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冒険家、登場

 春はなんとか訪れた。


 危ないあぶないと言われながらも、枸杞くこはこの春、地元の総合大学に無事合格した。


 もともと田舎の広大な林を切り開いて建てた大学で、枸杞の家からは歩いて15分。これといった観光資源もなく、園芸用の土で有名な地方都市。枸杞の家も造園業を営んでいる。

 庭師だった父親は、樹の剪定中に梯子から落ちたのが元でこの世を去った。立派な殉職である。仕事が大好きだったお父さんらしい、と家族は通夜で泣きながら語り合った。

 父の跡を継いだのは長男の万作。身体は小さいが父親代わりを自負している。次男の海棠かいどうは教師、三男の蘇芳すおうはサラリーマン。遠方で就職した三男は家を出て、現在は母親と万作と海棠、末っ子である枸杞の4人で暮らしている。


 “枸杞”は杏仁豆腐に添えられる、あの赤い実の名だ。夏の終わりに紫色の花が咲き、秋に滋養のある赤い実を結ぶ。


 4人の兄妹の名は庭師だった父親がつけた。それぞれの誕生月に花が咲く木の名前をとって。




「枸杞、今日は天気いいから、外でおべんと食べよっか」

 友人の瑞穂がランチバッグを片手に声をかける。彼女とは入学試験のとき、席が隣になったのがきっかけで仲良くなった。まだ入学して1ヶ月にもならないが、ウマがあってずっとつるんでいる。

 生まれついての都会っ子である瑞穂は、同じ高校の先輩である恋人を追いかけてこの大学に来た。彼を訪ねて初めて大学に来たとき、田んぼや林の向こうに、どーんと現れた白亜のキャンパスを見て、

『砂漠の中の蜃気楼みたい』

 と、思ったそうだ。こんな田舎の大学とは夢にも思っていなかったらしい。

「今日の枸杞のおべんと、なあに?」

「3色そぼろ弁当。上の兄貴は嫌がるんだけど、私は好きなんだ」

 仕事先で食べる兄たちの分まで弁当を作るのは枸杞の仕事。父が亡くなり多忙になった母を助けるため高校のときから続けている。栄養バランスには気をつけているつもり。なんと言っても枸杞はこの春から生活科学部食物栄養学科の学生なのだから。


 ふたりは中庭のベンチでランチを広げた。桜は散ったがまだまだ春は爛漫。ベンチの周りにも数多あまたの草木がそれぞれの花の色を競っていた。


「瑞穂、これ何だか知ってる?」


 枸杞が足元に咲く紫蘇に似た小さな薄紫の花を指差した。瑞穂はどれどれ、と足下を覗き込む。

「知らないよ。何」

「ホトケノザ、だよ」

「へえ、これが? 春の七草のヤツ?」

「だと思う。これね、吸うと甘いんだ」

 枸杞は箸を置くと、ラッパのように突き出した指先ほどの小さな花を摘んで、ちゅっ、と吸ってみせる。

「えっ。汚くない?」

 ぎょっとする友人に枸杞は笑って、もうひとつの花を取って差し出した。

「都会っ子だなあ。ほら、甘くておいしいよ?」

 それでも瑞穂は、うえっと顔をしかめ、拒絶の印に手を振る。

 と、そのとき。


 ——がさがさがさっ!


 ベンチの脇の植え込みから大きな音がしてふたりは飛び上がった。

「ひゃあっ!」

「何っ!」


 こんもり茂るドウダンツツジの陰から、膝をついて這うように出てきたのは、もしゃっとした髪の眼鏡をかけた男だった。


 年の頃は枸杞と同じくらいか。カーキ色のサファリシャツにジーンズ、黒いボディバッグは斜めがけ。片手に金属製のヘラと茶色い封筒を持ち、服や髪の至る所に草や木の葉がくっついている。

 これでサファリハットでも被っていれば、どこかの冒険家が秘境から出てきたみたい。驚かされたのも忘れ、枸杞はちょっと笑ってしまった。

「脅かして悪い」

 彼は一応謝ったが、その表情は全く済まなそうではなかった。

 立ち上がって身体についた草や葉を払うと、くるり、と枸杞のほうを向く。

 まなじりがすっと上がった奥二重。

 眼鏡の奥から、射るような視線が向けられた。

(えっ? 私、何かした?)

