛び退く。その隙を見てアクトは立ち上がり、体勢を整えた。


「はっ、おいおいどうしたぁ!? この程度で俺に勝とうなんざ思ってんじゃねえよザコが!」


 威勢よく吼えながらも、アクトは必死だった。小柄な体格の自分に筋力が足りていないことは自覚しているつもりだったが、ああもたやすく押し切られるとは思っていなかったのだ。いくら訓練で鍛えていた所で、彼には圧倒的に実戦での経験が不足していた。それを理解していても、今は戦うしかない。


「……ぐぁ!? し、しまっ……!」


 何度目かの攻防を経て、アクトはレッドウルフの突撃を受け流そうとした際に、剣を取り落としてしまった。ただでさえ彼には不釣合いに重い剣を振るい続けたことで疲労が蓄積しており、さらに手汗で滑りやすくなっている所に叩き込まれた強い衝撃に、握力が保てなかったのだ。

 

 からんからん、と床を転がっていくアクトの剣は、地下室へと続く扉にぶつかって止まる。鉄製の扉はたやすく破られることはないだろうが、何匹ものモンスターの攻撃に耐えられるかは分からない。剣を拾うために扉に近付くべきか、少しでも敵を扉から引き離すように素手で立ち回るべきか――ほんの一瞬、迷いを見せたアクトにレッドウルフは躊躇わず襲い掛かった。


「ぎぃ……!? あ、っつう……!」


 レッドウルフの鋭爪に腕を引き裂かれて、激痛に顔を歪めるアクト。

 幸い、咄嗟に身を捩ったことで薄皮を裂かれただけだが、傷口から感じる痛みと熱は決して軽いものではない。血が滲む片腕に眉をしかめながら、アクトは慌ててレッドウルフから距離を取った。


(背中を見せる訳には行かねえ……!

 少しずつ、慎重に後退して剣を拾わないと……!)


 やはり武器が必要だと判断したアクトは、レッドウルフから視線を外さないように警戒しながら、少しずつ扉に向かって後退する。

 アクトが逃げ腰になっていることを獣の本能で悟ったのか、レッドウルフは追撃を掛けようと追ってくる。しかしその足取りは遅く、じわじわと逃げ場を潰すように接近してくる。最初の攻防でアクトに目潰しから始まる反撃に痛い目を見たからか、警戒心を露にしているようだった。


(あと少しで、手が届く……!)


 額から冷や汗を垂らしながら、アクトは剣の位置を横目で確かめる。

 あと3歩下がれば剣を拾える――という距離まで近付いた、その時だった。


「ヒ……ヒール!」


 少女の声と同時に、扉が内側から開かれたのは。

 扉の覗き窓越しにこちらの様子を見ていた彼女は、名前も知らない勇敢な少年を助けたい一心で、肉体を回復させる治癒魔法の呪文を唱えていたのだ。その手助けは、アクトにとってありがたいものだ。どうやら修道服の少女は魔法の素質が高いのか、先程レッドウルフに引き裂かれた切り傷が見る間に閉じていく。


 だが、タイミングが悪かった。開かれた扉に弾かれた剣が、勢い良く床を転がっていく。少女からは、扉の前に転がっている剣は見えなかったのだ。そしてレッドウルフが、か弱そうで手頃な獲物を見つけたことで――少女のいる方へと、飛び掛っていった。


「さっさと扉を閉じろぉ!!」


 必死に叫んで、アクトは咄嗟に剣の柄を踏んだ。

 転がっていこうとしていた剣が、柄を踏みつけられた衝撃で跳ねる。アクトは足で止めようとしたのだが、踏み所が悪かったらしい。浮かび上がった剣の柄を空中で掴み取り、アクトはレッドウルフに目掛けて、全力で跳んだ。


「てめえの相手は、この俺だあああ!!」


 身を投げ出すように跳躍して、全身の体重を乗せて剣を振るう。不安定な体勢で放たれた剣閃は、彼の狙いからは逸れたものの――少女に飛び掛ろうとしてアクトから注意を逸らしていたレッドウルフの腹を、大きく斬り裂いた。


 大人の人影が少女を庇い立ちながら、大慌てで鉄製の扉を閉じる。少女に飛び掛かろうとした勢いそのままにレッドウルフの身体が扉に叩きつけられた。

 斬られた衝撃で体勢を崩していたレッドウルフはまともに頭から扉に激突して……腹を裂かれたショックか、扉に衝突した際に首の骨でも折ったのか、ぴくりとも動かなくなる。


「はぁ……はぁ……! くそ、手こずらせやがって……!」


 乱れた息を整えながら、アクトは倒れて動かないレッドウルフの首に剣を振り下ろす。憎いから死体に追撃する訳ではない。確実に息の根を止めておきたかったからだ。大上段から振り下ろされた剣は、レッドウルフの首を叩き潰すように斬り落とした。ごろんと床に転がるレッドウルフの頭部を見て、ようやく戦闘が終わったことを実感したアクトは、その場にへたり込んだ。


「あ、あの……大丈夫ですか?」


 扉の向こうから、修道服の少女の声が聞こえてくる。

 こちらを心配しているのが伝わってくる声色に、しかしアクトは怒鳴り返す。


「てめえ、急に扉を開けてんじゃねえよ! 焦っただろうが!」


「ひぅ!? ご、ごめんなさい……あ、あなたのことが心配で……」


 今度は泣きそうな少女の声に、アクトは自分の言動を後悔する。

 極度の緊張から解放されたのもあって、つい感情のままに叫んでしまったが、彼女の魔法に助けられたことも事実だ。

 あの治癒魔法がなければ、剣を十分に振るうことはできなかっただろう。

 だから、この場は叱責よりも先にするべきことがあると思いなおして、照れくさそうに頬を掻きながら、少女に言葉を掛けた。


「あー……その、怒鳴って悪い。治癒魔法、助かった」


「お、お役に立てたなら、嬉しいです……えへへ」


 アクトの言葉に安堵したのか、扉越しにも笑っていることが伝わるような声で話す少女。二人のやり取りが一段落した所で、大人の男性のものと思われる声がアクトに話し掛けた。


「き、君。どこも怪我はありませんか?」


「……あんたは?」


「さっき話してた神父様だよ。あのね、さっきのお話したら、神父様も私のことを本当の家族だと思ってるって……えへへ。

 それを伝えてあなたも避難してもらおうと思って戻ってきたんだけど、そしたらすごい物音がして……私、もう必死で……」


「すみません。ここまでモンスターが入り込むと予想していませんでした……私の見通しが、甘すぎたせいであなたを危険に晒してしまい、申し訳ございません」


「いや……俺は望んでここにいて戦ったんだ。あんたらは悪くねえよ。それより、見張りの自警団員達に何かあったみたいなんだが……」


「なんですって!?」


 アクトが状況を濁して伝えると、扉の向こうから知らない女性の声が聞こえてきて、次いで扉が開け放たれる。

 中から飛び出してきた女性は、アクトに目もくれず外に続くバリケードの亀裂へと走っていった。神父やアクトが止める間もなく外へと駆け出た女性の悲鳴が、教会内にも伝わって響き渡る。


「あ、ああ……あなた、あなたぁぁ!?」


 どうやら、女性の夫となる人物に何かあったらしい……いや、状況から考えるなら、答えはもう明らかだ。死んでいるのだ。教会の外で、たくさんの人達が。


「……私は、村の様子を見てこようと思います」


 神父はそう言って、扉の方へと語りかけた。アクトがその視線を追うと、扉から続く通路に幾人かの村人がいることに気付く。どうやらアクト達の話し声や女性の悲鳴が奥まで伝わっていたらしく、様子を見に来たようであった。

 神父は村人達に、扉を施錠して隠れているようにと話していた。


「今ならばまだ、治癒魔法で助けられる人がいるかもしれません」


「わ、私も……!」


「あなたはここで、村の人達を安心させてあげてください。私の代わりの仕事を任せてすみませんが、どうかお願いします」


「けど、だけど神父様が……!」


 まだ危険かもしれない外へ行こうとする神父に、少女が心配そうに声を掛ける。自分が足手纏いになると察している様子で、それでも彼女にとっての大切な父親である神父の身を案じて、涙目で訴えかけていた。しかし、神父も退く様子はない。少女もまた、自分の身を危険に晒してでも他人を助けようとする神父の性格を知ってか、それ以上引き止められずにいるようだった。


「だったら、俺がついていく」


 アクトはそんな少女を安心させようと、そう言って剣を鞘に収める。

 遭遇するモンスター次第では自分も足手纏いになるかもしれないが、それでも戦いの心得がないらしい少女よりは自分の方が戦力になるだろうとアクトは確信していた。


「お前の代わりに俺が神父様を守ってやる。

 だから、お前はここで村の皆を守っていてくれ」


「……わ、分かった。だけど、ちゃんと戻ってくるって約束して」


「ああ、約束だ」


 アクトはそう言って、握り拳を少女に向けて差し出す。

 目の前に出された拳を見てきょとんとしている少女に、アクトは尋ねた。


「約束する時は、拳をぶつけ合うものじゃねえの?」


「え、えと、たぶんあんまりしないと思う……」


「傭兵団じゃこれが普通だったんだけどな。

 じゃあ、お前の約束の仕方を教えてくれよ」


「う、うん。えっとね、小指を出して……」


 アクトは言われるまま、自身の小指と少女の小指を繋ぎ合った。

 すると少女はその指をぎゅっと握り返して、軽やかに歌い出す。


「ゆーびきーり、げーんまん! 嘘ついたら針千本飲ーます! ゆびきった!」


「……お前、可愛い顔して恐ろしいこと言いやがるな」


「こ、こういうおまじないなの! それに嘘つかなければ、それでいいの!」


 怪訝な顔をするアクトに、少女は大慌てで誤解を解こうとそう言った。

 聞けばどうやら、クリスティア王国では有名な約束を儀式であるらしい。


「とにかく、これで約束はしたからな。お前もちゃんと守れよ」


「うん、村の皆のことは任せて!」


 少女が元気良く頷くのを見て、アクトは神父と共に外へと向かう。

 ――彼らの背後で、村人達の中に邪悪な笑みを浮かべている者達がいることに、アクト達は気付かなかった。



   〇



 教会の外には、悲惨な光景が広がっていた。

 自警団員達はほとんどのモンスターと相打ちとなったらしく、全員が地に伏してぴくりとも動かない。神父が彼らの身体に触れていくが、回復魔法を掛けても治る見込みがないと判断したのか、一様に首を横に振るだけだ。


「おい、さっきの女がどこにもいないぞ」


 先程、夫の姿を探して飛び出していった女性の姿がどこにも見当たらなかった。それは神父も把握していたらしく、周囲に視線を配るが動く人影は見えない。視界に映るのは、自警団員達とモンスター達の骸。そして、あちこちで倒壊している村の建物ばかりだった。


「……教会に戻られた様子はありませんでしたね。

 村へと向かわれたのかもしれません」


「何しに行ったんだか……とにかく、助けられそうな人を探しながらついでにあの女も――」


 探そう、と言葉にしようとした時のことだった。

 遠くで凄まじい爆裂音と共に、空へと黒煙が立ち上るのが見えたのは。

 遅れて吹き荒れた爆風に、アクトと神父は咄嗟に身を屈めて両腕で目を庇う。

 突風が落ち着いた頃、改めて黒煙の上がる方角を確認したアクトは、気付いた。その方向は、ダイナ傭兵団がモンスターの大群と戦っているはずの、村の入り口であることに。


「お……親父っ!」


 アクトは我を忘れて、駆け出していた。

 神父を守ると約束したことも、村にはまだ危険が潜んでいるかもしれないことも、頭から抜け落ちてしまう。それだけ、アクトにとって育ての親であるダイナが、彼の率いる傭兵団が、大切な存在だったからだ。最初は止めようとしていた神父も、やがてアクトの気持ちを察したのか、何も言わず共に駆ける。



 道中には、いくつもの遺体が転がっていた。

 アクトが、今日まで共に生活してきた、ダイナ傭兵団の面々が。

 何人も、何人も――あれだけたくさんいた、賑やかで騒がしい傭兵団員達が、物言わぬ身体となって倒れ伏していた。

 誰か一人でも助けられないかと神父は倒れた人々の生死を確かめているために、徐々にアクトと距離が離れてしまう。

 

 アクトは、ダイナ傭兵団の無残な姿を見ても、立ち止まらなかった。

 彼らがどうでもいいからではない。ダイナが最優先だからではない。悲しくない訳がない。一度でも立ち止まってしまえば――もう二度と、立ち上がれなくなってしまいそうだったからだ。


「親父……親父! セシル! ベル! タツミ! みんな……どこにいるんだよぉおお!!」


 涙を堪えて、アクトは変わり果てた村を駆ける。

 大声を出せばモンスターを引き寄せるかもしれないと分かってはいても、叫ばずにはいられなかった。そうでもしなければ、胸が張り裂けてしまいそうで、とてもではないが耐え切れなかった。



 やがてアクトは、黒煙の発生源へと辿り着く。

 そこには、地面が穿たれたクレーターが広がっている。

 クレーターの中心には、治まる様子のないもうもうとした黒煙。

 そして、黒煙のすぐ傍には――。


「あ……あああ……親父……親父っ!! 


