閑話「狂犬と呼ばれた男 前編」
今回は前編、後編に分けさせていただきました。
一話完結型を維持できず申し訳ございません(汗)
ガチャの話が全然出ない外伝的な過去話なので、閑話として投稿します。
「おいおい、たったこれっぽっちでしか売れねえのかよ。
最後まで役立たずなガキだぜ、くそが」
それが唯一覚えている、実の父親の言葉だった。
父親が自分を愛していないことは、子供ながらに理解していた。
ろくに家に帰ってくることもなく、たまに帰ってきたかと思えば酒に酔い潰れていて、事あるごとに暴力を振るわれた。
物心ついた時からずっと、そんな風にしか扱われていなかった。名前を呼んでもらったこともない。
そもそも、父親が自分に名付けをしたのかどうかも、知らなかった。
だから自分が奴隷商に売り飛ばされた時も「やっぱりか」と、どこか他人事のように諦めていた。
奴隷商から受け取った金貨袋を漁りながら去りゆく父親の背中に、自分は何か声を掛けたのか。それも、もう思い出せない。
けれど、父親が自分へ振り返ることもなく立ち去っていったことだけは、今でもはっきりと覚えている。
足枷を嵌められて乗せられた奴隷商の馬車の中で、少年は実の父親の所業に悲しむでもなく、怒るでもなく、ただじっと床を眺めていた。
これからの境遇に絶望する程、元の生活に希望を抱けていなかった少年にとっては、涙を流す理由もなかった。
どうせこれからも、ろくでもない人生が死ぬまで続くだけ――何もかもを諦めていた少年の耳に、奴隷商達の悲鳴が響いた。
続いて凄まじい破砕音が、何事かと顔を上げた少年の鼓膜を激しく震わせる。
轟音と共に砕け散ったのは、少年が乗せられた馬車の外壁だった。たやすく切り裂かれた木製の壁の向こうから見えたのは、紅色に鈍く光る獰猛な獣の眼光。そして馬車を切り裂いたのであろう鋭爪。
馬車の外では「モンスターだ!」と奴隷商達の悲鳴と怒号が飛び交っていた。
急な事態に呆然とする少年を余所に、再び振るわれた獣の鋭爪が、偶然にも少年を縛り付けていた足枷の鎖を引き千切る。
鉄製の鎖を難なく切り裂いた鋭利な凶爪に「ひっ」と、思わず少年の口から悲鳴が零れる。
迫り来る死の恐怖に、初めて少年は恐怖と、強い想いを抱いた。
(死にたく……ないっ!)
少年は無我夢中で足を動かす。壊れた馬車にできた隙間から外へと飛び出し、裸足であることにも構わず一目散に駆け出す。
本来なら、子供の足でどれだけ必死に逃げたところで、奴隷商達から逃れることはなかっただろう。
しかし少年を捕らえていた奴隷商達は、突如襲ってきた巨獣から逃げ惑っており、少年が逃げ出したことに気付く様子もない。
そしてその名前も知らない巨大な狼のようなモンスターは、馬車に積まれていた食料が目当てだったのか、少年にはまるで興味を示さずに積み荷の木箱を引き裂いていた。
奴隷商から逃げ出した少年は、ただ闇雲に歩き続けた。
裸足で野を駆けたために足裏はもうぼろぼろで、血が滲んでいる。ろくに食事を取れていない身体は、既に体力も尽きて少年に限界を訴えていた。
それでも彼は、歩き続けるしかなかった。もしも立ち止まったら、難を逃れた奴隷商達にまた捕まるかもしれない。あるいは、先程の獣が追いかけてきて、食い殺されるかもしれない。
何度も背後を振り返って、誰も追いかけてきていないことを確かめながらも、少年は不安に駆られて前に進み続けていた。
だが、幼い子供にできる無茶などたかが知れている。やがて少年は精根尽き果てて、地面に倒れ伏す。
起き上がろうとしても、もう身体が言うことを聞かないほど疲れ果てていて、少年は体勢を崩して仰向けに地面に転がった。
息を荒げて、ばくばくと跳ねる心臓の鼓動を感じながら、少年は空を見た。
一面に広がる、曇り空。雨雲なのだろうか、ひどく暗い色をした暗雲が、少年の視界を覆い尽くしていた。
疲れ果てた肉体が、少年の意識を眠りにつかせようと誘う。
このまま気を失う様に意識を手放してしまえば、やがて降り注ぐ雨に打たれて……冷え切った肉体はきっと、二度と目覚めることはないだろう。
(もう、それでも、いいか……)
死にたくなくて、必死に歩き続けた少年。だが、先の見えない未来と、目の前に広がる冷たい現実に、彼の心は折れてしまっていた。
もう何もかも諦めて、眠ってしまえば、このろくでもない人生を終わるだろう。
眠るように楽に終わることができるなら、それもいいのではないか――。
「おい、こら。てめえ道のど真ん中で寝てんじゃねえぞ!」
――瞳を閉じかけた少年に、威勢の強い男の声がぶつけられる。
その声に導かれるように少年は目を開いた。その瞳に映るのは暗雲ではなく、倒れた少年を覗き込む大柄の男の姿。
「馬車が通れねえだろうが、ったくよぉ!
