レモンスカッシュ・アンサー
「あー、コーラが飲みたい!」
土曜の夕方、パソコンに向き合う信也が苛立った調子で言うので、私はスマホの画面から顔を上げた。
「炭酸水ならあるよ?」
健康診断の結果が悪かった信也にとって、市販のコーラは毒のようなもの。私は信也の健康のため、別の選択肢を提案をしたわけだが、彼は自分の素直な気持ちを表現するように頭を掻きむしるのだった。
「ねぇ、分かっているでしょ? あの甘さが俺の脳を刺激するんだって。これじゃあ、良いメロディも流れてこないよ」
「大変だねぇ」
彼が何を求めているのか知っていながら、私はとぼけてみせると、信也は拗ねたように眉を寄せた。
信也は作曲家だ。週末限定の作曲家。
とはいえ、ネットに音源を上げるとそれなりに反響はあり、固定のファンも少なくない。ただ、何年挑戦してもプロにはなれないだけで実力のある作曲家であって、コーラが大好物なのだ。
「分かった。いつもの作ってあげるから」
「うわ、優しい! さすがは俺の嫁。真理ちゃん最高!」
「はいはい。だったら、早くプロになって楽させてよ」
おまけに、早く籍を入れるかどうかも決めてほしいけど、私は席を立ってキッチンに向かった。
信也が求めているのは、炭酸水にレモン汁とハチミツを入れた、超簡単な適当レモンスカッシュ。
自分で作れよと思わなくもないが、私が彼のためにレモンスカッシュを作り続ける理由があった。
「甘めがいい?」
「うん、お願いします」
冷蔵庫から炭酸水とレモン汁を取り出し、キッチン下の戸棚からハチミツと、ストローが束になって入ったビニール袋も取り出す。手早くレモンスカッシュを作って、あとはストローをさすだけ。これも慣れた動作で、ビニール袋からストローを一本取り出そうとするが、直前で私の手が止まる。
この瞬間だけ、私はいつも躊躇ってしまうのだ。いや、躊躇わなくてはならなかった。
嫌に寒い気がした。空気が一度下がって、背後から誰かに見つめられているような感覚も。それなのに、魔が差して初めて万引きする主婦のような手つきで、私はストローを一本取る。
それは丁寧に箸袋の中に収められていた。この束になったストローは全部そうだ。一本一本、丁寧に紙の箸袋に収められている。私がゆっくりと箸袋からストローを抜くと、中から小さいメモ用紙が落ちた。手に取ると、女の字でこう書かれていた。
『君を信じる』
私はぞっと背筋が凍った。こんな短い文は初めてだ。しかも、これまで見たものと違って、彼女の心情の変化を感じるではないか。それでも、私は何事もなかったようにメモ用紙を指先で潰し、念入りに丸めてからごみ箱に捨ててから、グラスにストローをさして、信也に提供した。
「はいよ」
「おおお、ありがとう!」
信也は凄い勢いでほのかに色が付いた液体を吸い取り、あっという間にグラスの中身は半分になる。
「やっぱ、真理ちゃんのレモンスカッシュは世界一だわ。バランスが絶妙なんだよなぁ」
感激する信也に、私は薄く微笑んで見せる。
「本当に世界一?」
「うん、世界一!」
無邪気に答える信也。きっと、彼からしていたら私の確認は、彼氏の愛情を確かめているだけに見えるだろう。でも、そうじゃない。私は彼の罪悪感を確かめている。
そして、私自身の罪悪感と覚悟を。きっと、私たちは幸せになる。罪から逃げて、背を背け続け、絶対に幸せになるのだ、と言い聞かせながら。
私は昔から暗い女だった。無口で感情表現が下手で、なかなか友達なんてできず、学校という閉ざされた世界の生活は、本当に地獄みたいだった。特に高校のとき、最初の一年は地獄も地獄。誰からも存在しないように扱われ続けて、そこのいる自分が異物でしかないように思えていた。何度引きこもってやろうと思ったことか。それでも、二年生になってからは友達ができた。
「真理ちゃん、何聴いているの?」
休み時間になるとヘッドホンを装着して自分を守る私だったが、二年の春、クラス替えによって、そのディフェンスが初めて破られる。