 戸惑いを隠せない枸杞に、男は平然と言い放った。


「君さあ、これ、ホトケノザじゃないよ」


「へっ?」

「ここにちょうど『2種類』並んでるから、見て」

 彼が金属のヘラで示したのは、先ほどの小さな紫の花が集まっている場所。2種類と言われても、枸杞の目にはどれも皆同じに見える。

 男はその中の1本をつまんだ。

「これがホトケノザ。茎を包み込むような形の葉が、仏の蓮華座に似てるからホトケノザ。それで君が吸ったのはこっち」

 今度はその隣の、同じような草の葉っぱの下にヘラを差し入れ、乗せるようにした。

「ほら、葉っぱが鋸歯状きょしじょうで、尖端に向かって尖ってるだろ」

「きょ、きょしぞう?」

 うまく口が回らない。

「鋸歯状。のこぎりの刃みたいにぎざぎざしてるってこと。しかも葉の元が少し紫がかってる。これはヒメオドリコソウ」

「はあ」

 よく見れば確かに違うが、ちょっと目には見分けが付かない。彼はいつからどこで枸杞の様子を見ていたのか。唖然とするふたりに構わず、淡々と講釈は続く。 

「それともうひとつ。春の七草のホトケノザはコオニタビラコっていう別物だから。このホトケノザは食べられない」

「そ、そうなんだ、ごめん」

 知ったかぶりしていた自分が恥ずかしい。思わず真っ赤になる枸杞の脇で、瑞穂が呆れたようなため息をついた。

「さすがだね。でも今度からは知らんぷりしてたほうがいいよ。初対面でいきなりそこまでマニアックに注意されたら、確実に女子はどん引きだから」

 その毒舌ぶりから察するに、瑞穂は彼を知っているようだった。

「お友達?」

「っていうか、章くんの学部の後輩。高校も一緒だったんだ」

 章は、例の瑞穂が追いかけてきたという恋人で、同じ大学の2年生だ。学部の後輩なら、彼は、章と同じ応用生物科学科の1年生ということになる。

「女の子にだって、いっつもこの調子なんだから。モテるわけないわ」

 こき下ろす瑞穂に、彼は、うるせえ、と呟いて首の後ろを掻く。


「え、モテないの?」


 枸杞は思わず正直に呟いてしまった。

 切れ長の奥二重、きれいな鷲鼻、柔らかそうな唇。

(悪くないけどな。結構背だって高いし)

 ところどころ葉っぱがついているのはご愛敬。庭師の兄で見慣れているから、気にはならない。

 “博学”や“眼鏡”も、実はインテリに弱い枸杞にとってはポイントが高かった。

(うん、悪くない)


「へえ、枸杞は、こいつがモテると思うんだ?」

 瑞穂が意外そうに目を見張ると、その言葉に彼が反応した。


「『枸杞』?」


 いきなり呼び捨てて、無遠慮に顔を近づける。


「君が、『枸杞』?」


「はあ、私が岡部枸杞おかべくこですけど」

 恐る恐る答えれば、相手は、ぱあっと顔を輝かせた。

「そっかー。新入生名簿で名前見てさ、どんな子だろって、ふうん、君が枸杞かあ」

 幻の生き物にでも遭遇したかのように、上から下までじっくりと観察される。怪訝そうに身を引く枸杞に、ああ、ごめん、と彼は軽く頭を下げた。


「俺は高原麦人たかはらむぎひと。漢字は、高い原っぱ、穀物の麦に人ね」


 高原麦人。

 風渡る麦畑が見えたような気がして。


「いい名前」


 思わず呟いていた。

「どうも。君もね」

「そうかなあ。珍しいとは言われるけど、あんまりいい名前とは」

「何でさ。いい名前じゃん、『枸杞』」

 掛け値なしに褒める麦人を、枸杞は胡乱げに見つめた。


 枸杞の木は、棘のあるひょろりとした低木だ。夏の終わりから咲く紫色の花もごくごく小さい。

 亡くなった父には申し訳ないが、たったひとりの娘にどうして枸杞という名を付けたのか、理解に苦しむ。

 山の春を告げる万作、気品に満ちて咲き誇る海棠、色鮮やかに目を引く蘇芳。

 兄たちの木に比べ、地味でちんまりした枸杞の花。

 同じ棘のある植物でも、薔薇のように美しい大輪の花は咲かない。小さく赤い実も、杏仁豆腐の彩りに使われるのがせいぜいだ。ある意味、小柄で平凡な枸杞の容姿そのものとも言えるけれど。

 極めつけは、思春期に知った枸杞の花言葉、「お互い忘れましょう」。悲恋の象徴のような花言葉は、多感な乙女心を凹ますには十分過ぎるインパクトだった。


 そんな枸杞の傍らで、麦人はいそいそと手にしていたヘラと封筒をしまっている。今度は鞄から“除菌用”と書かれたウェットティッシュを取り出し、指の一本一本を何度も拭き取った。さらに小さなスプレーを出し、手のひらに吹き付けて指の間まで丹念に擦る。

(もう今日の『冒険』はおしまいなのかな)

 ぼんやりその様子を見ていると、きれいになった彼の手が、枸杞の目の前にさっと差し出された。


 ——えっ、握手?