 ――全身をずたずたに引き裂かれたダイナが、地面に転がっていた。

 空を仰ぎ見るように倒れ伏している育ての親の姿を見た瞬間、アクトは息を切らしながら走った。

 クレーターの斜面に足を取られながら、必死で駆け寄るアクト。ダイナは苦笑いを浮かべながら、血の繋がらない大切な息子に不敵な笑みを浮かべる。


「おう、アクト……てめえ、任務を放り出しやがったな……」


「お、親父……俺、俺は……」


「まあ、俺らも……生きて帰るって約束、守れなかったからなぁ……おあいこ、だ」


 不敵に笑いながらも、普段からは考えられない弱気な言葉を口にするダイナ。

 そんな弱りきったダイナの様子に、アクトはもう涙を抑えられなかった。


「だ、大丈夫だって親父……今、回復魔法が使える神父様がやってきてるんだ。

 こんな怪我、すぐに治して……」


「アクト……こいつは、回復魔法でもどうにもならねえよ」


「そんなことない! ぜ、絶対になんとかなる、か、ら……」


 必死にダイナを励まそうとするアクトだが、ふと気付く。

 アクトの視界からは物影になって見えていなかった、ダイナの半身の大部分が、跡形もなく消し飛んでいることに。

 神父の回復魔法がどれ程優れているのか、アクトは把握していない。

 しかし、これ程の重症では――助かる見込みがないことは、子供であるアクトにも十分に分かった。

 

 回復魔法は、身体を治すことはできても、零れ落ちた命までは救えない。

 流れた血は失われたまま元には戻らない。ただそれ以上失うのを防ぐことまでが、回復魔法の限界。

 死に瀕した者を救えるのは、最早回復魔法の領域ではない。それは最早、神の御業と呼ばれる奇跡だ。魔法を使えないアクトだが、回復魔法の天才を自負するセシルが語っていたその言葉を、覚えていた。


「お、親父……」


「ちょいと、でけえ狼みたいな手強い奴がいてなあ……お、追い払うのが、やっとだった、げほ、ごほっ!」


「親父!? しゃ、喋ったらだめだ!」


 話す途中で血を噴いたダイナに、アクトは涙目で止めようとする。

 しかしダイナは、話すことを止めようとしなかった。

 今際の際に、子供に最後の言葉を残そうとする父親のように。


「アクト……強くなれ。強い男になって、そして……」


 振り絞るように、零された言葉。

 それきり―ダイナの声は、途絶えた。


「親父? ……親父?」


 子供アクトの呼びかけに、応える父親ダイナは、もういない。

 ずっと憧れて、いつか共に並び立ちたいと願っていた育ての親は、いつものような微笑みを浮かべながら――眠るように死んでいた。 


「おやじ……あ、ああ……あああああ……!」


 男なら泣くなと、よく言われていた。けれど、堪えることなどできなかった。

 冷たくなっていくダイナの手を両手で握り締めながら、アクトは泣きじゃくる。背後に、駆けつけた神父の気配を感じても、アクトはただ悲しみのままにダイナの遺体にすがり、嗚咽する。

 天からは、アクトの涙を洗い流そうとするかのように、雨が降り始めていた。



  〇



「なあ……あんたの回復魔法なら、親父は救えたのか?」


 ひとしきり泣いたアクトは、背後にいる神父に声を掛ける。

 その声はまだ掠れていたが、聞き取れない程ではない。

 神父はアクトの言葉に、首を横に振った。


「申し訳ございません。私の力では、手の施しようがありませんでした……」


「……そうか」


 アクトは、ダイナの遺体から手を離して、立ち上がった。神父の言葉が、責任から逃れるための嘘かもしれないと一瞬だけ疑ったが、悲しそうに黙祷する彼の姿を見れば、そのようなことをする不誠実な人物には思えなかった。


「なあ、神父様。親父達を、その……弔ってやりたいんだけど、手伝ってくれないか」


 弔うと口にすると、大切な人々の死を意識して、泣きそうになるアクト。だが零れそうになった涙を拭い、アクトはまっすぐに神父を見て、助力を願った。

 神父は真剣な表情で、その申し出を快諾する。


「ええ、もちろんです。この村を救ってくださった英雄達の魂が、神の御許に導かれるように、お手伝いさせていただきます」


「……よろしく、頼みます」


 頭を下げるアクトに、神父は少年を安心させようとするように頭を撫でた。

 準備のために、二人はその場を離れて村に戻ることにする。

 その前にアクトは、ダイナの骸の前に立ち、今はもう答えが返らないことを理解しながらも、語りかけた。


「親父、俺は強くなるよ。絶対に、強い男になる」


 死者の魂に言葉が届くとするのなら、どうか届くようにと、アクトは強く祈りながら誓いを立てる。しかし彼の顔は、今にも泣き崩れそうに歪んでいた。


「だけど……だけどさ。強くなった俺は、何をすればいいんだよ。

 いっしょに戦いたかった人達はもう、どこにもいないのに……」


 今までは、ダイナ傭兵団の一員に相応しい男になりたくて、強さを求めてきた。その、守りたかった居場所が突然失われて、アクトは途方にくれていた。

 ――穴が穿たれたように空虚な心に、育ての親が残した言葉のひとつが蘇る。


『でけえ狼みたいな手強い奴がいてなあ……』


 巨躯の狼のような、モンスター。その姿には、見覚えがあった。

 アクトが奴隷商から逃げ出すきっかけとなった、数年前に見た巨大な狼のような姿をしたモンスター。名前も知らない怪物のことだが、あの恐ろしい姿は今でも目に焼きついている。


「あいつが、皆を……なら、俺が……俺が、この手で……!」


 ダイナの語るモンスターと、アクトの記憶に焼きついたモンスターが、同一のものだという確証はない。だけど、人生を掛けた目標を理不尽な暴力に奪われたアクトにとって、それが唯一残された目標だった。

 ――育ての親の、ダイナ傭兵団の仇を討つために、強くなる。

 

 復讐は何も生まない、なんてどこかで聞いた綺麗事が頭に浮かぶ。

 その言葉を聞いた時は別に、どうとも思うことはなかったが、今なら「違う」とはっきりと断言できる。大切な人を奪われた者にとって、復讐心は明日を目指すための力の源だ。復讐が生み出すものはある。そしてそれは、今のアクトにとって必要な物だった。この溢れ出る復讐心を糧にしなければ、彼は立ち上がることができそうに、なかった。


 ダイナ達が復讐を望んでいるのかは確かめようがない。

 しかし自分を支えるものを奪われたアクトにとっては、それがダイナ傭兵団の供養になると信じるしかない。そうでも思わなければ、何を支えにこれから生きていけばいいのか、分からなかった。






 アクトは神父と共に、村の中へと戻った。

 まだ生きている者がいるかもしれないし、モンスターが潜んでいる可能性もある。だから、警戒はしていた。ダイナ傭兵団の生き残りがいるならば見逃すまいと。モンスターがいるならば討ち倒せるようにと。

 ――しかし、村の中でアクトが見た光景は、その予想のどれにも当てはまらないものだった。あまりにも信じられなくて、目の前に広がるのが現実だと、信じられなかった。


「……は?」


 思わず、声が漏れる。

 アクトと神父の目の前に広がっていたのは。


「この、この……! 貴方達が、貴方達がちゃんと戦わないから、私の夫が……!」


 命と引き換えに、ダイナ傭兵団の皆が守り抜いたはずの、村人達が。

 戦いの果てに命を落とした者達に、農具を振り下ろしていて。


「おい、こっちの馬車にもお宝がわんさかあるぜ! これだけありゃあ、しばらくは遊んで暮らせるってもんだ!」


「へっへっへ、こいつらが弱いせいで村がこんなことになったんだからなぁ、慰謝料ってやつだよなこれは……!」


 傭兵団の馬車から、ダイナ達が命を張った傭兵業で稼いだ金品を漁って、下品に嗤っていて。


「な、なあ。こっちの女、綺麗な身体してるじゃねえか」


「し、死体だけど、傷は派手じゃないし……た、楽しめそうだよなぁ……」


 なにか、とてもひどいことを、いっていた。


「――あ、貴方達! 何をしているのです!」


 いち早く神父が、村人達の凶行を止めようと叫んで駆けていく。

 アクトは呆然と、目の前の光景を眺めていることしかできなかった。

 まるで現実感のない、悪夢の中に迷い込んだような錯覚に捉われて、怒りすら湧き起こらない。

 真っ白になった頭の中で、アクトは聞き覚えのある声を聞いた。


「だめー! みんな、そんなひどいことしちゃ、だめ!!」


 綺麗だった修道服を泥に汚しながら懸命に走ってきた、少女の声だ。

 彼女が守っていたはずの村人達が、何故教会から村に出てきていて、このような行為に走ったのか、アクトには経緯が分からない。


「その人達は、あの子にとって大切な人達なの! だから、そんなひどいことしちゃ、だめなの!!」


 ただ、泣きそうな顔で、それでも必死に村人達を止めようとする少女の姿を見て、彼女が約束を守ろうとしていることは理解できる。

 理解できないことが、理解したくもないことがあるとするならば。


「うるさいんだよ、親無しのガキが!」


 そんな、幼くとも必死に、他人アクトの大切な人を守ろうとした少女の頭を、呼び止められた男が、殴り飛ばしたことだ。

 少女は殴られた衝撃のせいか、親無しと蔑まれたせいか、地面に倒れたまま動かなくなる。彼女の保護者である神父が何かを叫んでいたが、アクトにはもうそれを聞いている余裕など、欠片もなかった。

 

 実の親に愛されず、理不尽な目に合わされても尚、かろうじて保たれていた何かが。ダイナ傭兵団に育てられて、たくさんの愛情に守られてきた、人として大切な何かが。アクトの心の中で、粉々に、砕け散った。


「――!!」


 村人達に駆け寄りながら、言葉にならない咆哮がアクトの喉から迸る。何を言おうとしたのか、なんて忘れてしまった。

 人が本当に怒り狂う時には、人間の言葉なんて忘れてしまうのだということを、アクトは自らの口から噴き出す獣じみた絶叫によって、身を持って知ることとなった。


 修道服の少女を殴り飛ばした男の顔面に、アクトは全速力で駆け寄った勢いのまま拳を叩き込む。男が怒声を上げながら反撃しようとしてくるが、逃げ隠れていただけの素人の男など、アクトにとって敵ではない。

 

 大振りで振るわれた拳を避けて、人体の急所である金的を蹴り飛ばす。

 悶絶した男の足を払いながら押し倒して、何か喚こうとするその口に何度も靴底を叩き付けた。やがて気を失った男の傍で身体を震わせていた、二人掛かりで女性の……セシルの遺体に乱暴を働こうとしていた男に、アクトは飛び掛かる。


「ま、待って! 俺は何もしていな――」


「煩い。人間の真似をして喋るな、毒虫が」


 何か言い訳でもしようとしたらしい男に、アクトは容赦なく拳を振るう。

 衝撃で地面に転がり、怯えたように身を丸める男の頭に、アクトは傍に転がっていた酒の空き瓶を叩き付けた。

 激しい音を立てて空き瓶が砕け散り、男が地面に突っ伏す。

 馬車を漁っていた男達や、死体を痛めつけていた女性は、瞬く間に大人二人を叩き潰したアクトを見て、悲鳴を上げながら逃げ出していく。

 アクトはその後を追う前に足元に倒れ伏した男達に止めを刺そうと、剣を鞘から引き抜こうとした。


「や、止めてください! あなたの怒りは正当な物ですが、殺人は――!」


「安心しろよ、神父様」


 アクトを止めようと叫ぶ神父に、アクトは微笑みを向ける。

 今にも、壊れてしまいそうな歪んだ微笑みを。


「こいつらは人の姿をした毒虫だ。

 だからこれは殺人じゃない……ただの害虫駆除だ」


「い、いけません! どのような理由があろうとも、そのように考えては……!」


「さすが神父様だな。ご立派なことで。

 復讐は何も生まないとか、綺麗事でも聞かせてくれるのか?」


「違います! ここで止めなければ……貴方が救われないから、止めるのです!」


 その言葉に、アクトは一瞬、動きを止めた。

 アクトは神父に歩み寄り、じっとその顔を見つめて、尋ねる。


「……俺を救うって言うなら、皆を生き返らせてくれよ」


 無茶な願いだと、アクトも理解している。神父も答えることができずに、言葉を詰まらせた。それでも、願わずにいられない。アクトが望んでいたのは、これからもダイナ傭兵団と共にいることだったのだから。


「皆がいてくれたら、それでよかったんだ……なあ、俺を救うっていうなら、返してくれよ……俺の大切な人達を、返してくれよ……!」


 アクトは膝からその場に崩れ落ち、泥に塗れるのも構わず泣き出した。

 気が狂いそうになる憤怒がかろうじて塞いでいた堰を切って、感情が洪水のように溢れ出してくる。


「こんな、こんな奴らを守る為に死んだ、俺の大切な人達を……!