「えっと……有郷さん?」
「姫奈でいいよ」
そういって姫奈は笑った。さらさらの髪に大きな目。明るい笑顔は男女ともに誰からも好かれる印象だった。そんな彼女がなぜ私なんかに声をかけてきたのか。
「私も音楽好きなんだ。だから、真理ちゃんが何聴いているのか気になってさ」
「……別に大したものは聞いてないよ」
しかし、姫奈は「聴かせて聴かせて」と私のヘッドホンを半ば強引に取り上げて、自分の耳に当てた。私は自分の世界を否定される恐れと、自分が特別な世界の住人だと知ってもらえるチャンスだという興奮を混ぜ合わせながら、再生ボタンを押した。
「……へぇ。……うんうん」
姫奈のリアクションは、たぶん一言で表すと「よくわからない」だったのだろう。それでも、彼女は笑顔だった。
「なんか凄いの聴いているね。パンク??」
「うん。まぁ……そうかな」
私が聴いていた曲は、シュアラ・クレイムというヘビメタのバンドなのだが、姫奈にはその辺の区別はつかないらしい。だけど、彼女は嬉しそうに言うのだった。
「実は私もロック好きなんだよね。好きなバンドは、えっとね……」
姫奈が挙げる音楽はどれもテレビでよく見るものばかりで、私だったら絶対に聞かないような曲ばかりだったけど、学校でこんな話をできる相手がいるだけで、奇跡が起こったみたいだった。それから、私たちは音楽仲間になって……たぶん、友達になった。
いや、姫奈は私にとって唯一の友達になってくれたのだ。実際、姫奈は卒業のとき、私と離れるのはさみしいといって泣いてくれたし、なのに進学先は同じ東京で、一ヵ月もしないうちに普通に会って話したときは笑いあった。大学こそ違ったけど、頻繁にあって遊んで……私の青春といえば、必ず姫奈の姿あったのだ。
「ねぇ、真理ちゃん。今度、これ行ってみようよ」
姫奈が私に見せたのは、大学生による音楽イベントのフライヤーだった。ちょうど、私と姫奈が通う大学の間くらいの場所で開催されるらしく、音楽好きな学生が集まるとのことで、姫奈は「交友の輪が広がるかもよ!」と期待に胸を膨らませた。人見知りな私は迷ったけれど、もしかしたら姫奈よりコアな話ができる仲間ができるかも、と結局一緒に参加するのだった。
イベントはいわゆるクラブと言われる空間で行われ、私は本当に身が縮こまった。大音量で流れる知らない音楽に、若者たちの欲望が交じり合う空間は吐き気すら覚えた。姫奈も顔が引きつっていて、きっとすぐに音を上げるだろうと思ったが、彼女は意外にも長い時間粘るのだった。
とは言え、ヒップホップやレゲエに慣れ親しんでいない私たちには苦しい空間でしかなく、そろそろ出ようと私の方から提案しようと思った、そのときだった。
「なんか……あの人かっこいいね」
音楽が途切れたタイミングで、DJブースの前に立つ男は、これまで曲を流していた男たちと雰囲気が違った。パソコンとミキサーを操作し、彼の音楽が流れると、クラブの雰囲気まで変わる。たぶん、この空間に集まっていた人間が聞いたことのないような音楽だったのだろう。
ロックをベースにクラシックを融合させ、あとはダンスとテクノの要素も加えられている。美しいメロディだが、踊れる人は踊れるのだろう。オリジナリティがあるけど、場の雰囲気を壊さないギリギリのライン。
そして、何よりも私の趣味……いや、そんな簡単な言葉ではなく、私という存在の根幹にある何かを震わせるものがあった。その人の曲が終わるまで、私たちは一言もしゃべらず、耳を澄ませていたが、その時間は決して長くはなかったと思う。
「……あの人、凄いかっこよかったね!」
クラブを出た姫奈の第一声はそれだった。私は曖昧に返事したが、実際のところは「音楽を褒めろよ」と心の中で毒づいていた。もちろん、姫奈はそれに気付くことなく、きゃあきゃあと彼の見た目について騒いだ。そのあと、お腹が空いたと言うので近くのファミレスで休むことにしたのだが、私は信じられなものに気付いてしまった。
