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黒の主  作者: 沙々音 凛
第二章:首都と出会いの章
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10・誓約

「本当に、とんでもない馬鹿力だな」


 ナスロウ卿は声を上げて笑う。セイネリアは、今度は本心から忌々しげに眉を顰めた。


「ジジィのくせによく動く」

「……いや、今のは危なかったぞ」


 それでもセイネリアには、今の勝負はこちらの負けだという事が分かっていた。

 実際、あのままなら、セイネリアの斧が向うの足に当たるより早く、ナスロウ卿の剣がこちらの腹をえぐっていた。剣が腹に入った後なら、ナスロウ卿の足元に届く前に斧は手を離れてどこかへ行くか、そのまま落ちて地面に刺さっていただろう。避けるまでもなかった筈だ。

 そうならなかったのはナスロウ卿がこちらを殺す気がなかったからに他ならない。この老人は、剣をわざと逸らしたのだ。


「ふん、ジジィの情けで命を拾ったか。俺もその程度だったとはな」


 セイネリアが言えば、老人は苦笑して肩を上げる。


「まったく、最初からこちらには殺すつもりはないんだがな。そもそもこれは勝敗が目的ではなく、お前の腕を見る為だぞ。何の為にお前はここに来たんだ」


 言われれば確かに、これは従者にする為の腕を見るだけの勝負だ。だからナスロウ卿のいう事はもっともで、セイネリアも最初から負けたなら従者となってこの男に教えを請うつもりではあった。

 だがセイネリアとしては、負けるにしても相手がこちらに手心を加えられるだけの余裕があったというのが気にいらなかった。なにせセイネリアはあのぎりぎりの状態であるからこそ、分かってしまっていたのだ。


「もし、俺が後もう少し、ほんの僅かでも速ければ、結果は変わっていたんだろ?」


 それには表情を消して、唇だけに笑みを浮かべてナスロウ卿も答える。


「あぁ、そうしたら剣を引く余裕はなかったな。お前は死んでいたかもしれん」


 つまり、こちらの意図に気づいて尚、剣を引いて避けるだけの余裕が向うにはあった。セイネリアが命を拾ったのは、相手との実力差が大きかったからこそだったのだ。


「つまり俺は、自分の力が足りない所為で命を拾ったという訳だ」


 それで斧を地面に刺したセイネリアを見て、ナスロウ卿は困った顔をしながらも、剣を腰の鞘に収めた。


「それは運というヤツだとでも思っておけ。今の時点の実力がそこまでだったからこそ、お前はここで死ななかった、それだけだ」

「運か……」

「そう、あるいは、俺にとってはこれは運が悪かったのかもしれないがな」


 近づいてきた老人に向けて、セイネリアは振り返る。


「まだ、『止め』とはいってないだろう」


 ナスロウ卿はそこで初めて老人らしく、くしゃりと顔に皺を寄せて笑った。


「では『止め』だ。よしセイネリア、今日はここまでにして朝飯を食いにいこう」

「今日は、か」


 セイネリアが不機嫌そうに呟けば、かつて勇者と呼ばれた老人は、自分より背の高い青年の背中を力強く叩いた。


「そう、これからは朝は早いから覚悟しておけ。後お前はな、自己流が過ぎるから暫く基礎を叩き込んでやる。問題は読み書きと作法だな、その歳から詰め込むのは相当きついが、まぁ最低限ならどうにかなるだろう」


 楽しそうな老人は、笑いながら前を歩いていく。


 負けた事が初めてという訳ではない。

 勝てないと判断した事なら何度もある。結果だけで考えれば予定通りに話は進んだといっていい。最初から負ける事も計算に入れて、頭では割り切れていた筈だった。そう考えてもセイネリアは、いつものようにすぐに頭を切り替える事が出来なかった。いや、頭では納得出来ているのに、気持ちがそれに従わなかった。

 それは多分、自分が本気だった上で向うに手加減の余裕があったというその事実が予想以上に自分は悔しかったのだろうとセイネリアは分析する。考えれば今までは、戦う前に勝敗は分かっているのが普通だった。勝てない相手には本気を出さず、相手の実力を見る事だけに撤して、マトモに戦った相手には必ず勝ってきた。つまり、自分は勝つつもりで負けた事がなかったのだと、今更ながらに理解する。


――そうか、俺はそんなに悔しいのか。


 頭で割り切れない、こんな強い感情は、初めて感じたモノだったかもしれない、とセイネリアは思う。

 セイネリアは、口元に自嘲の笑みを浮かべ、前を歩くナスロウ卿の背を見つめる。

 まさに今、自分はこの老人に鼻っ柱をへし折られた自信過剰な若造という訳だ。

 自嘲の笑みは、だがやがてすぐに本物の笑みに変わる。獣のように飢えた金茶色の瞳が、獲物を見るように目の前の老人の背中を映す。


――ならば、何があっても、この男より強くなってやる。


 それは決意ではなく、命を懸けた自分自身への誓約であった。初めて感じるこの強い感情は、命を懸けるにふさわしいとモノだとセイネリアには思えた。


次回から暫くは従者生活、というか訓練生活のお話。

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