 俺の家族を、返してくれよぉ……!」


 ダイナ傭兵団の誰も、口にすらしなかった方法を使えば、あるいは自分達だけは助かる可能性はあった。村人達を囮にして、モンスター達が彼らを襲っている隙に一目散に逃げ出せば、無傷とはいかずとも脱出できる可能性はきっと、あったはずだ。子供のアクトにだって思いつくその手段を、ダイナ傭兵団の面々が思いつかないとは考えにくい。

 

 きっと、自分達だけなら助かる道があっても、それでもみんなまとめて救える可能性に、ダイナ傭兵団は挑んだのだ。

 迫り来る死への恐怖も、残した未練も、胸中に隠したまま勇敢に戦った。

 そんな人達が救われず、助けられたことに感謝すらせずに凶行に及ぶような人間が生き延びている。

 目を逸らしたくてもできないその現実に、アクトの心は打ちのめされていた。



   〇



 ダイナ傭兵団の面々は、アクト以外誰一人として残らず全滅していた。

 遺体の損壊も激しく、各団員が個別に身に着けたタグがなければ、誰なのか判別することが不可能だった者もいる。


 神父の助けを借りて、全員の埋葬を終えたアクトは、部屋に閉じこもっていた。彼一人きりではない。目を覚まさない少女が寝かされている部屋の中で、椅子に座ってじっとしていた。神父以外の者がこの部屋に入ろうとしたら、敵意を剥き出しにして追い払うためだ。

 

 アクトにはもう、他人を信じることができなくなっていた。

 唯一の例外が今も眠り続ける少女と、ダイナ傭兵団の埋葬に尽力してくれた神父だけだ。少女の看病だけでなく、残された村人のためにも働かなければならない神父の代わりに、アクトは少女の目覚めをずっと待っていた。

 三度の夜が終わり、朝日が差し込んだ頃、少女の目蓋がゆっくりと開かれる。

 アクトは思わず椅子を蹴飛ばす勢いで立ち上がり、少女の顔を覗き込んだ。


「あ……よかった、無事だったんだね」


 アクトの顔を見た少女が安堵したように綻ぶ。

 少年もまた、彼女が再び目を覚ましたことに喜び、不器用に微笑んだ。


「ああ。神父様のおかげでな」


「そっか、えへへ……さすが、神父様だなあ」


 夢見心地に包まれてはにかみながら、少女は目を細めた。

 ちょうどその時、部屋の扉がノックされて、件の神父の声が聞こえてきた。

 アクトが鍵を開けると、神父が看病のための道具を抱えて部屋に入り、目覚めた少女の姿を見て喜びを露にする。


「ああ、良かった。痛みはありますか?」


「はい、神父様。まだ少し痛むけど、平気です」


「無理をしてはいけませんよ。今はゆっくりと休んで安静にしてください」


 和やかに話す二人を見て、アクトはそっと部屋の外に向かう。

 家族の団欒を邪魔するのは忍びないし、何より……自分が失ったものを見せられると、胸が苦しかった。

 少女が無事に目を覚ましたことも確かめたし、ダイナ傭兵団の埋葬も終わった。だから、もういいだろうと、アクトは胸中で決意する。


(――もう、潮時だな)


 そう悟ったアクトは、部屋の隅に置いていた自分の荷物を手に、廊下へ出る。

 扉を閉める前に、そっと中の光景を覗き見た。

 傷ついた我が子を労わる父親と、その愛を感じて幸せそうに微笑む少女。

 そのありふれた幸せな光景が、自分にはもう二度と取り戻せないのだと思うと、思わず涙が零れそうになる。

 涙を拭い、今度こそアクトは静かに扉を閉めた。






 神父達の元を離れたアクトは、教会の外へと出る。

 傭兵団の馬車に残された荷物の中から、旅に必要な物をまとめた鞄を肩に下げて、フードに身を包んでいる。大陸地図を鞄から取り出して、この村の位置から目的地までの旅路を確認していく。


(この村は、シュフイの村。王都に向かう駅馬車が出ているのは、歩いて2日くらいのところにある町だったな)


 このような事態になる前、傭兵団の面々と話していたことを思い出しながら、道程を改めていく。歩いて2日というのも、大人の足での話だ。子供であるアクトの場合、さらに時間が掛かるかもしれない。馬がいればよかったのだが、ダイナ傭兵団の保有していた馬車の馬はモンスターに殺されたようで死んでいたし、村にも生き残った馬や家畜の類はいなかった。道中でモンスターや盗賊に襲われる可能性も考慮して、身を隠して進むのなら、もっと時間を必要とするだろう。

 

 それでも、もうこの村で過ごすのは嫌だった。

 きっとあの神父なら、身寄りをなくした自分を保護してくれようとするだろうし、彼ならば真剣に自分を守ってくれるだろう。

 だけど、この村で生きていくのなら、ダイナ傭兵団に対してひどい仕打ちをした村人達と同じ場所で生きていくことになる。

 それは耐え切れない苦痛であった。村人達があの行いを反省しようが、しまいが、自分が許すことはできそうにない。

 最後には、堪えきれず殺すことになるかもしれない。

 

 全ての村人があのような邪悪な人間ではないと信じたいが、自分にはもう他人を信じるということができそうになかった。第一、この村にいればずっと、ダイナ傭兵団の末路がいつまでも頭を離れず、苦しみ続けることになるだろう。

 

 無論、ダイナ傭兵団のことを忘れるつもりはない。だけど今のアクトは、前に向かって走り続けなければ、二度と立ち上がれなくなりそうな思いだった。

 

(俺は強くなる。強くなって、ダイナ傭兵団の仇をこの手で討つ……!)


 強くなるための手段は、考えてある。

 本人の意思さえあれば誰でもなれるという職業――冒険者。

 命懸けの仕事である以上、決して誰にでも続けられる楽な仕事ではないが、それは傭兵業も同じことだった。

 冒険者として強者となり、モンスターの情報が集まるだろうギルドで件の巨大狼のモンスターを調べて、いつかは復讐を果たす。

 その目的を果たすことを原動力に、今のアクトは自分を突き動かしていた。


(行ってくるよ、みんな。俺は……絶対に強い男になる)


 一度、村の外れにあるダイナ傭兵団の墓に向かって、祈りを捧げるアクト。

 しばらく黙祷した後、彼は再び歩き出した。

 墓については、神父に頼むことを書置きに残してきた。あの神父ならば、悪い様にはしないでくれると、そう信じるしかない。

 そこまで考えて、ふと書置きに自分の名前を書き忘れたことを思い出した。

 とはいえ、今更戻る訳にも行かない。黙って村を出ようとしたことがばれてしまい、そうなれば神父は自分を引き留めようとするだろう。


(……別にいいか。俺の名前なんて知られてなくても。

 みんなの墓さえ守ってもらえれば、それで十分だ)


 アクトは村に背を向けて、歩き出す。

 目の前に広がるのは、モンスターに踏み荒らされた草原と、町へと続く街道。

 一人きりの旅路へと、少年はその一歩を踏み出していった。



   〇



 シュフイ村の入り口で、アクトの書置きを手に神父は、肩を落としていた。

 もう少し早くこの書置きに気付いていたのなら、少年を引き留めることができたかもしれない。

 しかし書置きを見つけてすぐに村の外へと駆けたが、もうどこにも少年の姿はなかった。少年がどこに向かったのかは書置きにも残されておらず、追いかけることはできそうにない。

 

 家族として共に生きてきた人々を失い、傷心した所に村人達の非道を目の当たりにした少年の心がどれ程深く傷ついたのか、神父には想像することしかできなかった。想像して、勝手に理解した気になることも罪深いことかもしれない。

 

 神父にはもう、少年の傷つけられた心がいつか救われることを、祈ることしかできなかった。それしか、少年のためにできることが、残されていない。


「……神よ。どうかあの少年を見守りたまえ」


 名前すら告げずに去っていった少年に、神父は心からの祈りを捧げる。

 祈ることすらできない我が身にこれ程の無力を感じたのは、神父にとって初めてのことだった。






 教会の中の一室。ベッドの中でうとうととしていた少女は、ふと思う。

 あの少年の名前は、なんて言うのだろう、と。

 とても勇敢で、子供とは思えないくらいに強くて、けれどとてもつらい目にあってしまった同世代の少年。

 

 夢見心地の中で、彼女は心に決める。

ちゃんと目が覚めたら、あの少年に名前を聞こう。

 そして自分の名前を彼に伝えて、お友達になりたいと伝えようと。

 ロロラという、血の繋がらない本当の父親からもらった名前を、伝えようと。

 

 その願いが叶わないことを知らずに。

 少女はまどろみながら夢の中へと落ちていった。




   〇




 数日間の旅路の果てに、アクトは王都冒険者ギルドへと辿り着いた。

 ダイナ傭兵団が残した金貨を路銀に当てたことで大分楽はできたが、それでも安寧な旅路とは程遠かった。

 しかしそれもようやく終わったのだと胸を撫で下ろしかけたアクトだったが、気持ちを引き締める。まだようやく、冒険者としてのスタートラインに立ったばかりなのだ。安堵している暇などない。

 

 意を決したアクトは、ギルドの扉を押し開けた。

 冒険者ギルド内は、荒くれ者達の喧騒で混沌としていた。

 その中を歩くアクトの姿は、彼らにはからかいの対象であったらしい。


「おいおい、おちびちゃん! 

 こんな所に来てないで、さっさとママの所に帰りな!」


「母親の顔なんて知らない。育ての親も死んだ。帰る場所なんてない」


 嘲笑と共に向けられた言葉にアクトが短く吐き捨てると、声を掛けてきた男は気まずそうに「……お、おう?」と呟いて、視線を逸らした。

 脅せば泣いて逃げ出すとでも思っていたのかもしれないが、アクトにはもう逃げ帰る場所なんてない。

 居場所はこれから、自分で勝ち取るしかないのだ。


「……ここは、子供が遊びに来る場所じゃないぞ」


 受付と表記されたカウンターを見つけたアクトがそこに足を運ぶと、先んじて受付員らしい男性が声を掛けてきた。

 鋭い眼光が向けられるが、どうにも敵意は感じずにアクトは戸惑う。

 だが内心の戸惑いは隠して、アクトは毅然とした態度で受付員に応えた。


「冒険者として登録に来た。遊びなんかじゃない」


「命懸けの仕事だ。大人でも、たやすく死ぬ。

 それが分かって言っているのか?」


「当然だ。それに俺は、今までだって命懸けで生きてきたんだよ」


 アクトのその返答に、受付に立つ男は何か驚いた様子でアクトを見つめていた。二人の間に奇妙な緊張感が漂う。それを打ち破ったのは、受付の奥から姿を現した別の男性だった。


「あらー、ごめんなさいねボク。

 うちのラカムちゃんがまた余計なお世話をしてるみたいで」


 男性、のはずなのだが。女性のような妙な喋り方をする人物だった。アクトが怪訝そうにその男と思わしき人物を眺めていると、彼は一礼して名乗った。


「私は、王都冒険者ギルドマスターのアイゼンっていうの。

 気軽にアイちゃんって呼んでくれていいのよ?」


「……なんだ、この……なんだ?」


 初めて見る存在に呆気に取られるアクト。

 そんな少年を余所に、アイゼンと名乗った男はさらに語り続ける。


「ラカムちゃんってば、ちょっと昔色々とあったせいで、ロリコンとショタコンを拗らせちゃっててね?