「真理ちゃん、何見ているの?」
固まっている私の視線を追って、姫奈も気付く。
「あ! あの人……!!」
さっき、クラブで音楽を流していた、あの人だった。私たちは酷く動揺したが、姫奈が勇気を出して声をかける。
「あ、あの……さっきクラブで」
「ああ、どうも」
一人でハンバーグを食べていた彼に、姫奈はなかなか強気にアピールした。一緒に食事を、という流れを強引に作り、姫奈はあれこれと彼に質問する。まずは名前。
「川島信也です」
そう、これが信也との出会いだ。二時間、もしかしたら三時間近くファミレスでしゃべったかもしれない。その間、信也はコーラばかり飲んでいたことも覚えている。このときから、不健康そうな人だ、と思ったのだから。
「やった、連作先も交換できたよ!」
それなりに盛り上がり、信也の方も自分に興味を持ってもらえて嬉しかったのか、姫奈はかなり親しくなっていた。そして、今度一緒に遊ぼうと約束までして。
その出会いから、私たちは何度も一緒に遊んだ。最初は姫奈が信也に連絡を取り、彼の予定が問題ないようなら、私に連絡がくる。そんな流れで三人でよく遊んだのだ。
「えっ。真理ちゃん、シュアラ・クレイムも知っているの?」
「うん。結構前から聴いてる」
「マジかよ、知っている人に初めて出会った。じゃあ、前進のオルタナティブ・ロックのバンドは知ってる??」
「あー、うん。でも、有名なやつ数曲か知っている程度。けっこうレアだよね?」
「え、音源あるから今度渡すね。本当に最高だから」
私と信也は音楽の趣味が本当に合った。隣で耳を傾けているだけの姫奈がふてくされるほどには。本当はもっと信也と話したかったのに、気を使って切り上げることもしばしばだった。
私たちは、よく遊ぶだけでなく、信也が参加するイベントにもよく招待された。彼の奏でる音楽は私の心に染みて、震えて、躍動させ、癒してくれる特別なものだ。しかも、多くの人はそれに気付いていないようだった。だから、私は彼の最初のファン。そんな自負すらあった。
それなのに、思わぬ形で私たちの関係は変化してしまう。
「ねぇ、真理ちゃん。私……信也くんに告白したよ!」
ある日、姫奈に呼び出されると、そんな話をされたのだった。
「そう、なんだ」
彼女の顔を見れば、結果は分かる。当たり前のことなのだけれど、私の知らないところで二人は会い、関係を深めていたのだ。それから、信也に会う機会は一気に減ってしまった。このまま、関係が薄れて、いつの日か二人の結婚式に呼ばれる日が来るのだろうか。ぼんやりと、そんな風に考えていたが、信也の方から連絡があった。
『新曲作ったんだけど、聴いてもらえいないかな』
私は即答で「聴く」と返事した。三人でよく会っていたファミレスに呼び出され、信也はパソコンを持って現れた。
「急にごめんね。でも、どうしても最初に真理ちゃんの感想を聞きたかったんだ」
最初に、という言葉に私は反応する。姫奈には聞かせていないのだろうか、と。彼の曲はいつも通り素晴らしかった。天才。その一言に尽きる。私は何がいいのか、どこがいいのか、できる限りの言葉を尽くして、自分の感動を伝えた。
「そっか! やっぱり真理ちゃんに聴いてもらってよかった。自信が出たよ!」
「姫奈はなんて言ってたの?」
さりげなく聞いてみると、彼は苦笑いを浮かべた。
「ヒメはこういうの、あまり分からないみたいだからさ」
どこか悲しげな彼に言いたかった。私は貴方の才能が分かるよ、と。
「会ったこと、ヒメに内緒ね。けっこう嫉妬深いところあるからさ」
「分かった」
姫奈と恋愛の話はしたことがなかったが、そんな気がしてた。だから、私も余計なことは言わないように決めた。姫奈は大切な友達だし、信也の音楽を真っ先に聴ける特権も失いたくなかったから。
信也は、完成した曲を何かのコンテストに出したらしい。でも、いい結果は得られず、三人で残念会を開いた。姫奈は言った。
「大丈夫だよ、信也なら。また作って、また応募すればいいんだからさ」