もう少しで轢いちまうところだったぞ!」
大柄の男は乱暴な声で少年に捲くし立てるが、怒鳴られても身動きが取れずにいる少年の様子を見て溜め息をついた。
「ガキが行き倒れとか世も末だぜ、ったくよぉ……」
文句を言いながら、男は少年を抱き上げる。
力強く少年を抱えたまま男は、後方に待機させていた馬車の方へと歩き出した。
気力も体力も限界だった少年は、得体の知れない大男に不安を感じながらも、それでも。
(……あったかい)
生まれて初めて感じる他人の温もりに安堵して、意識を手放した。
〇
「あら、目が覚めたようね」
少年が目覚めた時、彼は寝室のベッドに寝かしつけられていた。
意識を取り戻した少年に気付いた女性が、少年に微笑みかける。
「顔色もすっかり良くなったわ。うんうん、やっぱり私は治癒魔法の天才よね」
そう言って満足げに頷く女性の顔には、自信が満ちていた。
ふと、少年の腹が「くぅ」と音を立てる。それを聞いた女性はくすくすと笑う。
「お腹の虫も元気になったみたいね。ちょうど夕飯のスープを作ってる頃だから、台所からもらってくるわ」
女性は椅子から立ち上がると、鼻歌交じりに部屋を出て行った。
残された少年はベットから身を起こして、部屋を見渡す。
木製の壁に、数点の調度品が飾られたこじんまりとした部屋。そこは一般的な宿屋の寝室だったが、少年にとっては生まれて初めて見る「まともな部屋」だった。
彼にとっては目新しい風景に見入っていると、扉が「ばあん!」と激しい音と共に開かれる。
「おう、坊主! 目が覚めたか?」
部屋に飛び込んできたのは、道で行き倒れていた少年を抱き上げたあの大男だった。
大男の背後からは先程の女性が、湯気の立つ食器を乗せたトレイを持って歩いてきて、大男の足を軽く蹴飛ばした。
「病み上がりの子の部屋で騒いでんじゃないわよ、ダイナ」
「だからって蹴ることねえだろ、セシル」
睨みあって喧嘩を始めそうな雰囲気の2人だったが、少年の視線に気付くと咳払いをして佇まいを正した。
「まあ、なんだ。まずは飯食え、飯。話はそれからだな」
「いきなりがっつり食べると身体に悪いから、お腹に優しいスープからね。はい、どうぞ」
セシルと呼ばれた女性はそう言って、スープをスプーンで掬い、ふうと息を吹きかけて冷ましてから、少年の口へと運んだ。
少年は最初、不安そうにしていたが、やがて食欲を掻き立てるスープの良い香りに我慢ができず口を開けると、女性がそこにスプーンをそっと差し込んだ。
程よく温かいスープが喉を滑り落ちていくと、胃の中から温まるような心地よい感触が身体に広がっていく。
その温かさは――死を救いに思いかける程に追い込まれていた少年の心に、優しい熱を与えた。
「……おいしい。あった、かい……ぐすっ」
少年は思わず涙を零していた。
その様子にわたわたと慌てるダイナをさっと制して、セシルは新たにスープを掬う。
「はい。まだまだおかわりだってあるんだから、好きなだけ味わいなさい」
「……じ、自分で食べれるっ」
少年は再び口を開けかけたが、思いなおしたのかそう言ってセシルに手を差し出す。少年の言葉にセシルは微笑んで、トレイを差し出した。
トレイを受け取った少年は、もたつきながらもスプーンを手に取って、不慣れな様子でスープを口に運んでいく。
ずっと満足に食事ができていなかったこともあり、少年はどんどんスープを飲んでいった。
「なあ、坊主。お前の名前はなんて言うんだ?」
少年がスープを飲み終えた頃合を見て、ダイナという大男が声を掛けた。
その言葉に少年は一瞬押し黙り、しばし間を置いて答える。
「……ない」