 子供が冒険者になろうとすると、脅して諦めさせようとするのよ。

 気分を悪くしたなら、本当にごめんなさいね」


「ギルドマスター、悪質な誤解を振りまくのは止めていただきたい。

 登録前に脅してふるいにかけるように教えたのは、あなたでしょう」


「そうだったかしら? 忘れちゃったわ、おっほっほっほ」


 ラカムと呼ばれた男性に睨まれても、飄々とした態度で受け流すアイゼン。

 そのアイゼンがくねくねと必要以上に身体をくねらせながら話しているのを見ると、口調と相まってどうにも違和感を感じてしまう。

 小奇麗で華奢な肉体にその女性のような仕草が妙に似合っているのがまた、アイゼンの男らしい顔つきとの齟齬を生み出していた。


「あんたの存在の方がよっぽど気分を悪くしてくるんだが」


「あらやだ、ここまではっきり言われるとさすがに傷つくわ……こほん。

 ええと、命の危険については登録時に必ず伝えてるんだけど、ラカムちゃんが今伝えた通りよ。大人でも油断すれば簡単に死んでしまう、危険な仕事。それを理解した上で登録するなら、誰でも歓迎するわ」


「命の危険なんてどこにでもある。それより俺が強くなればいいだけだ」


「んー、実に男らしい意見ねえ。ちょっと心配になっちゃうくらい。

 けど、いいわ。ちゃんと覚悟しているというのなら、冒険者としての登録を受け付けます。それで貴方、お名前は?」


「俺の名前は、アクトだ」


「はい、了解よ。じゃあさっそくギルドカードを作りましょうか」


 そう言うとアイゼンは、カウンターの上に大きな装置を置いた。

 上部には台座に嵌め込まれた水晶玉が飾られており、その下部には白紙のカードが置かれている。


「この装置であなたのレベル……まあ現時点での強さを示す数値を測定するのと、冒険者であることを証明する貴方だけのカードを作るわ。

 やり方は簡単。この水晶に手をかざすだけよ。さあ、冒険者の世界に足を踏み入れる覚悟があるのなら、どうぞ手をかざして」


 アクトはその言葉に、迷いなく水晶に手をかざした。

 淡い光が水晶に宿り、輝き出す。それに反応するように、水晶から転写された光がカードに文字を綴り始める。

 やがて光が治まると、カードにはいくつかの文字列が刻み込まれていた。


「はい、完成。これからいくつか、注意事項を説明するわね。

 まずひとつ、冒険者は生きるも死ぬも自己責任。

 だから自分の身は自分で守れるように心掛けること。

 

 そのに。冒険者同士のトラブルはたくさんあるから少しは黙認されるけど、あんまりひどいとギルドから除籍されるから喧嘩は程ほどにね。


 そのさん。基本的にCクラスまでは実力次第でランクアップできるけど、Bランクからは高い実力だけじゃなくて、人格面や素行などを評価した上でギルドマスターの昇格許可が必要となります。


 理由はまあ色々とあるんだけど、Bクラス以上は貴族様からの依頼も混じったりするから、あんまりやんちゃな子には任せられないのよね」


 長々とした説明だが、要約するなら『死んだら自分のせい。あんまり喧嘩はするな。Bランクになりたければギルドマスターに気に入られろ』ということだとアクトは理解した。了承の意を頷くことで示すと、アイゼンはうんうんと頷き返して、アクトに出来上がったばかりのギルドカードを差し出した。


「はい、どうぞ。あなたの冒険者生活に幸運を祈らせてもらうわ」


「……そうかい。まあ、もらっておいてやる」


 ギルドカードを受け取ったアクトは、さっそく依頼書の張り出された掲示板に向かおうとする。しかしそれはアイゼンが「ちょっと待って!」と引き留めた。


「あなた、身体に大分疲れが溜まっているわよ?

 まずは宿屋で身体を休ませなさいな」


「俺は今すぐにでも戦えるっ」


「だめだめ。冒険者は身体が資本なんだから、体調を整えるのも仕事の内よ。

 宿代がないならここで休んでもいいから、まずは旅の疲れを癒しなさい」


「……子供だからって馬鹿にしてるのか」


「とんでもないわ。将来有望そうな男の子に倒れられないようにしてるだけよ」


 確かに、アイゼンの指摘したように、アクトには長旅の疲れが蓄積していた。

 目的地である王都に辿り着いたことで気持ちが逸っていたことを自覚させられたアクトは、深呼吸をして気持ちを改める。資金にはまだ余裕がある。身体を休めて、痛んだ装備品を補給するべきだろう。


「分かった。今日は休んで、明日から全力を出す」


「そうそう。無理は禁物よ。休める時には休まなくちゃ。ギルドおすすめの宿屋をいくつか紹介するから、予算に合わせて利用するといいわ」


 アイゼンから差し出された書類を受け取ったアクトは、ざっと文章に目を通す。高級宿屋から無料宿泊が売りの馬小屋まで、幅広く宿泊可能な施設が紹介されていた。馬小屋を宿泊施設と呼ぶべきではないのだろうが、金欠の冒険者の利用率は馬小屋が最も多いらしい。アクトは野宿でも構わないと思っていたが、明日からのことを考えてひとまず一番安い宿屋を選ぶことにした。




   〇




 次の日からアクトは、冒険者稼業に明け暮れた。

 決して無理はせず、薬草採取や低級モンスターの討伐といった、初心者でも可能とされるクエストをこなして、装備を整えて、徐々に依頼の難易度を上げていく。時折、パーティに誘われることもあったが……全て断っていた。

 

 他人のことはやはり信じられそうにない。故にアクトは、自分より遅く冒険者登録した新人がパーティを組んで、自分より遥かに速い速度でランクアップしていっても、ソロであることに拘り続けていた。

 

 最初に仲間となることを断った冒険者達が、後に新人を騙して利益を得ていた悪質冒険者として除籍されたことも相まって、アクトは頑なに一人で戦い続けていた。そもそも、アクトが追い求めているのは自分が強くなることだ。だからパーティを組んで楽に稼ぐ、なんて遠回りをする気は毛頭なかった。




 亡きダイナに誓った決意を違えず、努力を積み重ね続けたアクト。

 しかし、彼には才能というものがなかった。今ある彼の強さは、全てダイナ傭兵団の元で鍛えぬいた、努力の賜物だった。

 人の数倍の努力をして、ようやくひとつ階段を登った頃には、周囲の才能ある冒険者はどんどん高みへと登っていく。


それに歯がゆい思いをしながらも、努力を積み重ね続けて、約十年が過ぎた頃。ようやくアクトは、一人前と認められるCランクへと到達することが出来た。





「アクト、王都を離れると聞いたが……いつ出るんだ」


 受付でクエスト完了の報告を終えたアクトは、ラカムに声を掛けられた。

 この十年間でアクトがようやくCランクに到達したように、ラカムは王都冒険者ギルドマスターとして抜擢されている。

 前任のギルドマスターであるアイゼンは、別の冒険者ギルド――魔境と呼ばれる、Aランクモンスターが跋扈する危険地帯で活動する冒険者のために、魔境付近の街で勤務しているらしい。


「明日の馬車で迷宮都市に向かう。向こうは活気が凄いらしいからな」


 迷宮都市は、数年前に辺境の町の地下に突如発生した迷宮を中心として経済が活性化して著しく発展した辺境の都市の渾名だ。

 本来はただの田舎街に過ぎなかったのだが、迷宮から得られる金銀財宝に魔法の道具、そして迷宮でしか見かけないモンスターから採取できる素材などのおかげで、一攫千金を夢見る冒険者達が集っているという。

 

 その影響で王都の冒険者ギルドは閑散としており、モンスターの討伐依頼は消化が追いつかずに王都騎士団に回されていた。アクトはより強くなることを求めて、しばらく王都を離れることを決意していたのだ。


「……そうか。達者でな」


「はっ、よせよ。男にそんなこと言われても嬉しくも何ともねえぜ」


「喜ばれても気色悪いがな」


「そりゃそうだな、くははっ」


「……ふんっ」


 互いに憎まれ口を叩きあいながらも、和気藹々とした様子の二人。

 彼らはこの十年間で、気心の知れた悪友と言える関係になっていた。

 最も、他人を信じられなくなっているアクトはどこか一線を引いていて、それを察したようにラカムも深く踏み込んでいないため、微妙な距離感があったが。


「王都に戻ってくる頃には、俺がBランクに相応しいと認めさせてやるからな」


「言ってろ。本当に俺を認めさせることが出来たなら、俺の秘蔵の酒でも奢ってやる。……できるものならな」


「おう、言いやがったな。吠え面かかせてやっから、覚悟していやがれ」


 不敵な笑みを浮かべあいながら、笑い合う二人。

 その日は思い出話に浸りながら酒を飲み交わして、次の日の朝にアクトは宣言通り迷宮都市へと旅立った。






 このまま順調に、高みを目指していけると。その時のアクトは思っていた。

 しかし生まれ持った才能の限界という、本人にはどうしようもない壁に阻まれることになる。同世代と比べると小柄で腕力も弱く、魔法の才能もないアクトは、迷宮のモンスター相手に苦戦を強いられることになる。

 

 どうやら迷宮に生息するモンスターは、特殊な環境のせいか街周辺や街道に出現するようなモンスターよりも強い個体がほとんどらしく、王都では順調に依頼をこなせていたアクトでも易々と討伐することができずにいる。

 無論、彼は努力を積み重ねている。腕力を少しでも鍛えようと鍛錬を積み重ねて、ひとつでも魔法が覚えられないかと勉強も続けていた。

 だが、どうしても超えられない。天才と呼ばれる者達がたやすく超えていく壁にぶつかり、超えようにも登る手掛かりすら掴めない日々。

 

 それが1年、2年、3年……そうして数年が過ぎ行くにつれて、アクトの心は焦燥に飲まれていった。

 尊敬する育ての親のように、ダイナ傭兵団の面々のように、強くなりたいと努力をしてきた。

 だが、努力だけではどうしようもない現実が、目の前を阻み続けている。

 

 時間は、いつまでも残されていない。いずれは加齢によって肉体は衰えていき、そうなればあとは弱っていくだけだ。

 ただ生きていくだけならば、それでも良かった。自分に見合った難易度の依頼をこなして、適度に貯金を稼いだら冒険者を引退して余生を過ごすというのも、よくある冒険者の生き様だ。

 

 けれどアクトには、強くなりたい理由があった。ダイナ傭兵団の仇を討つという、幼き日に誓った復讐が。しかし、そもそも復讐の相手である巨大な狼のようなモンスターは、ギルドで調べても目撃例がないという。

 

 名前も知らない、姿形も十数年前の目撃情報だけ、となると正しく調査されていない可能性もあるが、それでも他の村が襲われたなど類似する情報があれば、冒険者ギルドだけでなく風の噂にもなるはずだ。


(もう、あのモンスターもどっかの誰かに仕留められたのかもしれねえなあ……)


 ダイナが追い払うのがやっとだった、と言っていたが、逃げていった以上は相当な深手を負っているはずだ。その後に衰弱死した可能性や、他の人物が討伐したということも十分に考えられる。


 最も、そういった情報すらない状態では納得することができずに、今でも調べているのだが、結果は芳しくない。第一、迷宮のモンスターにすら苦戦している自分では、あの巨獣に遭遇した所で太刀打ちできるのか怪しいものだが。


(ああ、くそっ……面白くねえなあ、ちくしょう)


 苛立ちながら、アクトは路地裏を歩いていた。

 その道を通れば行きつけの酒場までの近道だったからだ。


「おう、兄ちゃん。ここを通りたければ、有り金全部払ってくれねえかなあ?」


「金を出した方が身の為だぜ、ひっひっひ」


 自分の行く手を阻み、刃物を構えている二人組みの男達を見て、アクトは深く溜め息をついた。こういった手合いは、迷宮都市には少なくない。王都と違い、治安が悪いことでも有名だった。アクトが迷宮都市に移ってきた頃はまだ保たれていた治安は、年を経るごとに悪化の一途を辿っている。

 

 今回のような恐喝の標的となることも、珍しいことではなかった。

 だから、対処も手馴れていた。

 懐から金貨袋を取り出したアクトは、それを黙って男達の頭上に向かって放り投げる。大人しく言うことを聞くと思ったのか、男達はにやにやと笑いながら金貨袋を掴もうと頭上に視線を向けた。

 

 敵から視線を外すなんて、戦場では命取りな行為を軽々しく行った間抜けな男達に、アクトは拳を叩き込む。流れるように一人を叩き伏せて、怯んだもう一人を蹴り飛ばす。普段ならその辺で適当に走り去るのだが、今日のアクトは機嫌が悪かった。倒れた恐喝未遂の男の顔面を力強く踏みつける。

 ぐしゃり、と鼻の骨が砕ける音がして、男は悲鳴を上げた。


「ひ、ひぃ……!? わ、わわ悪かった!