それに対し、信也は笑みを浮かべたが、その不自然な表情が痛々しかった。私は心の中で思う。簡単に言わないでほしい、と。彼がどれだけ心を削って曲を作ったのか、姫奈は本当に分かっているのだろうか。私も曲作りの経験があるわけではないが、その苦労が、その苦痛が、少しは理解できるつもりだった。だから、簡単にいう姫奈がなんだか腹立たしかった。
「ねぇ、ここの部分……もう少し上げてもいいんじゃない?」
「そう? ……こんな感じ?」
「あ、いいかも」
それから、私と信也は姫奈に内緒でいつものファミレスで会い、曲作りについて話し合った。
「やった! 入選した!」
その結果か、小さいコンテストで信也の曲が小さい賞を取った。
「真理ちゃんのおかげだよ。真理ちゃんがいなければ、俺……ここまでできなかった」
「そんなことない。信也の才能があったからだよ」
「ありがとう。いつかもっと凄い曲作るから……そのときは、また真理ちゃんが最初に聴いてやってね」
その後も信也は曲作りを続ける。ただ、いいところまで行くけど、決定的なものは得られない、という結果が続き、いつの間にか私たちの大学生活も終わりを告げようとしていた。
「信也の就職決まったんだ」
そんなタイミングで、私は姫奈から聞かされる。
「でも、東京じゃないの。真理ちゃんは東京だったよね」
「うん。……姫奈は?」
「私は信也についていくよ。だから……離れることになっちゃうね」
「そっか」
私たちは大人になろうとしていたのだ。
三月、お別れ会という名目で、私たちは三人で飲んだ。今までは入らなかったような、少しいいお店だ。
「今日からは気軽に三人で遊べなくなるから」
姫奈は明るく振る舞うが、親友を二人も失う私は、とても自然に笑えなかった。だけど、二人だって新しい地の生活に不安があるはず。できるだけ、自然な笑顔を心掛けるが、信也は普段では考えられないペースで飲んだ。
「ごめん、ちょっとトイレ」
酔いが回ったのか、信也が席を外すと姫奈が少しだけ暗い表情を見せた。
「ねぇ、真理ちゃん。私……大丈夫かな?」
「何が?」
「信也のこと、支えられるか少し不安でさ」
「どうして? 二人は仲良くやっているようにしか見えないけど」
姫奈はグラスに注がれた液体に目を落としながら、つぶやくように言った。
「ときどき、信也のこと分からなくなるんだ。何かにイライラしている。気晴らしに出かけようって言っても、逆に怒らせちゃったりしてさ。私の知らない信也がきっといって、私には見えないものが見えているんだろうなって、不安になるんだよ」
そんなこと、今更気付いたのか、と私は呆れたが、口には出せなかった。姫奈は言う。
「ねぇ、離れてもたまに電話してもいい? 凄い情けなくて愚図愚図な長電話かもしれないけど、こんな相談できるの……真理ちゃんだけだし」
「……分かった。いつでもかけておいで」
複雑な気持ちがないわけではなかったが、親友に頼られるのが嬉しくないわけもなかった。そんな会話が終わっても、信也が戻らす、姫奈は「ゲロしてるのかな?」と少しだけ明るさを取り戻して笑っていた。すると、スマホに誰かからメッセージがあることに気付く。
『適当にごまかしてトイレの方にきて』
それは信也だった。姫奈の方を見ると、無邪気に「美味しいね」とサラダを食べている。たぶん、大丈夫だ。
「ごめん、なんか知り合いから電話きた」
「えー、あまりに一人にしないでね」
私は微笑み、トイレの方に行くと、信也が手招きをしている。男子トイレの前まで行くと、彼は突然私の手を取って、中に引き込んだ。そして、素早く鍵をかける。
「ごめん、真理ちゃん」
「な、なに?」
動揺する私に、信也は頬を赤く染めて言う。
「卑怯で最低なことしてるってわかっているけど、お願い。ハグだけ、させて」
「……酔ってるの?」
狭い空間で向き合う私たち。これだけ信也と近い距離は初めてだった。