「ナイっつうのか? ダを足したら俺と同じだな」
陽気に笑うダイナに、少年は首を横に振る。
「名前で呼ばれたことがないから……自分の名前、分からない」
「……どういうこった、それは」
少年の様子に暗い雰囲気を感じたのか、ダイナは真剣な表情で尋ねる。
問いかけに少年は、少しずつ自分の事情を話し始めた。
名前を呼ばれたこともなく、ろくな関わり方をしたことがない実の父親のこと。
そしてその父親に奴隷商へと売り飛ばされて、そこから逃げ出してきたこと。
少年が話し終えると、ダイナは憤慨した様子で拳を握り締めていた。
「なんて……なんて最低な父親だよ、そいつは」
「ちょっと、ダイナ。一応はこの子の実父のことよ」
「そいつは父親なんかじゃねえ! 血が繋がってようが、そいつに父親を名乗る資格はねえ!」
「落ち着けって言ってんのよ馬鹿! この子の気持ちも考えなさい!」
ぴしゃり、と。セシルは懐から取り出した扇でダイナの頭を叩く。
それで怒りが削がれたのか、ダイナは気持ちを切り替えるように深呼吸をして、少年に改めて話し掛ける。
「なら、お前の名前を考えてやらないとな。ええっと……」
ダイナは頭をがりがりと掻きながら、思案するように目を閉じた。
しばらく唸り続けて、やがて何かを思いついたのか笑顔を浮かべて、少年に告げる。
「アクト。お前の名前、アクトってどうだ?」
「……アクト」
「行動、って意味の単語なんだがな。お前は奴隷商から逃げ出すために、僅かなチャンスを生かして行動したからこそ、ここにいる。
だから行動する者って意味を込めてアクト……どうだ? 中々良い名前だと思うんだがよ」
「いやあ、それはどうかニャ?」
会話に割って入る形で、女性の声が部屋に響く。
一同がそちらに目を向けると、扉の傍の壁にもたれかかった小柄な女性がいた。頭から髪に混じって猫の耳が生えている……猫人族という種族の女性だ。
「なんだよ、ベル。俺のネーミングに文句があんのか?」
「いやあ、だって後ろにうをつけたら悪党になるニャ?」
「……マジだ!?」
「気付いてなかったのね、あんた……」
ベルという猫人族の女性の指摘に、ダイナは目を見開いた。
その横では先に気付いていたらしいセシルが、呆れ顔で肩をすくめている。
「あー、じゃ、じゃあ他の名前だな? ええっと……」
「それで、いい」
少年は新たに名前を考えようと唸っているダイナに、はっきりと言う。
「アクトでいい。いや……アクトが、いい」
「お、おう、そうか? お前がいいならそれで構わないんだが……。
あ! カクトとかどうだ!? ウをつけても格闘になるぜ!?」
「あんたはもう黙ってなさい、ばーか!」
ぺしん、とセシルに頭を叩かれて押し黙るダイナ。
そんな彼らを余所に、少年は自分に言い聞かせるように、刻み込むように、呟いていた。
「アクト……俺は、アクト。今日から俺は、アクトだ」
初めて与えられた、自分の名前の響きを噛み締めるように、少年は何度も呟く。
その顔は、嬉しそうに微笑んでいた。
〇
「おらぁ!」
アクトの腹に、ダイナの蹴りが叩き込まれる。
呼吸ができなくなり、アクトは呻きながらその場に倒れこんだ。
「へっ、足を止めるからそうなるんだぜ」
「もう、何やってんのよダイナ!」
慌てて駆け寄ろうとするセシルを、アクトは手で制した。
よろよろとふらつきながらも、自分の足で立ち上がる。
「ど……どうってことねえぜ、親父……!」
「そうかい、だが実戦なら今ので死んでたと思いな!」
ダイナに助けられた日から数年。アクトはダイナの養子として引き取られて、ダイナ率いる『ダイナ傭兵団』と共に生活していた。
