考証シリーズ:石油の一滴、血の一滴
大日本帝国は石油が足りないから戦争に打って出たと言われる。
けれど、その本質はよくよく見ると石油が足りないのではなく、石油を運ぶ手段がそもそも足りていないということ、また、現場レベルでは兎も角、国政(官庁)や軍務官僚の水準では危機感が足りていなかったことにある。
1万トン及び準1万トン級タンカーは概ね20数隻程度が開戦前の主力油槽船として各方面から原油や石油製品を輸入していた。
で、先に示した通り、これらの船が1回の航海で得られる原油の製油後製品量は、ガソリンで零戦100機が毎日1回出撃して消費する1ヶ月半の分量。重油は大和型戦艦の腹を満たすギリギリの分量でしかない。
海軍の言い分である、毎時400トン(大本営政府連絡会議における永野軍令部総長の発言より)だったかを満たそうと思えば、10時間チョイしか保たないのである。
そりゃあ、海軍が渋る理由にもなるし、まして禁輸などされたら焦りを感じるほかない数字だと言える。
しかも、それを運べるタンカーは20数隻、しかも、それの半数近くを開戦前の時点で陸海軍は徴用している。つまり、単純に輸送能力は半減である。
もっとも、その頃にはABCD包囲網のお陰で原油を含む石油製品の禁輸が行われており手に入る状態ではないが。その上、日ソ中立条約で樺太油田の権益を失っている。
それでも、石油会社はあの手この手を使って迂回輸入などして最大限の努力をしているし、禁輸も徐々に行われたことで、手に入るモノを出来うる限りその状況下で得ていた。
だが、そもそもが必要とする燃料を得るためにはタンカーそのものの絶対数が足りなすぎるという問題があったといわざるを得ないだろう。
面白いことにその点を問題提起している戦後の学者や識者が多くないということだ。海運立国云々が米帝に喧嘩を売るなんて言語道断と宣う輩は数多くいるが、タンカーの絶対数の不足を挙げるものは皆無と言って良いのではないだろうか。
実際に本記事を執筆する上で参考にしたいくつかの文献でもそれらに触れていることは殆ど無い。
まして、護衛船団、南方航路を語る者が石油還送について語るとき、その多くは護衛のまずさや悲劇を語り、その本質であり重要な石油を輸送するタンカーそのものについて語ることはない。
そこで石油の一滴、血の一滴という戦前戦中の標語だ。
担当した者が意識していたかどうかはわからないが、事の本質の的を射ている標語を作り出したものだと感じる。
詳しく調べたわけではないけれども、数字を取り扱う商工省や企画院などの官僚が考えついたのだろうと思う。わかっているものにはどれだけ深刻なことであったのか、その危機感がこれを作り出したのだろうと考える次第。
無論、これら1万トン級タンカーが原油だけを運んでいたわけでもない。製油後のガソリンや重油を運んでいたことも確かであるが、それだとしても、原油精製で得られる重油換算でも2倍の量でしかない。1隻のタンカーが運べる重油の総量は所詮は大和型2隻分の量でしかないのだ。
これはトラック泊地で大和型から他艦へ給油していたことなどからも裏付けが出来る。大和を動かす代わりに他艦の燃料として賄う必要があったほど、タンカーの需要が切迫し徴用していた分では賄いきれていない証左である。
また、真珠湾作戦時でも帯同していたタンカーが数隻存在しているが、それとは別に艦内の倉庫や通路にドラム缶を積んで燃料補給にあたっていたことからもタンカー需要の逼迫を示す例となろう。(※これには二航戦の航続距離の短さや海上が時化ていることで洋上補給に難があったことも理由であるが)