「少しは酔っているけど、本気だよ。俺、ヒメのことは大事なつもりだけど、真理ちゃんにもう会えないって思うと……」
私が絶対に考えないようにしていたことを、信也も考えていた。たぶん、やっぱり、私たちは分かり合っているのだ。心の底から。
「いいよ」
泣き出しそうだった信也が、少しだけ目を見開くと、小さく頷いてから私を抱きしめた。こんなに温かいモノなんだ、と私も彼の背中に腕を回す。
「本当にごめん。だけど、真理ちゃんのことも凄い好きなんだよ、俺」
「……うん、ありがとう。信也の周りには、良い人はいっぱいいるだろうから、一人だけしか愛しちゃダメっていうのも、難しいんだろうね」
「そうじゃない。真理ちゃんは本当に特別なんだ」
少し体を離して、私たちは見つめ合う。信也が寄せてくる唇を私は拒まなかった。触れる。唇だけではない。信也が求めるままに、私は体を許した。
溶けそうになる。このまま混ざり合いたいと思った。一つの体になってしまいたい、と。私と信也なら、それができる。心の底から求め合う二人なら、引き裂けないくらい一つに。
そして、秘部に彼の指が触れたとき、私は吐息と一緒に言葉を漏らした。
「するの……?」
すると、信也は小動物に噛みつかれたように震えてから、体を離した。
「ごめん、調子に乗りすぎたよね」
そういう意味ではなかった。だけど、彼には人格を疑うような響きに聞こえたらしい。それから、私が先に戻り、姫奈に「遅かったよー」と拗ねられながらも、何もなかったように振る舞う。少したってから信也も戻って、飲みすぎた、と言って顔を歪めたりしていた。
「ほら、大好きなコーラでも飲んで酔いを醒ましなよ」
「うん、ごめん。コーラ注文してください」
二人のやり取りを眺めながら、感付かれているのでは、と思ったが、それからの姫奈もいつも通りで、ただ楽しい夜を過ごしているようだった。ほっとしながらも罪悪感は拭えない。
でも、忘れてしまえるはず。だって、この日を境に私たちは離れ離れ。大人になって、それぞれの道を歩くのだから。そう思っていた。
一年経って、私は少しずつ信也について気持ちを整理できていた。仕事もそれなりに忙しく、このまま遠い過去となるのだろう、と思っていたのに……姫奈から電話があった。
「もう私分からなくなった」
「どうしたの?」
私は確認しながら、自分の胸がわずかに高鳴っていることを誤魔化す必要があった。姫奈は言う。
「信也のこと分からない。ううん、信也に言われるの。お前に俺の何が分かるんだ、って。ずっと一緒にいて、全部分かっているつもりだったのに、私は何を分かってあげられないんだろう」
涙ながらに語る彼女だが、私はその問題を一言で片づける自信があった。才能だよ。これを言えていたら、何かが変わっていたかもしれないが、私は姫奈の言葉に耳を傾けることに徹した。
「私、信也が本当に好きなんだ。信也が私の人生そのもの。たぶん、もっと好きな人が現れることはないし、失うことがあれば……おかしくなっちゃうと思う」
そんなことはない。否定したかった。だって、彼女は信也の本当を知らないのだから。理解していないくせに「本当に好き」は、純粋な気持ちであっても否定されるべき嘘なのだ。
「ごめんね、暗い話ばかりで」
姫奈は少し落ち着いたのか、昔のような明るさを取り戻して、こんな話もした。
「信也って昔からコーラばかり飲んでるじゃん? だから、健康に悪いと思ってさ、手作りでレモンスカッシュ作ってあげたの。レモン汁とハチミツを炭酸水に入れただけの簡単なやつだけど。そしたら、世界一おいしいって喜んじゃってさ。土日、私が仕事のときも自分で作れるように教えたんだけど、あまり飲んでる様子はないんだよねぇ」
なんだ幸せそうにやっているじゃないか。私は自分の中にあったほのかな期待を浅ましく思った。それから、月に一回ほどのペースで姫奈から電話があった。内容は毎回同じ。信也を失えば自分は生きていけない、と繰り返すのだ。
大丈夫。姫奈はすぐに違う人を見つけられるよ。だって、信也である必要はないんだから。