 ためらっていると、促すようにさらに手は突き出してくる。思わず勢いで握ってしまった。


「宜しく。これで俺と君は友達、っと」


 拭きたての手は大きく、ひんやりとしていた。彼は大きく振るようにして手を離すと、人なつっこそうに笑った。


「そんでさ、それひと口ちょうだい?」


 彼が指差したのは枸杞の弁当箱だった。

 鶏挽肉と卵、ほうれん草の三色そぼろご飯と筍の煮付け、きんぴらごぼう。

「そぼろご飯なんて久しく食べてない。実はさっきから狙ってた。作ったの、君?」

「うん」

「すげーうまそう」

 褒められば悪い気はしない。

「何言ってんの、ずうずうしい! ちょ、枸杞も、その気にならない!」

 瑞穂が麦人をたしなめつつ、枸杞の腕を押さえて制するが。

「その、肉と卵んとこ」

 麦人は構わず口を開ける。

(ええっ、まさかの『あーん』?)

 でも何だか、その顔が雛鳥みたいにかわいくて。

 気がつけば枸杞は箸で卵と肉の多い所をすくい取っていた。


 ——ぱくっ。


「うまっ」


 麦人はするっと枸杞の手から箸を奪い取った。

「これも味見していい?」

 返事を待たず、きんぴらごぼうと筍もさっさと摘まれた。

「うん、うん」

 もぐもぐとご機嫌な顔で食べ終えると、例のスプレーを箸にしゅっと掛け、ティッシュで拭き取る。

「おいしかった。ごちそうさま! 消毒しといた。これ食器に使っても安全なやつだから」

 箸を返しながら、麦人は含みのある笑みを浮かべた。


「ま、その辺に生えてるヒメオドリコソウよりは、俺の口のがきれいだと思うけど?」


 ちょっと悪戯な視線に、どっきり。


「じゃ、またね、枸杞」

 麦人の姿はあっという間にドウダンツツジの植え込みの向こうへ消えていった。


「何なのよ、もう!」

 瑞穂は悪態をつくと枸杞に向き直った。

「あいつ、ちょっと変わってるでしょ。あれで章くんと仲がいいんだよ。実家がご近所らしくて」

「ふうん」

「彼ね、高校のときからかなり有名な生物オタクなの。休み時間も理科室の顕微鏡覗いてたり、草花取って来ちゃ標本作ったり。その彼が夏休みに必死にバイトして買ったのが、『槙田原色植物大図譜』っていうすっごく分厚い3冊セットの豪華本で」

「それ、高いの?」

「1冊3万は下らないらしいよ」

「3万!」

「しかもそれが3冊セット。10万だよ? 高校生がバイトまでして買う? ほかに使い道あるでしょ」

(ふうん、きっと頭がいいんだろうなあ。なのに、そぼろ弁当に弱いなんて、おかしいの)

 思い出し笑いをしながら、彼が返してくれた箸を持つ。

「ねえ枸杞、そのお箸、気持ち悪くない? どこかで割り箸もらってくる?」

 案外瑞穂は潔癖なんだ、と暢気に枸杞は思う。なぜか彼にはあまり抵抗を感じず、気がつけば自分の箸を差し出していた。

(私が鈍感なのかな?)