 俺達が悪かったから、もう許して……!」


「悪かった……? ああ、確かに悪いよなあ」


 自分から仕掛けてきておいて、反撃されたら調子の良いことを言い出した情けない男に、アクトは凶悪な笑みを向ける。

 命乞いを続ける男達にさらに追撃を加えていくアクト。

 殺しはしなかったが、人相が変わる程に暴行を加えられた男達は、路地裏に倒れ伏したまま呻いている。

 そんな男達の懐を漁り、アクトは金目の物を奪い取っていった。


「あ、ぐぅ……た、頼む。それを持っていかれたら、もう金がねえんだ……!

 頼むよ、なあ……勘弁してくれ……!」


「おいおい、無一文かよ。そいつはつらいだろうなあ」


 許しを請う男に応えて歩み寄ると、アクトはそのまま。


「弱いお前が悪いんだよ、ザコが」


 その顔面を容赦なく踏みつけた。



   〇



「ちっ……胸糞悪い……」


 行きつけの酒場で散々飲み倒したがそれでも気分が晴れず、アクトは街中を彷徨っていた。酒で駄目なら煙草や女で快楽を満たすことも考えたが、どうにもそういう気分でもない。最も、女で楽しむのはキャバクラまでにしておかないと、『本番』まで味わおうとするなら予算を大きく超えてしまうために、今まで一度も行ったことがないのだが。

 

 そういった娯楽に浸ることが目的で金を稼いでいるのならともかく、強さを追い求めるアクトにとって金は装備を整えたり消耗品を揃えるための手段だった。

 万年Cクラスの冒険者に過ぎないアクトでは、必要以上に金を使う余裕など欠片もない。ぶつくさと愚痴を呟きながら歩いていると、ふとアクトは大通りに面した街路の端に、毛布に包まって座り込んだ子供を見つけた。

 

 秋風の寒さから逃れるためだろうか。頭から毛布を被って、じっと通り過ぎゆく人々を眺めている。怪しまれているのか、街の住人達はひそひそと話しながらその子供の前を通り過ぎていった。

 よくある、孤児の姿だ。孤児院から経営難を理由に卒業を強いられた子供は、大抵が路地で生き足掻くか、冒険者として働くが、その多くが実力を見誤り無茶をしたあげく大怪我を負うか、最悪死ぬことになる。

 

 王都では、王家の支援やラカムのような物好きの出資により孤児院が増加しており、そういった境遇の子供は減ってきているという。

 だが、それでも孤児の子供を雇おうという奇特な人物でもいなければ、結局は日銭を求めて冒険者を志すことになる。一部の物好きだけでは、孤児を養いきれないというのが今の時代の現状だった。


「……おい、ガキ」


 アクトは思わず、その孤児の子供に声を掛けていた。

 子供は自分に話し掛けられていることに気付いていないのか、反応がない。


「てめえだよ、てめえ! 聞こえてねえのか、ああ!?」


 目の前で怒鳴るとさすがに自分のことだと気付いたのか、少年はびくりと身体を震わせて後ずさる。

 どうやら逃げようとして腰が抜けたらしく、がたがたと震えていた。


「ったく。やっと気付いたか……おいこら、てめえ。名前はなんて言うんだよ」


「……ぇ」


 子供の口からは、掠れるような僅かな声が響いた。

 そのまま戸惑うように自分を見上げたまま押し黙る少年の様子に苛立ったアクトは、さらに少年に詰め寄る。


「名前だよ、名前! てめえ名無しか、おいこら!」


「……レ、レン、です」


 ようやく搾り出すように名前を呟いた少年、レン。

 アクトは鼻を鳴らして、「ようやく言いやがったか」と溜め息を吐き出す。


「てめえ、親か仲間は?」


「……いない、です」


「だったら、俺についてこい。そしたら飯くらい食わせてやる」


 アクトがそう言うと、少年は信じられないようなものを見るように、アクトを見つめていた。

 十数年前、アクトの幼少期に行われていた戦争の影響で親を失った戦災孤児は多すぎて、国も対応が遅れている程の人数となっている。

 子供一人を養う余裕がない者も多い中で、そのような孤児を拾おうとする者など僅かなもので、そのほとんどが奴隷商だった。

 

 本来、奴隷制度は正式な手続きに基づく契約だ。奴隷となる代わりに、家族が飢えずにすむようにと金を求めるなど、お金が必要だけど稼ぐ当てがない人間が頼る、最後の手段だ。しかし、契約金を支払わずに奴隷を手に入れて売り払えば、その利益は大きなものとなる。

 故に、孤児や浮浪者を捕まえて奴隷にすることは本来禁じられているのだが、利益のためなら法律をないがしろにする人間などいくらでもいる。

 そして、その悪行を利用する人間もまた、後を絶たない。 


 結果として、行き場を失った孤児の末路はほとんどが悲惨なものだった。

 奴隷に落とされるか、冒険者として死ぬか、路地裏で犯罪者の餌食となるか。

 アクトは目の前にいるレンも、いずれはそういったろくでもないことになるだろうと思えて仕方なかった。


「てめえは何だ、冒険者か」


「は、はい……一応、薬草採取だけは、やっています」


「あれじゃあろくに稼げねえだろうが……まったく」


 冒険者ギルドにある薬草採取のクエストは、安い賃金でモンスターの生息している地域に出向かなければいけないため、モンスターを討伐できる実力の持ち主には割りに合わないものだった。

 あくまであれは、クエストに慣れるための練習用と、無一文で冒険者稼業を始めた者が装備を買う資金を溜めるためのクエストでしかない。

 それではいずれ立ち行かなくなる日が来るだろう。アクトは、その少年を鍛えてやらねばと内心で考えていた。


「ほれ、まずは飯行くぞ、飯。さっさと立ちな」


「あ、あの、その……」


「なんだ、何か文句あるのか、ああ?」


「あ、貴方の名前は……?」


「俺はアクトだ。覚えておきな」


「は、はい……アクトさん」


 安心したように呟く少年を連れて、適当な安い飯屋にでも入ろうと歩くアクト。

 ――ここまでなら、きっと美談で終われる話だ。

 多くの孤児が見捨てられる世界の中で、かつて命を救われた幼子が、今度は子供を救おうとする物語。

 間違いがあったとしたのなら、まずはひとつ。

 彼は、そこから続く第一歩を、大きく踏み間違えた。





  〇




「おらああ! 呆けてんじゃねえぞ!!」


 激しい怒号と共に、アクトの蹴りがレンの腹に叩き込まれる。

 鈍い音が響いて、レンは蹴られた勢いで地面に転がった。呼吸ができなくなったのか、胸を押さえて苦しそうに涙目で咳き込むレンに、アクトは怒鳴る。


「そうやって動きを止めてたら敵の追撃が来るんだよ……こんな風に、なあ!」


 倒れて身動きが取れずにいるレンの顔面を、アクトはさらに蹴り上げる。仰け反り、後頭部から床に倒れる少年にアクトは舌打ちして、手元の酒瓶を呷った。


「今のが実戦だったら死んでるぞ、お前! もっと気合入れろやノロマ!」


 罵声を浴びせながらレンの顔を踏み躙っていたアクトだが、瓶の中身が空になったことに苛立ちを露にした。


「ったく。ハンデに酒飲みながら、足だけで相手してやってたのに……。

 一撃も避けられねえとはなあ。ったく」


 アクトは泣きじゃくるレンを無視して、部屋の出口に向かう。

 扉を開けてからレンを振り返ると、一方的に言い放った。


「俺が酒を買ってくるまで休憩だ、その後はまた訓練を続けるからな!

 あと、今日の訓練代として、てめえの金も持っていくぞ!」


 バタン、と必要以上に力を込めて扉を閉めるアクト。

 冒険者向けの訓練場として格安で貸し出されている小部屋だが、安い部屋だけあって強度が弱いのか、閉めた勢いでガタガタと揺れ動いていた。


「俺以上に才能がねえんじゃねえか、あいつ……ったくよお。

 クエストでも逃げてばっかりだし、使えねえガキだぜ。まったく」


 ぶつくさと文句を言いながら、酒場へと向かうアクト。

 彼は、気付いていなかった。気付くことができなかった。

 自分の振る舞いは、彼が強く憧れた育ての親ダイナの、厳しくも優しく教え導くためのものではなく。

 自分がろくでもないと称した、ダイナが最低と言い捨てた、実の父親のものに酷似しているということに。

 この時はまだ、気付くことができなかった。



  〇



「君が狂犬のアクトか!」


 ある日、街を歩いていたアクトは見知らぬ男に呼び止められる。

 苛立ちながら振り返ると、そこにはいかにも高そうな立派な鎧に身を包んだ男が、アクトを睨み付けていた。


「んだよ、その狂犬ってのは……」


「君の悪名を言い表した渾名だ! そこの子供……レン君に対して、随分とひどいことをしているようじゃないか!」


「ああ? 俺がやってるのは訓練だよ、訓練。

 ろくに知りもしねえで決め付けてんじゃねえよ」


「……子供をそんなひどい姿にすることが訓練だと言うのか!?

 全身、痣だらけじゃないか!」


 アクトが傍に連れていたレンは、男の言う通りひどい有様だった。

 連日の訓練と称した暴行のせいで、痣があちこちにできている。

 少年の目は虚ろで、足取りもふらふらと揺れていた。


「このガキはまったく才能がねえからなあ。

 無理矢理でも鍛えてやらないと、冒険者としてやっていけねえよ」


「そんなもの詭弁だ! 訓練と称した虐待じゃないか!」


「はっ。だったらどうするってんだ?」


「決まっている……貴様を成敗して、その子を保護する!

 Bランク冒険者、レイドの名にかけて!」


 激昂した様子で、剣を抜き放つレイド。

 街中で抜刀したことに呆れつつ、アクトはレンを背後に押しやった。

 守るためではなく、邪魔だから遠ざけるために。

 今にも斬りかかってきそうなレイドに対して、アクトは素手のままな不遜な態度で叫んだ。


「上等だよ……やれるもんなら、やってみやがれええええ!!」







 周囲で成り行きで見守っていた野次馬達は、誰もがアクトが負けると確信していた。片や悪名だけが語られているCランク冒険者。それに対するは高性能の装備に身を固めたBランク冒険者であるレイド。

 

 CランクとBランクには、たったひとつ上のランクというだけでは語れない隔絶した実力差が存在する。実力だけでなれるCランクに比べて、Bランクは厳しい審査を乗り越えてギルドマスターに認められた者が選ばれる。

 

 こんなものは勝負にもならない。悪党アクト正義レイドに成敗されて、それで終わりだと、誰もが思っていた。

 

 ――だから、実際に目の前でアクトに打ち倒されたレイドの姿を見せられても、野次馬達の誰もそれを現実として認められなかった。


「おいおい、おーい! 何なんだよこの無様な有様は!

 なあ、Bランク様よお!」


 アクトが罵声と共に、レイドの顔面を踏みつける。元は端整な顔立ちだったレイドは、散々殴り倒されたことで痛々しく腫れ上がっていた。

 そんな相手に追い討ちをかけながら、アクトは執拗に敗者を踏み躙り続ける。


「ば、かな……Cランクのはずだろ……?