……はっきりと言いたいのに、やっぱり言えない。私もそんな自分を繰り返した。
姫奈の電話に少し疲れを感じていたころ、私はネットで偶然見つけてしまった。信也が配信サイトに上げたのであろう音源を。彼の音楽は変わらず私の心を動かし、何度も繰り返し聴きたいと思った。何度目か分からない、再生ボタンを押したとき、そこにコメントが残せるのだと気付く。
『この曲聴くと、今も夜のファミレスで一緒にいるみたい』
震える指でコメントを残して、すぐに正気を取り戻す。何をしているのだろう。私は彼からの連絡を待っている。いや、誘っているのではないか。削除した方がいい。そう思いながらも、できなかった。今なら連絡が来る。信也も私を求めているはずだ。そんな確信があったのだろう。
でも、連絡がきたとしてどうする? 信也は姫奈の……親友の大切な人なのに。それでも私はコメントを削除しなかった。信也が気付かないことだってあるはず、と自分に言い訳をして。
そのまま忘れればよかったのに、私は例の配信サイトを見てしまう。私のコメントに返信があった。内容は一週間後の日付だけ。その意味は考えるまでもなかった。
「真理ちゃん、久しぶりだね」
二年ぶりに会った信也は少しだけ疲労の影が濃く出ているように見えた。それからは多く語るほどのことはない。私の醜い裏切り。汚い男女の欲望が重なるだけなのだから。
こんな日々が続いていいわけがない。いつかは痛い目にあう。そう思っていても、やめられることなく、ただ罪が明るみに出ることを恐れる日々が続けた。そして、ある日の夜、姫奈から電話があった。
「真理ちゃん……私、実家に帰ろうと思うんだ」
「何か、あったの?」
分かっている。信也が決意したのだと。二人の間でどんな会話があったのか分からない。姫奈が私の裏切りを責めるために電話をかけてきたことだって十分にあり得るのだ。しかし、彼女はただ疲れたとだけ説明した。
「たぶんね、私がどんなに信也を好きでいても、一番求めていることは与えられないんだなって、十分に分かったから」
「でも、帰って……どうするの?」
「分からない。何もないよ。居場所なんてどこにもないから、唯一帰れる場所に帰るだけ。だって、もう私の人生なんて……終わったようなものだからさ」
そのあとは、他愛のない慰めを並べた。後ろから刺されるように、思わぬタイミングで信也のことを言われるのでは。そう思ったが、最後まで彼女は私に親友として語り続けた。
「じゃあね、真理ちゃん。もう会うことはないと思うけど」
「私も年末とか実家に帰ることくらいあると思うから」
そのときは会おう、とは口が裂けても言えない。そして、姫奈が私にかけた最後の言葉はこれだった。
「大丈夫。安心して、もう電話もかけてこないから。……元気でね」
そして、唐突に電話が切れた。嫌な感じだった。知っている。そう言っているようにも思えたし、ただ何もかも忘れたいだけのように思えた。
ただ、十分、二十分と時間が経過すると私の中で喜びが膨らんで行った。これで、信也と一緒になれるのだ、と。
私が望んだとおり、半年もしないうちに信也と私は一緒になった。信也は転職して東京を拠点としたのである。昼間は働いて夜は一緒に過ごす。そして、週末は彼の曲作りを見守った。むしゃくしゃをコーラで流し込みながら、時間をかけて作る彼の曲はやはり美しかった。
このまま、結婚して幸せになれるのだろうか。たとえ彼の夢が叶わなかったとしても。片隅の罪悪感を意識しながら、私は明るい未来を想像する。きっと大丈夫だと言い聞かせて。
「真理ちゃん、見てよこれ」
信也との同棲も日常になって久しくなった頃だ。健康診断の結果を信也が見せてきた。
「ここの数値悪いんだよね。……甘いものが原因じゃないかって」
「コーラだね、絶対」
「マジかよ。俺、コーラ飲まないと曲作りできないよぉ」
「病気になったら、曲作りどころじゃないから控えようね」
「うわぁ……最悪」