 でも、あの『あーん』には何とも抗えなかった。

「ありがと、瑞穂。大丈夫。ヒメオドリコソウよりはきれいだって、麦人くんが」

「なに真に受けてんの。素直だねえ」

 はは、と笑いながら筍を摘んだ箸を口に運ぶ。

 間接キスは、ほのかなアルコールの香りがした。




 それからというもの、麦人はランチタイムに枸杞の前に現れては、弁当の味見をするようになった、しかもマイ箸を持って。

「確信犯だよね」

 その傍らで昼食をとる瑞穂は呆れていたが、枸杞自身はまんざらでもない。あまり感想を言ってくれない兄貴たちと比べれば、毎回大袈裟なくらい喜んで食べてくれる麦人のほうが、ごちそうした甲斐もあるというものだ。最近では彼を見越して、弁当の中身を少し多めに持ってくるまでになった。

 麦人はひととおり試食を済ますと、満足げにまた茂みの中へ消えてゆく。

 何をしているのだろう。

 枸杞は彼の行動が気になって、とある昼休みにとうとう訊いてみた。

「ね、いつも校庭でがさごそ、何やってんの?」

「『がさごそ』って」

 麦人は苦笑した。

「主に草花の採集かな。這いつくばってるときは、大抵、苔を採ってる。ほら、初めて会ったときも、君たちのベンチのすぐ後ろで苔採ってたから、ヒメオドリコソウを摘んだ枸杞の手が見えたんだ」

 なるほど。しかし、苔とはまた渋い趣味だ。

「ほら、これがさっき採ったやつ」

 彼は先日も持っていた茶色の封筒を出した。それは封筒といっても紙を折り畳んであるだけのもので、採集場所、日時などが書かれている。

 中身を零さぬようにそっと開く。

 なるほど、土の欠片と共に、しっとりした緑の苔が現れた。

「きれいだろ。俺は苔も好きだけど、苔の中にいるクマムシを探すのがまた好きで」

「ムシ!?」

 その声を聞いて、瑞穂がひい、と叫んで後ろに下がった。

「私、ムシだめ。ごはん食べられなくなるから、話はふたりだけでして。わたし章くんのとこで食べる!」

「おい!」

 瑞穂は速攻で弁当をしまうと、猛スピードで逃げて行った。

「なんだ、あれ」

 麦人はあっけにとられて小さくなっていく瑞穂の背中を見送った。

「瑞穂、ムシが大っ嫌いなの」

「ムシったって、クマムシは顕微鏡でしか見えないのに」

「苔の中にいるんだ?」

「うん、こういう丈の短い苔の中でよく見つかるね。すっごい生命力で、乾燥したまま苔の中で100年でも生きてる。シャーレの中で苔をほぐして、水をかけてほっとくと出てくるんだ。のそのそ歩く姿が熊みたいだから、クマムシ」


 彼の手に載っている苔は、毛足の短い絨毯のようになめらかで水を含んできらきらしている。枸杞はこの小さな湿った森の中、のそのそと歩くミクロなクマを想像した。


「なんか……かわいいね」

 賛同する枸杞を見て、麦人も嬉しそうに微笑んだ。


「うん、かわいくっていつまでも見ていたくなるよ」


 くしゃっと細い目をさらに細くして笑う、彼の笑顔こそかわいくて。

 不覚にもときめいてしまい、枸杞は慌てて話題を変えた。

「苔かあ。うちなんか造園業やってるから庭中苔だらけだよ。元は死んだ父が作った庭なんだけど、あとを継いだ庭師の兄が、よそで間引いてきた木を植えたり、おっきい庭石もらってきちゃったりするんで、もうジャングルみたい」