 な、なんなんだ、この強さは……げふっ!?」


「ぐだぐだ言ってんじゃねえよボケ!

 てめえが俺より弱かっただけだろうが、ザコが!」


 負けたことが信じられないのか、ぶつぶつと呟くレイドの顔を、アクトは煩いとばかりに詰りながら蹴り飛ばした。

 唇が切れたのか、血が飛ぶ。それを見た野次馬達から悲鳴が上がる。


「おら、俺に文句がある奴はもういねえのか!? 文句あるなら掛かってこいよ、力尽くでこのガキを連れ出してみせろや!」


 アクトがそう言っても、野次馬達は騒然とするだけで誰も歩み寄ろうとはしなかった。それを見たアクトは、心底愉快そうに笑いながらレンに語りかける。


「見たかよレン。こいつらは結局、自分が痛い目に合いそうになったらてめえを見捨てるようだぜ! 他人なんざ当てになんねえよなあ!

 こんな奴らについていったら、いざとなったらモンスターの群れの中にでも置き去りにされるんじゃねえのか? ぎゃはははは!!」 


 アクトの頭に思い浮かぶのは、シュフイの村で行われた、村人達の行為。

 人々を助ける為に死んでいった者達を、自分の欲を満たすために踏み躙った醜い人間の本性。誰も彼もが正義が何だ、人道がどうだと偉そうに語りはするが、自分が満足するためならいくらでも他人を踏み躙る。

 

 そんな奴らを頼りにしたところで、窮地に追い込まれれば裏切られるだけだ。アクトは、そう信じて疑わなかった。人間の悪性を信じるからこそ、それを跳ね除ける強さが必要なのだと、そう頑なに信じていた。


「つうか、てめえ本当にBランクなのかよ?

 金でも積んでギルドマスターを買収したんじゃねえだろうなあ?」


「な、何故それを知って……ぁ!」


 何気なくを話しただけなのに、レイドはひどく狼狽した様子で呟いた。

 その反応にアクトは信じられないものを見るように、レイドのことを見下す。


「……おい、マジなのかよ」


「な、何のことだ、俺にはさっぱり――ごふっ!?」


「てめえがギルドマスターを買収してBランクになったのは!

 マジかって聞いてんだよイカサマ野郎!!」


 誤魔化そうとするレイドを蹴りつけてアクトが叫ぶと野次馬達が騒ぎ出す。

 これが真実であるならば、冒険者ギルドの不祥事となることは確実だからだ。

 だが、アクトにとっては不祥事がどうとか、そんなことはどうでもよかった。

 強者の証明として自分が目標にしていた冒険者ランクが、所詮は不正を行う者がいればそれだけでたやすく揺らぐものなのだと、思い知らされたことが、何よりも気に入らなかった。


「どこの街のギルドマスターだよ、んなふざけた真似をしやがったのはよ……!

 おら、吐けやてめえ!!」


「ひぃ……!? こ、ここの……迷宮都市の、ギルドマスターに……。

 お、俺はつい出来心で――」


 知りたいことだけ聞き出したアクトは、その後に続きそうな言い訳は口ごと踏み潰した。落胆を丸ごと吐き出すように溜め息をつくが、気分は変わらない。

 この数年間、強くなるための指針として必死で追いかけてきた冒険者ランクに、大した価値などないのだと告げられた気がして、ひどい虚無感に襲われる。

 自分が必死で戦ってきた数年間は、一体何であったのか、と。


「おい、イカサマ野郎。ついてこい」


「ひ、ひぃ……!? な、何だよ、これ以上俺に、何するんだよぉ……」


「てめえのランクが買収して得た偽物だって証言させるんだよ」


「だ、誰に証言しろって言うんだ……?

 買収された本人が、認めるはずがないだろ……?」


「王都冒険者ギルドマスターにだよ。

 てめえは黙ってついてきやがれ、イカサマ野郎が!」


 直接、この迷宮都市のギルドマスターを問い詰めたところで、言い逃れされるだけに終わることはアクトにだって分かる。

 それだけならまだいいが、口封じに殺される可能性だって十分にあるだろう。

 ならば、権力を持つ知人に話して、後はもう丸投げしてしまった方がいい。


(……もしも、ラカムの奴もこの不正に関与しているのだとしたら。

 その時は……許しちゃおかねえ……!)


 アクトの行動は、別に正義感から行われているものではない。

 友達面して自分を騙していたのだとしたら、それが許せないからだ。


「おら、今ならまだ馬車が出ているだろう。さっさと行くぞ……レン!

 てめえもさっさと来い!」


「……は、い」


 暗い顔をして俯きながら返事をするレンに苛立ちながら、アクトは駅馬車の発着場へと向かう。ちょうど今夜の宿泊場所を決めようと荷物を持ち歩いている最中で良かった、と思いながら歩く。

 と、その時。淡い光がアクトとレン、そしてレイドを包み込んだ。


「ヒール、っと……いきなりごめんね、驚かせちゃったかな?」


「な、なんだよてめえ。どこのどいつだ」


「私はアメリア。ちょっとね、その……いきなりこんなこと言ったらびっくりするかもしれないけどさ」


 アメリアと名乗った女性は、アクトにしな垂れかかるように身を寄せて、耳元で囁いてくる。女性特有の甘い香りにくらっとしながらも警戒心を露にしていたアクトだったが、彼女の口から響いた鈴の音のような声に、思わずどきりと胸を高鳴らせてしまっていた。


「貴方の事、好きになっちゃったかなって……うふふ」


「あ、ああ? 本当になんだよ、いきなり!?」


「ごめんなさいね。ただ、すごく気になっちゃって……そしたらいきなり喧嘩を始めて、怪我したまま立ち去ろうとするから、慌てて治癒魔法を使っちゃった」


「お、おう、そうか……それは、サンキュー、な……」


 頬が真っ赤になるのを隠そうとそっぽを向きながら、アクトは感謝の言葉を口にする。人に感謝するなんて、ここ数年はしていなかったことで、どうにも照れくさくなってしまった。


「それでね、これから王都に向かうんでしょ?

 だから良かったら、私も連れて行って欲しいなーって……どうかな?」


「い、いやまあ、別に構わねえんだぜ?」


 久しく感じていなかった胸の高鳴りに、つい上ずった声になるアクト。

 そんな彼のことを楽しそうに見つめて、アメリアは妖艶な微笑みを浮かべた。


「良かった。じゃあ、これからよろしくね。アクト君」


「お、おう……あれ? 俺、名乗ったか?」


「あら、ごめんね。馴れ馴れしかったかな?

 さっきの喧嘩の時に名前を呼ばれてたから覚えてたんだけど……」


「そ、そうか。いや別にいいんだぜ? へ、へへへ……」


 にやにやとしながらアメリアに釘付けになるアクト。

 見た目麗しく、女性の象徴たる胸部も豊満で、久しくごぶさただった魅力的な女性に「好き」だなんて言われて、アクトはすっかり舞い上がっていた。

 どういう意味で好きなのかも、はっきりと言われていないというのに。


「それで、馬車代なんだけど……ちょっと手元のお金が、ね……?」


「お、おう! それくらい俺が奢ってやるよ!」


「ほんと? ありがとー、アクト君。貴方って、とっても優しいのね」


「い、いや……は、ははは。茶化すなよお、アメリア」


 ずっと、他人を信じず……他人を信じないから、自分も信じてもらえない日々を送ってきたアクトにとって、アメリアの言葉は花蜜のように心に染み込むような心地よさがあった。

 それがどこか嘘を感じる心地よさでも、騙されていたいと思ってしまう程に。

 すっかり魅了されたアクトは、アメリアと連れ立って歩き出す。


「あ、そうそう。えいっ、レビテーション」


「ひぃ!? な、なんだこれ!?」


 アメリアが呪文を唱えると、アクトに引き摺られていたレイドの身体が宙に浮かび上がった。

 レビテーションという、物体を浮かび上がらせる魔法だ。

 難易度としては初級だが、魔法の素質がないアクトにとっては、二つの魔法を使いこなせるアメリアは眩しく見えた。


「悪いことした人かもしれないけど、ずっと引き摺られたら痛いだろうし……何よりアクト君が疲れちゃうから、これでどうかな?」


「あ、ああ。すごい助かるぜ、アメリア」


「これくらい大したことないよ。それよりほら、駅馬車に乗りに行こう?」


「お、おう。よし、レン。ちゃんとついてこいよ、お前!」


「……はい」


 アメリアに促されたアクトは、すっかりペースを握られていることにも怒ることなく、歩き出す。

 こうしてアクトは、数年間を過ごした迷宮都市に別れを告げて、王都に戻る旅路につくことになった。



   〇



 数十日後、アクト達は王都冒険者ギルドに訪れていた。

 そのカウンター前の床に、王都の駅馬車発着場からずっとレビテーションで浮かされていたレイドが乱暴に降ろされる。


「はい、不正ランクアップの証人をお届けに上がりましたっと」


「……不正については別口で聞き及んでいる。証人の連行に感謝する」


「あらあら、どーも。報酬とか、もらえちゃったりするのかしら?」


「今回は俺の方で協力者全員に報酬を支払おう。

 貴重な証人を確保してくれたからな」


 王都冒険者ギルドマスターのラカムは、そう言ってカウンターに3つの金貨袋を置いた。ぎっしりと金貨が詰まった感触に、アメリアは「ありがとっ」とラカムにウインクする。


「……アクト。貴様の所業については、聞き及んでいる」


「あん? 何のことだよ」


「そこの少年、レンに対する待遇のことだ! どこまで追い込めば、子供がそんな虚ろな瞳をするようになる!!」


 怒気を露にして、カウンターから身を乗り出してアクトの胸倉を掴むラカム。 めったに見せない表情に、アクトは内心で焦りながらも飄々とした態度を崩さないようにしていた。


「おいおい、ギルドマスターがそんな手荒な真似をしてもいいのかよ?」


「……っ」


 アクトから手を離して、椅子に腰を下ろすラカム。

 その顔にはとめどない怒りと共に――期待を裏切られて失望しているような、悲しみも感じ取れた。


(んだよ……何でそんな顔してんだよ)


 悪友の態度に、アクトは困惑する。

 彼にとっては、レンに対して行っているのは、困難に立ち向かえるようにするための訓練だった。自分が幼い頃にダイナ傭兵団の元で受けた、いつか強くなるためにと積み重ねた努力の思い出だ。

 

 ――この時もまだ、アクトは気付けないでいた。

 ダイナ傭兵団の訓練は確かに厳しかったし、傷を負うこともたくさんあった。

 けれど、ダイナ達は訓練の後、必ずアクトのことをフォローしていたのだ。

 それは傷の治療であったり、慰めや励ましの言葉であったり、強くなるための助言であったり、形は様々だけど。確かにそこには、厳しさに負けないくらいの優しさが、あったのだ。

 

 しかしアクトは、そんな優しさをレンに与えることをしなかった。

 彼にとって、厳しい訓練に耐えるのは当たり前で。冒険者稼業でモンスターと戦うのも当たり前で。それで傷ついても、自力で立ち上がることだって当たり前のことで。苦行や苦難を乗り越えて、強さを追い求めることだって、アクトにとっては「男ならそれが当たり前」のことだった。

 

 そんな彼にとっての、彼にだけとって当たり前だけをレンに押し付けて、彼に優しい言葉のひとつも掛けてやることはなかった。気弱で、臆病で、穏やかな生活を求めている少年にとって、それがどれ程の苦痛だったのか。

 アクトにはそれが、まるで、何一つ分かってはいなかった。


「……ふんっ、人に文句を言う前に、冒険者ギルドの不正をなんとかしろよ。

 お前までやってないだろうな、おい」


「俺が不正に手を染めたなら、アイゼン氏が黙ってはいないだろうさ」


「……なっつかしい名前だなあ、おい。あのオカマ、今でも現役なのかよ」


「今は魔境関連が落ち着いたということで、王都に療養に戻られている」


「マジかよ、あいつ苦手なんだよなあ、俺……」


 ぼやきながらも、まあ早々会うこともないかと思いなおして、アクトは歩を返す。ランクアップの不正について問い質す、という目的はもう終わった。証人も突き出した。以前なら依頼のひとつでも受けようとしていただろうが、今はそんな気分も湧いてこない。

 