コーラを控えるようになってから、信也の曲作りは冗談みたいに難航した。
「やっぱり、あれが俺の燃料だったんだ……」
酷く落ち込む信也に、私は何とかしてあげられないかと考えると、姫奈の話を思い出した。簡単なレモンスカッシュで喜んでくれる。そんな話だ。
「レモンスカッシュ、作ろうか?」
私が言うと、信也の表情が一瞬だけ凍ったように見えた。気のせいだったろうか。彼はすぐに微笑んだ。
「マジで? 美味しそう」
炭酸水とレモン汁、それからハチミツも揃っていた。雰囲気を出すためにストローを……と思ったが、それは買った覚えがない。
「ストローはいらないよね?」
いらない、と答えると思ったのに、信也は意外な言葉を返してきた。
「あ、昔買ったやつが残っているはず。キッチンの下の戸棚」
「えー、いつのやつなの?」
「いいじゃん、ストローなんて腐るわけじゃないし。もったいないだろ?」
キッチンの下を探すと、ビニール袋に詰め込まれたストローの束を見つける。私はビニール袋から一本だけストローを取り出すが、それは丁寧に紙の箸袋に入れられていた。なんでこんなことを。疑問があったが、箸袋からストローを出してみると、一緒に何かが滑り出た。ひらひらと床に落ちたそれを拾い上げて、私は思わず声を出した。
「ええっ」
「どうしたの?」
「……なんでもない!」
作業を再開した信也を確認してから、私は手にしたメモ用紙らしきものをもう一度見る。そこには女の字でこう書かれていた。
『君の奏でるメロディ いつか世界中に響きますように』
姫奈の字だった。私は何が起こったのか理解する。当時の姫奈の仕事はシフト制で、土日も家を出ることがあった。そんなときは、信也が自分でレモンスカッシュを作って、このストローを使うだろうと考えていたのだ。曲作りに行き詰ったタイミングで、応援メッセージを見てもらえるように、と。
見てはいけないモノを見た。私はすぐにメモ用紙を指で丸めて、ゴミ箱に捨てる。何も知らずレモンスカッシュを飲んだ信也は笑顔だった。
「うまっ! 真理ちゃんが作ったレモンスカッシュ、世界で一番おいしいものかも!」
「……そう?」
本当にそう思っているのだろうか。私は動揺を見せないよう、すぐにストローを戸棚の奥に隠した。信也がいないタイミングで、全部処分してしまおうと思いながら。
「あー、コーラが飲みたいなぁ。いつもの作ってくれないかなぁ」
それなのに、私はストローを処分できないまま、何度も週末を過ごしていた。そして、この日も例のメッセージを見てしまう。
『誰よりも君を応援する!いつか絶対最高の音楽を』
また次の週も。
『いつか世の中が君の才能に気付く日が!もうひと踏ん張りだ』
また次の週も。
『最高のメロディが君の心に浮かびますように』
何をしているのだろう。早く捨てればいいのに、私はそれを少しずつ確かめずにはいられなかった。そんな日々を送る中、私は偶然に同じ高校の同級生に出会う。久しぶり、何をしているの、という挨拶の後、彼女は言いにくそうに聞いてきた。
「ねぇ、有郷姫奈ちゃんって覚えてる? 仲良かったよね」
「……うん」
「今どうしているか知ってる? 仲良かったよね?」
「今は全然会ってないから、知らないんだ。何か……あったの?」
同級生は噂話を楽しむように教えてくれた。
「引きこもって、酷い状態みたいでさ。たまに家の中から奇声が聞こえてきたり、夜中にだらしない格好で徘徊したり、たぶんまともじゃないって話だよ。あんなに可愛らしかったのに、体型も変わっちゃったみたいでね。ニヤニヤしながら歩いて、変質者みたいらしいよ」
「そうなんだ」
その同級生が、どのような形で話を結んだのか、少しも覚えていない。私は帰りの電車に乗りながら、ひたすら姫奈との電話を思い出していた。信也と別れたら、何もかも終わる。そんなようなことを言っていた彼女を、私は心の中で否定していた。
それがどうだ。彼女は本当に崩壊してしまったらしい。責任の一端は私にあると思うと、心が重たくて仕方がなかった。