アクトはその荒くれ者揃いの傭兵団員達との生活の中で健やかに育ちながら、様々なことを学んでいる。
戦闘訓練もアクト自身が望み、積極的に傭兵団の面々に師事していた。
子供だからと露骨に手加減する者もいれば、ダイナのように「痛くなければ覚えない」と全力で攻撃してくる者も多く、アクトの身体はいつも傷だらけになっている。
しかし彼は、どれだけ傷ついても訓練を止めようとはしなかった。
「このくらい平気だ! 俺は絶対に強くなって……この傭兵団で活躍するんだからな!」
「意気込みは嬉しいんだが、お前はまだ子供なんだし、才能もないんだ。無理しなくていいんだぞ?」
「無理なんかじゃねえ! さあ親父、もう一回だ!」
「はいはい、頑張り屋さんなのはいいけど、そろそろお昼ご飯の時間だからちょっと休憩よ」
木刀を握りなおしてダイナに飛びかかろうとしたアクトを、セシルが止める。
アクトは物足りなそうに文句を呟きながらも、言われた通りに訓練用の木刀を革袋にしまいこんだ。
「ほら、アクト。お腹見せてみなさい」
「別にこれくらい平気だって!」
「だーめ! ちゃんと治さないと、後で悪化したら私が余計に手間取るんだから、治療を受けなさい!」
さっさと食事に行こうとするアクトを呼び止めて、セシルはアクトの服を捲り上げる。
ダイナが手加減せずに怪我をさせて、セシルが治療するという光景が、ここ数年で『ダイナ傭兵団』の日常風景になっていた。
「まったく、いくら私が天才的な治癒術士だからって、こう毎日怪我されてたら治療も追いつかないわよ」
アクトの腹に痣ができていることを確認したセシルは、不満を口にしながらも治癒魔法の呪文を唱えた。
呪文によって治癒の魔法が発動したことを確認すると、その魔法を維持しながらセシルはダイナに怒鳴る。
「ダイナも、ちゃんと手加減しなさいよ! めちゃくちゃ痛そうだったじゃない!」
「ばーか。訓練で痛みに慣れておかないと、実戦で死ぬことになるのはそいつなんだよ。
ただでさえ俺と同じで才能がないんだから、ちょっとやそっとの痛みじゃ怯まないくらいにしておかないとな」
「それはそうかもしれないけどさあ……ほとんど毎日、朝から晩まで治療する私の身になってよね!」
怒りながらもアクトの治癒をしっかりとやり終えたセシルは、「ふんっ!」と言い捨てて食堂へと向かった。
「午後の訓練で、今日こそ一発ぶん殴ってやるからな!」
「はっはっは。できるもんならやってみな、アクト!」
意気込むアクトの頭を乱暴に撫でて、大声で笑うダイナ。
その様子を見て、荒くれ者の集う傭兵団の面々も、和やかな雰囲気で笑っていた。
隣国との戦乱の影響で世間は騒がしくなっているが、それでも平和を感じられる時間が確かにここにはあった。
これからもそんな時間がずっと続けばいいと、誰もが思っていた。
――ずっと続くのだと、きっと誰もが信じていた。
〇
ある日、『ダイナ傭兵団』が辺境の漁村に滞在している時のことだった。
見張り台から敵襲を告げる警鐘が鳴り響き、村が騒然となった。
「モ、モンスターの大群だ! 丘の向こうから、数え切れないくらいの大群が村に向かってきている!」
慌しく見張り台から降りてきた男は、大声で叫ぶ。
それを聞いて、村人達は悲鳴を上げながら家に戻っていった。
自警団の隊員達も集まるが、辺境の小さな村の自警団なんてほとんどが、素人より多少は戦えるくらいのものでしかない。
物資の補給に立ち寄っていた『ダイナ傭兵団』は、村の出入り口に停留させていた馬車の前で緊急会議を執り行っていた。