 冒険者として評価されることと、強さは関係がなかった。不正さえすればたやすく名乗れてしまえるような物を、無我夢中で追いかけていたのが馬鹿馬鹿しい。復讐の相手である巨躯の魔獣についても、情報は相変わらず見つからない。そもそも、今回の不正騒動から考えれば、冒険者ギルドも信頼できるか怪しいものだ。既に生きているかもあやふやな復讐の対象を、それも影も形も見えないような相手を目指して生き続けるという、不毛すぎる生活を10年以上も続けてきたアクトだったが、今回のことで完全に気持ちが折れてしまっていた。


(なんかもう、何もかも馬鹿らしくなっちまった……)


 無論、実力で高ランクへと至った冒険者だっているのだろう。

 しかし不正を疑う余地があるというだけで、熱意が冷え込むには十分な理由となってしまっていた。どうせ自分には、これ以上の強さを得るための才能なんてないようだし、もう適当に生きていくのもいいか、などと思ってしまう。


「確か、今の王都じゃあカジノが話題になっていたよな。

 アメリア、ちょいと行ってみないか?」


「やったあ、実は私も行ってみたいと思っていたのよね。

 同じ気持ちだったなんて、嬉しいな」


「お、おう。そうか? へ、へへへ……」


 受付カウンターに背を向けて、アメリアにそう声を掛ける。

 無邪気に喜ぶアメリアに、アクトもつい嬉しくて頬を緩ませていた。


(このまま、アメリアと生きていくってのも、いいかもなあ……)


 男と女の愛の営みをそれとなく誘っても、はぐらかされてしまっていたが、本気で結婚を考えてもいいかもしれない。それくらい、アクトはアメリアのもたらす花蜜のような甘い言葉に、酔いしれていた。


 アメリアには「今はまだ働いてお金を溜めたいから、子供ができるようなことは控えたい」と断られていたけれど「なら俺が養ってやる!」と本気でいえば、あるいは応えてくれるかもしれない。

 ただ、今はまだ踏ん切りがつかなくて、ひとまずカジノで楽しい時間を過ごしてからでもいいかと、アクトは結論を先送りにした。 


「うし、そんじゃあ……いっちょ行くか、王都カジノとやらによ!」




   〇



「ほら、おめえ勇気出して引いてみろよ。金はあんだろ?」


「け、けど……このお金は、僕の大切な貯金……」


「へっ、1万Gくれえぽんと出せなきゃ、冒険者とは言えねえぜ!」


 王都カジノの最大の目玉遊戯と言われるガチャの装置を前にして、アクトはレンをそそのかしていた。ガチャにはいくつか種類があるのだが、アクトがレンにやらせようとしているのは高級ガチャと呼ばれる、高級ガチャだ。


 1回1万Gという大金を必要とするハイリスクなギャンブルだが、大当たりが出れば凄まじい性能の装備品が景品として手に入るという。

 

 装備のためなら大金を惜しまない金銭感覚を覚えさせて、度胸をつけさせるためにちょうどいいだろうと、ガチャを見たアクトはレンにそれを訓練の一環としてやらせようと躍起になっていた。半分は、上手くいかない現状への八つ当たりや、レンへの苛立ちに対する嫌がらせの意味もあったが。


「ほら、さっさとやれって! もしかしたら大当たり出るかもしれねえぜ?」


「いやいや無理でしょ? この子ったら運も才能もないんだもの!」


「だよなー、所詮俺らの荷物持ちくらいしかできねえ足手纏いだからなあ!」


 アクトの言葉にアメリアが同意を示したことで、アクトはさらに声を大きくしてレンを罵った。周囲の野次馬達の視線が冷ややかになっていくことにも気付かず、いつものように。当たり前のように。


「ほれ、早くしねえと俺が代わりに引いちゃうぞ? お前の金でな!」


「やだー、アクト君ってばこわーい!」


 アクトがそうやって脅し続けた結果、最終的にレンは自分でガチャの前に立った。恐る恐るといった様子で、床をくり抜いて埋め込まれたようなコイン投入口に、金貨を投入していく。やがて、1万G分の金貨が投入されると、レンは涙をぽろぽろと零しながらレバーを引いた。


「うぐっ、ひっく……うぅ!」


 どうせこんな運試しでは、ろくな結果は得られないだろうとアクトは予想していたのだが。予想に反して始まったのは、大当たりしてさらに「連続チャンス」という、もう一度無料で引けるボーナスが、延々と続くギャンブラー至福の瞬間だった。いくつも出現していく高性能の装備品の数々に、金貨が詰まった宝箱まで大量に現れる。瞬く間に、レンの目の前には宝の山が築かれた。


(お、おいおいおい……あれ、いったいいくらあるってんだよ!?)


 積みあがった金貨の総数は、最早数えるのも億劫な程だ。

 レンが引き当てた幸運を前にして、アクトは考える。


(い、今まで散々面倒見てきたんだから、ちょっとくらいお裾分けをもらってもいいよな? バチは当たらないよな?)


 周りからは非難を浴びていても、アクトにとってレンを拾ったことは善行だった。その後に『訓練』を行ったことだって、彼にとってはレンの未来を思ってのことだった。普段は悪事など考えなさそうな人間達だって、状況次第では悪魔すら可愛く見えるような所業を平然と行うくらいに変貌することがある。

 

 そうなった時に獲物として狙われるのは、刃向かう気概も力もないような、そんな弱い奴だ。レンのように気弱で、臆病で、どれだけ追い込んでも戦えないような人間は、真っ先に食い散らかされてしまう。

 

 だからそうならないように。自分で自分の身を守れるようにと、鍛えようとしてきたつもりだった。その訓練の時間を自分のためにだけ使っていれば、もっと強くなれていたかもしれない。もっと稼げていたかもしれない。

 

 自分の時間をレンのために費やしてきたのだから、こういう機会にくらい恩返しをしてもらってもいいではないか、と。アクトはそもそも「恩返しとはさせるものではなく、されるものだ」ということも忘れて、レンに声を掛けていた。


「よーう、レン君? 随分と楽しんでたじゃないかよ?」


 アクトが話し掛けると、夢見心地に浸っていた様子のレンが身体をびくりと震わせる。そんな反応もまた不服なアクトは、内心で苛立ちながら、話を続ける。


「なあレン君? 俺達パーティなんだからよ、あの景品は俺らと山分けだよなあ?」


「……え、そ、そんな……」


「嫌だってのかあ!? てめえ、俺らが今まで面倒みてやった恩を忘れたのか、ああん!?」


「――い、嫌だ! これは僕のだ! 僕が掴み取った幸運なんだ!」


「てめえ、ふざけんじゃねえぞ! ぶん殴られてえのか!」


 アクトがつい、苛立ちのあまり叫び声を上げる。

 掴み取った幸運を守ろうと必死になるレンと、なんとか分け前を得ようとするアクト。その二人の間に、割って入る少女がどこからともなく現れて、アクトの前に立ちはだかった。


「お客様。当店のガチャにおいて当選した景品は全て、そのガチャを引いたお客様に所有権が存在します。

 パーティメンバーであるという理由で、貴方が配分を決定する権利は御座いません」


「ああ!? んだてめえ、お客様は神様だろうが!

 神様に楯突いていいと思ってんのかこらあ!」


 邪魔立てされて怒ったアクトは、少女に怒鳴る。

 女性には手を出すな、けれどそれが敵なら容赦はするな、というのがダイナの教えだった。男として女性は守るべきだが、傭兵は相手が女性だろうと敵なら倒さなければならない。敵にまで優しくしていたら、自分だけでなく仲間まで危険に晒すことになるからだ。そしてアクトにとって、仲間であるレンを遠ざけようとする少女は、間違いなく敵だった。


「はい、お客様は神様です。……ですから神様に暴力を振るわれる方には、ご退場願っております」


「なめた口を! おら、どきやがれ、てめ……!?」


 生意気なことを言う少女を押し退けてレンに近付こうとするアクト。

 しかし、少女の肩を掴んでいくら押しても、その身体はびくともしなかった。

 いくら自分が、同年代の男性と比べて腕力が不足しているとはいえ、それは冒険者と比較しての話だ。

 鍛えていない一般市民や、まして少女に力で負けるような、柔な鍛え方はしていないという自負がある。それなのに、少女の身体を押し退けるどころか、下手をすれば逆に押し返されてしまいそうになる。少女はそもそも、自分に手をつけることもなく、ただ立っているだけだというのに、だ。


(な、何なんだこの女……一体、何者なんだ……!?)


「まあまあ、お客様。子供から景品を巻き上げようとしなくても、ほら……あちらのガチャをご覧ください」


 得体の知れない少女に不気味さを感じて戸惑っている最中、今度は少女がアクトの肩を掴んで、抵抗を許さずガチャの方へ振り返らせる。小柄とはいえ大の大人の身体を力尽くで振り返らせて、それなのに痛みを感じさせない技術に、訳が分からず混乱したままアクトは視界の先にあるガチャを見た。


 そこには何人もの客達がガチャに群がり、順番にガチャに挑んでいた。

 幸運を掴み取った者は、声高らかに神に感謝の言葉を捧げている。


「あのように、ガチャにはまだまだ景品が溢れています。

 あちらで自力で手に入れた方が早いのでは?」


「き、気軽に言ってくれるじゃねえか。あれは高級ガチャだろうがよ」


「あらあらぁ? 1万Gくらいぽんと出せなきゃ冒険者とは言えない、なんて威勢の良いことを仰られていたのに……自腹を切るのは怖いんですか?」


「ぐっ……! て、てめえ……」


 少女に図星を指されて、言葉に詰まるアクト。レンには度胸をつけさせるために「ぽんと出せ」なんて言ったが、実際には1万Gというのは大金だ。

 1回のギャンブルに注ぎ込むなんて、正気の沙汰ではない。


「お連れの女性の方は並ばれていますよ?」


「なっ、アメリア! てめえ何勝手に並んでるんだおい!」


 少女に言われて、行列をよく見てみれば、そこには確かにアメリアがいた。

 既に彼女は投入口にいて、先程の証人連行の報酬として受け取った金を、投入口に注いでいるところだった。

 彼女がガチャリ、とレバーを引く。するとガチャの魔法陣に灯る光は黄金色から虹色へと至り、さらにそれだけに留まらず激しく明滅を始める。

 そうして魔法陣の放つ眩い光の中から現れたのは、1本の鍵だった。


「ジャックポット! ジャックポット当選おめでとうございまああああす!!」


 自分を翻弄していた謎の少女が、どこからともなく取り出したハンドベルを激しく打ち鳴らした。

 ジャックポットという言葉に、周囲は騒然となる。アクトは知らなかったが、どうやらとんでもない偉業であるらしい。



「現在の当選枚数は……2567万枚! 本当におめでとうございます!」


「え、ちょっと待って、ここのメダルって確か一枚20Gよね……ええっと、ひのふの……。

 ごごご、5億G!? きゃっはー!! うそやだ、ほんとに!?」


(ご、ごごごご、5億Gだと!?)


 城が建つ、なんて次元の話ではない。小国くらいなら買い取れそうな莫大な金額だ。それだけあれば、一生遊んで暮らすことだって夢ではない。これなら彼女の懸念していた「お金を溜めたいから子供はまだ作れない」という問題は、解決したも同然だろう。もう一生働かなくても生きていけるような大金を手にしたのだから。何やらVIPルームがどうの、よきにはからえだのと聞こえてくるが、アクトの頭に思い浮かぶのは幸せな光景だ。


(そ、そうだな……純白の綺麗な家で、庭付きで3階建てくらいの豪邸に……。

 こ、子供は2人くらいか? へ、へへへ……いいじゃねえか)


 一瞬で子供に囲まれてピクニックに行くところまで想像しながら、アクトはアメリアに声を掛ける。


「よ、よくやったなアメリア。5億Gもあれば俺達、余裕で遊んで暮らせ……」


「アクト君? まさかこの5億Gを分けてもらえるとでも思ってるの?」


「なっ……!?」


 呆れたような顔で否定されて、アクトは信じられないという思いで彼女を見た。くすくすと、馬鹿にするような表情で嗤うアメリアが明らかに自分を見下しているのを感じて、アクトは困惑する。


「アクト君のそういうお馬鹿なとこ、可愛く思ってたけどー……ちょっと飽きてきたところだったし?