それからしばらくして、私は熱を出して会社を休む日があった。信也は心配して休みを取ると言ったが、大したことはないと断り、私は久しぶりに一人で過ごした。熱のせいか喉が渇いたが、何もない。仕方がないから、レモンスカッシュを飲もうと思ったのだが、ストローを使う気はなかったのに、つい癖であのビニール袋を取り出してしまった。
そこで止めることもできたはずだ。それなのに、私はあのメッセージを見なければ、と思った。いつものように箸袋から恐る恐るストローを引き抜くと、やはりいつものように、メモ用紙が滑り出して、ひらひらと舞いながら落下した。それを拾い上げて、私は見てしまった。
『真理ちゃんへ。信也をよろしくお願いします』
しばらく動けなかった。呼吸も忘れて、ただ立ち尽くした。彼女は、知っていた。やっぱり、姫奈は気付いていたのだ。そう思うと、私が都合よく捉えていたことが、一斉にひっくり返った。
姫奈は私と信也が二人でファミレスで会っていたことを気付いていない。
姫奈はあの夜、私と信也がトイレでキスをしていたなんて気付いていない。
姫奈は私が配信サイトで信也の音源にコメントしたことは気付いていない。
姫奈は私と信也が頻繁に会って、そういうことをしていたなんて気付いていない。
姫奈は私が誰よりも信也を理解しているって密かに思っているなんて気付いていない。
姫奈は、私に見下されているなんて、気付いていないはずって……。
立ち尽くす私の中に刻まれていく、彼女のメッセージ。すぐそばで、彼女が私に囁くようだった。
『君の奏でるメロディ いつか世界中に響きますように』
『誰よりも君を応援する!いつか絶対最高の音楽を』
『いつか世の中が君の才能に気付く日が!もうひと踏ん張りだ』
『最高のメロディが君の心に浮かびますように』
『真理ちゃんへ。信也をよろしくお願いします』
暗闇の中で、虚空を見つめて無意味な笑顔を浮かべる姫奈が、私の背後に立っている。忘れはしない。お前がそうさせたのだ、と。振り返った私は、姫奈の幻を見て悲鳴を上げる。泣きじゃくりながら、ただ許してくださいと、何度も叫んだ。だけど、私を見下ろす姫奈は何も言ってくれなかった。
それから、私は信也の曲作りを応援できなくなってしまった。彼からアドバイスがほしい、感想がほしいと言われることもあるが、分からないとだけ答えている。なぜなら、信也の曲を聞くたびに暗闇で笑う姫奈の姿が頭の中に浮かんでしまうようになったからだ。
「あー、真理ちゃん。いつものやつ飲みたいなぁ」
それなのに、信也は変わらず週末はレモンスカッシュを求めてくる。ストローからいつものメッセージが。
『貴方と貴方が作る音楽が好きだと伝えたい』
あの一枚を引いて以来、彼女から私へ向けたメッセージは見ていない。もっと早く私は決断すべきだったのだろう。こんなメッセージを確認して、信也が自分のものになったのだと実感を重ねる前に、すべて捨ててしまうべきだったのだ。
私はできるだけ無感情にメモ用紙を指で潰して、ゴミ箱に捨てる。そして、何事もなかったようにグラスを信也の前に置くと、彼はいつものように喜んだ。
「やっぱ、真理のレモンスカッシュは世界一だわ」
そんな信也に、私は薄く微笑んで見せる。
「本当に世界一?」
「うん、世界一!」
本当に世界一美味しいと言えるのだろうか。毒のように苦い罪の味はしないのだろうか。私はレモンスカッシュを飲み干す信也を見て、覚悟を決める。それでも、幸せになるのだ。ならなくては、ならないのだ。姫奈の気配を感じながら空になったグラスを取って、キッチンへ向かった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
長編も書いているので、よかったら見にきてください。
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