 うっかり父親のことを口にしてしまったが、他界したことはさらりと流した。同情されるのも嫌だったし、相手も困るだろうから。幸い麦人も追求はしなかった。

「枸杞ってきょうだい、いる?」

「え、何、突然。兄が3人で私が末っ子だけど?」

「へえ、4人兄妹。名前は?」

「え?」


「それぞれの名前。家が造園業で末っ子の名前が“枸杞”だとすれば、兄貴たちも植物の名前かな、と思って」


 眼鏡の奥の瞳が煌めく。さすが生物オタクだ。

「うん、そのとおり。兄妹の名前は生まれ月に花が咲く木の名前で、父がつけたの。長男が万作、次男が海棠、三男が蘇芳、で末っ子が私」

「ということは、枸杞の誕生日は9月あたりか」

「うわ、すごい。そう、9月1日」

 目を丸くする枸杞に、麦人は柔らかい眼差しで微笑んだ。


「それにしても、皆それぞれいい名前だよなあ。素敵な、お父さんだ」


 彼の声は、いつになく穏やかで。

 不意打ちに泣きそうになり、うつむいて涙をこらえた。


 枸杞は父が好きだった。

 自分の仕事に誇りを持ち、体力を惜しまず情熱を傾けていた父。

 しかしひとたび仕事を離れれば、末っ子の枸杞を目に入れても痛くないほどかわいがってくれた。


 “岡部造園 樹医 岡部敬造”。


 枸杞の家の玄関には、父親の名を記した欅で作った看板が今でも掲げてある。その看板に恥じないよう、兄妹は皆懸命に生きてきた。


 そんな気持ちを汲みとるかのように、麦人はぽんぽんと軽く枸杞の頭を叩く。

 ただそれだけなのに、熱いものがこみ上げて。ぽろり、と零れ落ちた大粒の涙を、慌てて指で拭う。

 頭に感じる手のひらは大きくてあたたかった。


「そうだ」

 彼は枸杞の頭から手を離すと、鞄を探りだした。とたんに頭がすうすうして、枸杞はちょっと淋しくなる。

「今日はいいものを持ってきたんだった」

 麦人は国語辞典くらいの大きさの箱を取り出した。


「いつもご馳走になってるお礼」


 箱を開けると梱包材に包まれた4個の小瓶が入っていた。

 中身は、ひとつひとつ微妙に色が違う、金色から琥珀色の液体。

 梱包から出すと瓶には手書きのラベルが貼ってあり、それぞれ『そば』、『みかん』『栗』などと書かれていた。彼はひとつの瓶を取り出し、高く掲げた。陽光に透かされて、とろりとした液体が輝く。


「俺、いろんな花のはちみつを集めてるんだ。ちょっとだけ枸杞にお裾分け」


 食パンが入った袋から、ひと切れ、枸杞に手渡す。

「良かったら、このパンにはちみつつけて」

 麦人はよくアイスに付いているような木のスプーンを4本取り出した。


「わあ、利きはちみつだ!」


 さっきまで泣いていたのが嘘のように、枸杞は高揚して麦人の手元を眺めた。

「それぞれに違った風味があるから、まあ食べてみて」

 枸杞に渡したパンに、麦人はまず黒っぽい『そば』の蜜を垂らす。恐る恐る口にいれてみた。

「……うん、ほんのちょっと苦いけどコクがある。後味が黒砂糖か漢方みたい?」

 麦人がそのあとも次々と蜜をパンに落としてくれる。

「栗も苦みがあるけど、香ばしい。木の香りがする感じ?」

「みかんはたしかにフルーティだね! ちょっと酸味みたいなのも感じるし」

 枸杞の素直な反応に麦人も顔を綻ばせる。そして最後にとっておきの瓶を出した。


「これは、“枸杞”のはちみつ」


 枸杞がその瓶を見ると確かに“枸杞”と書いてある。

「あんなちっちゃな花から、はちみつが?」

「ちっちゃくたって、たくさん咲けば蜜は集まるよ。そばも栗も、ひとつの花は小さいだろ。西洋みつばちには“訪花の一定性”っていうのがあって、これって決めたら同じ種類の花に通う。仲間にダンスで『ここだよ』って花のありかを知らせて、足繁く通いつめる。『枸杞ー、枸杞ー』って。一途だろ?」


 目を覗き込んで微笑む麦人に、ついどきどきして赤面してしまう。


「このはちみつはね、中国の西北、寧夏ねいかっていう歴史ある枸杞の産地でとれたんだ。枸杞の木は乾燥に強いんで、寧夏よりさらに北、なんとあのゴビ砂漠にも枸杞畑があるんだってさ。乾いた土地でも青々と葉が茂って、小さい紫の花が一面に咲く。黄色い砂漠の中に、真っ赤な実が、だーっと鈴なりに成ったところは、壮観だろうな」


 荒涼とした土地に、赤々と実る枸杞。

 自分が褒められたようで、何だか勇気が湧いてくる。


「ほら、食べてみろよ」

 麦人はパンの上に枸杞のはちみつを慎重に垂らす。少し濃い目の琥珀色だ。

 恐る恐る口にしてみる。

「ん、甘みが強い。独特な後味がするね、ちょっと紅茶みたいな」

「チーズにもよく合うんだ。くせはあるけど、うまいだろ?」

 何だか自分がほめられているようでくすぐったい。


「枸杞のはちみつ、高級品だぞ。目にいいし、元気にもなるんだってさ。心して食えよ」


 はちみつが入った小瓶をそっと枸杞の手に握らせる。その柔らかな手つきに、父に名付けられたその名前ごと、大事に抱きしめられているような気がした。


「ありがとう、麦人くん。大事に食べる」

「おう」


 照れくさそうに頷く麦人が、なんだか頼もしくみえた。









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