「……すっかり囲まれているでござるよ。モンスターを避けて逃げようにも周囲は海に囲まれて、船も漁用の小船が数隻だけでござる」
『ダイナ傭兵団』の諜報役であるエルフの女性、タツミが調査結果を報告する。
村に迫り来るモンスターは見張り台から見えるだけでも千を超える大群。
戦うには無謀、しかし逃走は経路も手段もなく、実質不可能な状況だった。
「それにこの臭い、じきに大雨が降るニャ。海はきっと荒れるニャ」
「こんなに晴れているのにか?」
「今はまだ平気ニャけど、たぶん数時間もしない内に降ってくるニャ」
ベルがさらに絶望的な状況を補足する。
村人の何人かが逃げ出そうと小船を奪い合っていたが、ろくな準備もなく大雨の中で海に飛び出せば、荒れ狂う波に飲み込まれることになるだろう。
無論、傭兵団のメンバー全員が逃げ出せるだけの船もなければ、そもそも海が安全とは限らない。
今回のようなモンスターの大発生が起こる時は、何らかの異変の前触れだ。その異変の余波で海底に潜むモンスター達が浮上してくる可能性だってある。
安全な逃げ道なんてものは、どこにも残されていなかった。
「……逃げられねえなら、やるしかねえな」
ダイナは意を決したように呟き、そして団員達に大声で語りかける。
「俺達はこれから、この村に立て篭もりモンスターを迎撃する!
村人達は教会の地下室へ避難させて、家屋を利用してでも立ち向かうんだ!」
団長の宣言に「うぉおおお!」と威勢良く鬨の声を上げる傭兵達。
気を奮い立たせる傭兵団の面々の中、アクトはダイナに声を掛けられる。
「アクト、お前は村人達といっしょに……」
「いやだ! 俺も戦う!」
避難しろ、という言葉を遮って、アクトは毅然とダイナを睨んだ。
その手には、傭兵団の保有する一振りの剣が握られている。
大人なら片手で持つ類の剣だが、まだ幼い子供のアクトには両手でやっと構えられるような代物だ。
とても、戦場に赴けるような状態ではない。
「……アクト。頼むから言うことを聞いてくれ」
「俺だって、俺だって『ダイナ傭兵団』の一員だ! 俺だけ逃げるなんて絶対しないからな!」
「だったらアクト、あなたに任務を与えるわ!」
アクトは頑なに避難を受け入れようとしない。
埒が明かないと判断したセシルが横から口を挟んだ。
「村人達を教会の地下室まで誘導する手伝い、その後は地下室への入り口を死守しなさい!」
「それじゃあ結局、逃げてるのといっしょだ!」
「ばーか。村人達を守らないと……私達が報酬もらえないでしょうが。私、ただ働きなんてごめんよ?」
「そんなの……そんなの詭弁だ! 子供だからって誤魔化せると思うな!」
「あーら、難しい言葉を覚えてるのね。えらいえらい」
セシルはそう言って、アクトの頭を撫でた。
子ども扱いするな―― そう叫んで腕を振り払おうとしたアクトだが、寸前で気付く。
自分の頭を撫でるセシルの手が、震えていることに。
「お願い、アクト。私達はちゃんと帰ってくる。だから、村の人達といっしょに待ってて」
恐怖に震える手で、泣き出しそうな顔で。
それでも勇気を振り絞って戦おうとする彼女の姿に、アクトは何も言えなくなってしまう。
「……分かった。ちゃんと、任務を果たす。だから、だからさ……」
アクトは俯き、込み上げてくる感情を抑え込もうと必死で拳を握り締める。
けれど、やがてその瞳からは涙が零れ落ちた。
「みんな、生きて帰ってきて……!」
嗚咽を堪えきれずに泣きじゃくるアクトを、セシルはそっと抱き締める。
己もまた恐怖に身体が震えて、泣き出しそうでも、アクトを不安にさせまいと必死に堪えて。
「ええ。約束よ。終わったら、あなたの好きなシチューを作ってあげる」