 このお金があればもっと良い条件の男がいくらでも寄ってくるから、もうさよならしちゃおうかな」


「な、何を……俺のこと、好きだって……」


「うん、好きだったよ? まるで子供みたいに我が侭で怒りっぽくて、自分ではいけてる男だって思いこんでるアクト君って、傍にいるとけっこう楽しめたもの。別に、恋はしてなかったけどねー。だからいっしょに遊んで暮らすとか……あ、り、え、な、い、よー♪」


 脳内で、幸せな光景が粉々に砕け散った。

 ここまではっきりと断言までされれば、さすがにアクトも気付く。結局、自分は――金目当ての女に、騙されていただけなのだ、と。思わず膝から崩れ落ちるアクト。そんな彼を、アメリアは冷ややかに見るだけだった。


「お待たせいたしました。VIPルームに案内させていただきます」


「あらやだ、イケメン執事にエスコートされるとか素敵じゃない♪ うふふ、案内お願いしますわね」


 その内、どこからか現れた執事服の男に連れられて、アメリアはアクトを一度も振り返ることなく歩き去っていった。

 レッドカーペットの先にある、エレベーターという装置に乗り込む時も、アメリアは未知の装置に夢中な様子で、アクトのことなど興味もない様子だった。


「ばかな……こんな、こんなことがあってたまるか……おれは……」


 自分が信じてきたものが崩れ去り、気付けばたった一人、取り残されて。

 アクトは愕然とした思いで、その場から動けずにいた。

 自分の姿が無様なものだと自覚しながらも、立ち上がれそうにない。

 

 追い求めてきた冒険者としての高みは、絶対の強者の証にはなり得ない物でしかなくて。

 強さを追い求めることも、復讐を果たすこともできないなら、せめて今手元にあるもので幸せに生きるのも悪くないかと、思って。

 そうやって今まで築いてきたものを諦めてまで夢想した幸せも、甘い夢を魅せられた自分が騙されていた、だけで。

 もう何を信じていいのか分からなくて、アクトの心は氷のように冷え込んでいた。


「……貴方も、幸運を引き当てれば、いくらでも取り返せますよ」


 ――その心に、再び熱を与えたのは、少女の言葉だ。

 彼女はそっと耳元に、天使あくまの囁きのように呟いていく。


「お仲間だったお二人だって、ガチャで幸運を掴んだだけなのですから……貴方が掴めないとは限らないじゃないですか」


「……そうだ。あいつら偉そうにしやがって……ただ運が良かっただけじゃねえか……!」


 見下される。見放される。――自分にとってはそんなもの、慣れたものだったはずじゃないか。実の親に奴隷商へと売られた時だって、一人ぼっちの絶望的な状況だったけど、行動することで道を切り拓いたではないか。


「そうです。幸運の女神は挑む者にこそ微笑むのです。さあ、この逆境を覆すような幸運を、ぜひ貴方自身の手で引き寄せてみてください」


 少女の言葉が、アクトの心に火を灯す。

 行動する者。その意味が込められた自分の名前の由来を思い出して、今こそまた行動する時なのだと、心を奮い立てる。


「やってやる、やってやる! あいつらなんて目じゃねえくらいの幸運を掴んでみせるぜおらあ!!」


 自分に言い聞かせるように、躊躇いを捨てて行列へと並ぶ。

 きっと幸運を掴み取れるはずだと。自分の行動は、きっと未来を切り拓くはずだ、と。そう強く信じて。

 だが、ギャンブルにおいて自分への根拠のない過信こそが、最大の敵である。引き際を見失い、身が焦がれても突き進んで、最後には燃え尽きてしまうから。

 自分てきを信じて、闇雲に突き進んだ結果。

 アクトの口から迸ったのは歓喜の声ではなくて。


「――あ、ああああ!? そんな、俺の、俺の全財産が……あ、あああああああ!?」


 全てを失った男の、絶望の声だった。






 家族を失い、目標を失い、願いを失い、意欲を失い、そして仲間と思いこんでいた者達も失った男。

 彼の、冒険者としての『再起』の物語は、ここから始まることになる。



   〇



「アクト、アークト♪」


 つんつん、と頬をつつく感触に、アクトはまどろみから目を覚ます。

 どうやら自分はいつの間にか眠ってしまっていたことに、目覚めと共に気付く。自分を覗き込んでにこにこと笑っている少女、ラズリの様子に、アクトは思わず微笑んでいた。


「ああ、悪いなラズリ。いつの間に寝てたんだ俺……」


「ぐっすりお休みでしたね、アクトさん」


 自分が寝ていたベンチから身を起こしたアクトは、背後から聞こえる声に振り返る。そこには、教会のシスターであるロロラが立っていた。彼女は柔らかな春風のような微笑みを浮かべて、アクトの傍に歩み寄ってくる。


「今日はもう仕事は終わりとのことで、ラズリさんが孤児院のみんなと遊んでくださっている間に、ついうとうとされていたみたいで……う、うふふ」


「……? なんだよ、何笑ってんだよ。俺の顔に何かついてるか?」


「アクト、アクト。これ、鏡!」


 ラズリから手渡された手鏡を、怪訝に思いながら覗き込むアクト。

 鏡の中の自分の顔は――何とも愉快な化粧らくがきで彩られていた。


「あいつら、やりやがったな……ってか、ラズリも止めてくれよ」


「んとねー、ラズリも止めたんだけどねー、みんながどうしてもってねー」


「一番張り切ってらくがきしていたのは、ラズリさんですけどね」


「ちょっとー! ばらしちゃだめー!」


 嘘をばらされたラズリが、大慌てでロロラに訴える。

 しかし既に遅く、真実を知ったアクトは怒った顔でラズリに審判を下した。


「ラズリ……今日のおやつは抜きな」


「や、やだー! ごめんなさい、ごめんなさいー!」


「ったく……もうやるんじゃねえぞ?」


「う、うん! ラズリ、約束します!」


 ラズリが素直に謝ったのを見て、彼女の頭を撫でながら「よし、許す」とアクトが言うと、少女は満面の花のような笑みを咲かせる。その微笑ましい、本当の親子のような二人に、ロロラも思わず笑顔になっていた。


「んじゃ、約束な。ほれ、小指出せ」


「はーい! なにするの? なにするの?」


 アクトはラズリと指を絡めると、長らく行っていなかった約束の儀式を始める。先程の夢の中で見た、名前も知らない少女の歌声を思い出しながら。


「ゆーびきり、げんまん。嘘ついたら、針千本飲ーます、指切った!」


「――は、針千本なんて飲んだら死んじゃうよお!」


「こういう歌なんだよ、本当に飲ませるわけじゃねえから!

 ってか、約束守ればいいだけだろうが!」


「う、ううー! 本当に飲ませる気がないなら、それって嘘じゃないの!?」


「いや、それは……あれ? ってことは俺、針千本飲まなくちゃいけねえのか?」


 ラズリの言葉に真剣に考え始めるアクトに、ロロラは微笑ましく子供に諭すように語り掛ける。こういった話は、シスターとして孤児院の子供達の教育に励む彼女にとっては慣れたものだった。


「あくまで約束を誓うための歌ですから、本当に大切なのは約束を守ろうとする気持ちですよ。

 それに、指きりでは指を切り落とし、げんまんは万の拳で拳万、1万回殴るということですから。

 もしも歌の内容を忠実に再現したら、嘘をついた人がとんでもないことになっちゃいますね」


「こ、怖い! ゆびきりげんまんって怖い!」


「この儀式を考えたのは、どんだけ恐ろしい奴なんだよ……」


「昔のクリスティア王国の国王様が民に伝えたという逸話が起源とされていますね」


 その王様怖すぎるだろう、と思ったが、昔話というのは教訓を伝えるためにわざと怖い表現を使うと聞いたことがある。

 それならきっと、その王様も話も大げさに誇張されただけで、実際に指が切られたり、針千本が飲まされるなんてことはなかったのだろう。

 ……そんなことはなかったのだと、信じておくことにした。


「いつもは拳をぶつけて約束するのに、今日は違ったね?」


「ああ……ちょいと懐かしい夢を見て、な」


「どんな夢? ねえねえ、どんな夢を見たの?」


 無邪気に尋ねるラズリに、アクトはしばし思案する。

 夢に見た過去をそのまま伝えるのは、悲しませてしまうと思ったからだ。

 だからできるだけかいつまんで、約束の儀式のことにだけ触れて話していく。


「子供の時に、同い歳くらいの女の子に教えてもらった約束の儀式なんだよ。

 お互いの名前を知らないし、それに何年も前の話だ。

 もう会えないだろうし、会えてもお互いのことは分からないだろうけどな」


「なんで名前を教え合わなかったの?」


「……色々あったんだよ、色々」


 アクトは誤魔化すようにラズリの頭を撫でる。そうして過ごしていた時、教会の庭で遊んでいた孤児院の子供達が遠くから駆けてきた。


「目が覚めたか、よーかい!」


「おはよう、子連れ童貞!」


「わんわんさん、おはよーです!」


 思い思いの呼び名でアクトを呼ぶ子供達。だが、アクトを示す呼び名が多すぎて、子供達は同時に言ったはずなのにまったく揃っていなかった。


「わんわんさんって何だよ……狂犬だから、わんわんってか?」


「今度、わんわんのお耳つけてみよう!」


「つけねえぞ? 絶対につけねえからな俺!」


 ラズリの提案に断固として拒否する意思を示すアクト。

 そんなアクトの手を引いて、ラズリは彼を子供達の方へと促した。


「みんなで遊ぼう、アクト!」


「……ったく、しゃーねえなあ」


 嫌そうに言いながらも、顔は笑っているアクト。

 手を繋いで歩いていく二人を、ロロラは微笑みながら見送っていた。


「そういえばアクト、さっきの約束の女の子って、どこで出会ったの?」


「あん? あー……シュフイの村っていう、辺境の村でな」


 ――けれど、その会話を聞いた瞬間。ロロラの顔は、驚愕に染まっていた。

 思わず口元を手で押さえた彼女の目の前で、ラピスと手を取り合ったアクトは、語り続ける。


「俺の、育ての親達の……ダイナ傭兵団って仲間達の墓があるところなんだ」


「……みんな、死んじゃったの?」


「もう、ずっと昔の話だけどな。

 思えばずっと墓参りしたことなかったし……今度、行ってみるか」


「ラズリも、ラズリも行く!」


「別に楽しいことはねえぞ?」


「それでも行く! ラズリも、アクトの家族に挨拶するの!」


「……なら、今度準備して、行ってみるか」


「うん! いっしょに行こう、アクト!」


 孤児達の元へと向かうため、自分から離れていく二人の姿を目で追いながら、ロロラは思わず泣き崩れていた。

 ずっと、ずっと探していた。けれど、名前も分からず、行き先も分からない。そんな相手を探すことなんて、砂浜に沈んだ宝石を捜すように、途方もないことで。諦めきれないけど、心のどこかで諦めていた、思い出の中にいる男の子。


「あの時の、男の子……生きてた……生きてたんだ……!」


 ロロラは、ずっと後悔していた。

 せめて名前を教えていれば、そして教えてもらっていれば、行き先を探すことだってできたはずなのに、と。

 彼女の育ての親……血の繋がらない本当の父親である神父ライナが尽力してシュフイの村を建て直し、今もダイナ傭兵団の墓を守っている。

 そしてあの日村を出て行った少年がいつか救われるようにと、毎日欠かさず祈っていた。無論、ロロナも日課の祈りとして、欠かしたことはない。


 その、少年は今。幸せそうに、笑っていた。

 きっとたくさん、苦労しただろう。過ちを犯したと、悔いているとも聞いた。

 それでも――生きていてくれた。生きて、このままならない世界で、それでも懸命に笑って、生きている。ロロラにはそれが、何よりも救いに思えた。


「神よ……この再会に、そして彼の幸福に、感謝いたします……!」


 長き時を経て訪れた再会に、神の導きを感じて。

 溢れ出る涙を拭うこともなく、ロロラは神に感謝の祈りを捧げていた。






 世界は回り続ける。

 ろくでもないこと、理不尽なこと、悲しいことは、たくさんあるけれど。

 それでも、幸福を目指して歩めるように、今日も世界は回り続けている。


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― 新着の感想 ―
[一言] アクトの主人公化が進むなぁw 今ヒロイン4人?誰とくっつくんだかw
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