しばらくアクトを抱き締めていたセシルだが、いつまでもそうしている訳にも行かず、ゆっくりと身体を離す。
名残惜しそうにするアクトに、今度はダイナが拳を向けた。
「俺達は必ず帰ってくる。男と男の約束だ!」
「……ああ!」
ダイナとアクトは、互いの拳をぶつけ合う。
2人がよくやっていた、男と男の約束を誓う時の儀式だ。
不敵に笑うダイナに負けじと、アクトも涙を拭って、なんとか笑顔を作る。
それを見届けたダイナは、改めて傭兵達に向けて叫んだ。
「さあ野郎共! いっちょ派手に暴れようぜー!!」
団長の威勢に応えようと、団員達も大声で「うおおおお!」と鬨の声を返す。
モンスターの大群に立ち向かおうと動き出す傭兵団と共に、アクトもまた与えられた任務のために走り出した。
〇
幾人か言うことを聞かずに海へと逃げ出した村人を除いて、ほぼ全ての村人が教会の地下室に避難した。
今は教会の入り口にバリケードが作られ、建物の外には村の自警団が見張りについている。
アクトは、村人達に地下室へと促されても絶対に譲らず、地下室に続く扉の前に陣取っていた。
「あ、あの……怖くないのですか?」
修道服を着た少女が、アクトにおそるおそるといった様子で話し掛ける。
村の一員である彼女は地下室へと避難しているべきなのだが、最後までアクトを説得して避難させようとしているらしく、大人達が扉の向こうに消えても残っていた。
「……怖くなんてねえよ。俺はダイナ傭兵団の一員だからな」
「け、けど……私と同い年くらいの子供じゃないですか」
「子供でも俺は男だ。そして傭兵だ。どんな敵が相手だって、戦うんだよ」
自分に言い聞かせるように、アクトはそう答える。
強がりだということは自分でもよく分かっていた。
未熟で非力な子供の、ただの強がり。それでも。
(いつか本当に強くなるために、強がり続けるんだ……!)
かつてダイナに教わった言葉が、アクトの心を支えていた。
「てめえこそさっさと地下室に行けよ。親が心配してるぞ」
「……私、親がいないの」
少女の返答に、アクトは言葉に詰まる。
不幸な子供、なんて自分だけではないことを傭兵団で学んだはずなのに、つい思い込んでしまうのだ。
幼い子供には、その子を守る親がいるはずだ、と。
「教会の前に捨てられていたって……だから、親はいないの……」
「……誰の世話になってるんだよ」
「教会の神父様が、パパの代わり……でも、本当のパパじゃないの……」
今にも泣き出しそうな少女に、アクトは必死で掛けるべき言葉を考える。
自分にだって親はいないとか、不幸自慢をしたって意味がない。
気の利いた言葉をすぐに考えつくような頭の良い人間ではないと自覚しているアクトは、尊敬する人の言葉を借りることにした。
命の恩人であり育ての親である、ダイナの言葉を。
「血の繋がりがなくたって、心が繋がってれば本当の家族になれる」
「……?」
意味がよく分からなかったのか、首をきょとんと傾げる少女。
アクトはそんな少女に、できるだけ分かりやすい言葉を選んで話を続けた。
「お前、その神父様とやらは嫌いなのか?」
「そ、そんなことない……! とても優しくて、大好き」
「だったら、その神父様がお前の親だろ。血が繋がってないだけの、本当の家族だろうが」
「……血の繋がってないだけの、本当の家族?」
「俺はダイナと血は繋がってないけど、本当の父親だって思ってる。本気でそう思えるなら、それは血の繋がりなんかには負けねえよ。
だからお前も、そう本気で思えばいいじゃねえか。自分の本当の家族は、その神父様なんだってな」
「……思っても、いいのかな? め、迷惑じゃないかな?」
「知らねえよ。俺、その神父様に会ったことねえし。けどまあ……血の繋がってない子供を育てようってくらいなんだから、大丈夫なんじゃねえの?」
「そ、そっか。……あ、あの。ありがとう、素敵な言葉を教えてくれて」
照れた様子で礼を言う少女の微笑みに、アクトは思わずつられて頬を赤くする。
アクトは赤くなった頬を隠そうとそっぽを向きながら、ぶっきらぼうに答えた。
「ただの受け売りだ。……っていうかお前、その神父様は避難してるのかよ」
「うん、地下室で村の皆を落ち着けてる。私は、その……こっそり抜け出してきちゃった」
「だったら神父様が心配してるだろ、早く戻っておけ」
「で、でもそれだとあなたが……」
尚も食い下がろうとする少女に、アクトはどうしたものかと考える。
そして、自分をこの場に向かわせたセシルのやり口を思い出して、それを真似することにした。
相手に目的を与えて、この場から遠ざけるという手を。
「あー、その神父様に、本当の家族と思っていいのか聞いてきてくれよ。そして答えを教えてくれ。それで貸しはチャラにしてやる」
「え? 貸しって……?」
「素敵な言葉とやらを教えてやっただろうが。貸しを返さねえなら、俺は絶対避難しねえからな」
「わ、分かった……聞いてくるから、そしたら避難してね」
「おう、考えてやるよ」
考えるだけで避難する気はないけどな、という言葉は黙っておく。
この手の言葉遊びは、傭兵団でアクト自身が散々騙されて覚えたものだ。
遊ばれていることに気付かず、修道服の少女は地下室の扉の向こうへと消えていった。
ガチャリと鍵を閉める音が聞こえて、走り去る少女の足音が遠ざかったところで、ようやくアクトは溜め息をつくことができた。
「ったく、ようやく行きやがった……」
アクトは扉の前に座り込んで、意識を集中させる。
教会の扉には厳重なバリケードが施されており、窓枠も内側から封鎖している。
バリケードの外側には自警団の隊員達が見張りをしていることを考えれば、安心してもいいはずだ。
そもそも、教会までモンスターが攻めてくる事態になったのなら、前線で戦っているはずのダイナ達は――。
(妙なことを考えるな、俺! 必ず帰ってくるって、約束したじゃねえか!)
脳裏に思い浮かんだ嫌な可能性を、ぶんぶんと頭を振って忘れようとする。
仮にモンスターが教会まで来たとしても、討ち損ねたモンスターが傭兵団の脇を抜けてきただけということもある。
自分はそういった、万が一という事態の際に備えて待機しているだけだ。
だからきっと、こうして思い悩んでいる間にもダイナ達がモンスターを倒しまくって、何食わぬ顔で戻ってくるはず。
大丈夫。きっと大丈夫だ。そう、アクトは自分に言い聞かせていた。
どのくらいの時間が過ぎた頃だろうか。突然、耳を劈く轟音が響き渡った。
何事かとアクトは耳を澄ませる。続けて再び鳴り響いたその音は、今までに何度か聞いたことがあるものだ。
「この音……雷鳴か?」
ベルが言っていた言葉を思い出す。その内に大雨が降る、と。
大雨が降る予兆として、雷鳴が轟くことは珍しくない。
まだ雨音は聞こえてこないが、それも時間の問題だろう。
「……もうじき、降ってくるのか」
教会内の窓は封鎖されており、アクトには外の様子を窺うことはできない。
だが、ベルの天気予測は外れたことがない。獣の直感じみたそれは最早予言に思える程に、天気の急変を言い当て続けてきた。
その時のアクトには知る由もなかったが、封鎖された窓の外では稲光が何度も瞬き、空には暗雲が垂れ込めていた。
――未来を暗示するかのように、重苦しい暗雲が。




