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世界は揺れているか


“理想郷を大地に降ろせ”――そう男は言った。

 

 卵はかき混ぜ過ぎないほうが、ふんわり焼ける。

 味付けは、みりんにお塩、そこにお酢をすこしだけ。

 師匠は卵焼きに関しては甘い派なんで、いつも、みりんは愛情的に、ちょっと多めにしてる。

 専用の四角いフライパンに油を引いて、強火で熱する――というか薪での調理に、火加減なんて簡単に言わないでくれるかな。

 ボクだって、そりゃつまみひとつでパッ、とかサッ、みたいに出来たらいいなとは思うけど、かまどでの調理は、そんなに簡単なもんじゃない。

 ちょっと目を離すと焦げ放題の、最悪、火柱がおっ立つくらい、危ないんだから。

 あ、おっ立つなんて……ボクったら、はしたない。……恥ずかしい。

 粗雑でガサツな男と暮らしてるせいだ。口癖が移ったんだ。

「よーし、ソッコーで、おっ立てろ!」

 とかなんとかかんとか、叫ぶし、あのヒト。ほんと、デリカシーがないっていうか。

 

 ボクだって、世間的にはそろそろ年頃の女のコなんだから、ちょっとは言葉遣いとか考えてほしいんだけど。

 お風呂上がりに全裸でうろつくのも、やめて欲しい。

 そのあと、どういう思いでボクがいるか、考えたことあんのか、あの男は。

 どんなに胸がドキドキするか、考えたことあんのか。

 そんなのもじもじ、ぶつくさ言ってたら、フライパンが煙をあげるくらい熱くなってた。

 いけないいけないっ。

 濡らしてよく絞った綿のふきんに、フライパンの底を当てて、粗熱をとる。

 それからそこに、溶いて調味料を合わせた卵を入れる。最初だけ、ちゃかちゃかっとかき混ぜて、スクランブルエッグ風にしたのを芯にするのが、うちのやり方。

 火に当てたり下ろしたり、粗熱を取ったりで火加減を変えて(薪は触らない。へたに触ると灰が舞ったり、崩れて火が弱くなっちゃう)、少しずつ巻き巻きを進めてく。

 これも安定した火力が得られるなら、どばっと入れちゃって楽勝なんだろうけど……直の火、それも薪を相手にするっていうのは、つまりそういうこと。

 そのうえ、もたもたしてると、薪ばかり消費して、たいへんなことになるんだから。

 なにより、みりん入りの卵焼きは、目を離すとすぐに焦げ焦げになっちゃうから気をつけなくちゃ。

 

 てふろん? なにそれ? フライパンは銅か鉄でしょ?

 

 まきまきまきまき、まきまきままき――よっし、いいかんじ!

 綺麗に拭いたまな板の上へ、ぽん。ちょっと粗熱をとるね? 

 そのままだと熱いし切りにくいし、じつはこの卵焼き、冷めた方が美味しいんだ。

 ボクの女のコ的愛情入りの特製なんだよ?

 お豆腐と新わかめのお味噌汁よーし、ぜんまいのクルミ和えよーし、梅干しよーし、ご飯は炊き立てがおひつに、もちろんよーし。

 あとは真鰯の丸干しをちょっと炙るだけっ。

 カンペキッ!!

 

 なんだけど、あーもー、どうしてあの男は起きてこないのか!

「師匠! ねえ、師匠! もう起きてくださいっ!! 起きてくださいよっ!! お天道さまが真上にきちゃう!! 起きろ、オッサンッ!」

 ボクは奥に向かって叫ぶけど……だめだ、返事すらない。昨日もろくでもない飲み方してたからなー、もうっ、ほんとに世話の焼ける!

「ボンサイ、ちょっと火だけ見てて?」

 グイッ! とかなんとかかんとか、全身苔に覆われてて緑色で頭に盆栽が乗っかった生きもの――ファッジ:ボンサイが返事してくれた。

 ほんと、こいつのほうが師匠なんかより、一〇〇倍生活の役にたってくれるよ。

 ごめんね、頼んだね、ボンサイ。

 

 そんなわけで、ボクは師匠の寝室に向かう。

 十四歳になった女子的には、ちょっと抵抗のある場所へ……向かう。

 

 で、まあ、そこに辿り着く前に自己紹介をさせてもらおうと思うんだけど。

 迷惑じゃないかな?

 ボクのこと、少しキミに知って欲しいんだ。

 だめかい?

 

 もちろん、ぎしぎしいう床板や、暖炉や囲炉裏やカマドから出るススと丁寧なふき掃除で飴色に変わった柱や、とにかく寝室に向かうあれこれを情感たっぷりに描写してもいいんだけど、たぶん、そっちよりは女のコとしてのボクを知りたいだろうと――つまりキミが必要としてくれている情報だろうと、ボクなりに考えたんだ。

 

 それに、こういう物語の商業的な鉄則として、開始からだいたい一パーセント以内に読者を物語に引き込めてなければだめなんだ、って誰かが言っていたのだけれど、そういう意味では主人公の名前が、そのボーダーラインを過ぎても出てこないこのお話は、どうかと思うでしょ?

 うん、ボクもそう思う。

 だから、遅まきながら主人公として名乗らせてもらう。

 ボクの名前はソラ。

 ソリチュード・フラクタル・ミレイ。

 あ、へんな名前だって、思ったでしょ? 違う?

 いいよ、取り繕わなくて。顔に書いてあるし。

 だいたいソリチュードって「ぼっち」って意味なんだ。ひどい名前だよね、ぼっちって。

 女のコに付ける名前じゃないと思わない?

「お前の両親が、お前に送った名前だ。大事にしろ」

 って、師匠は言うけど、正直、ほんとこの名前好きじゃない。

 まだ師匠の「ソラ」っていう愛称の仕方のほうが、ずっといい。

 だから、ボクのことはソラって呼んで?

 容姿やスタイルは、うん、まあそれなりかな、と思うし……性格は家庭的で、家事全般も大好きな……そういう感じだし、じっさい、ボクのご飯は悪くないと思うんだ。

 十四歳、元気系家庭派女子。お嫁さんにしたい女のコ・ランキング暫定一位:当社比。

 

 夢は――造園匠ガーデニング・マイスターになること。

 それも、この空中庭園:アルカディア専属の。

 

 それがボク――この物語の主人公:ソラのパーソナリティーだ。

 スリーサイズ? あー、やっぱりすこしくらいは興味あるのかな? 男のコ的には?

 んんー、まあそれは、おいおいあきらかになっていくでしょう。

 でもヒント、ひとつだけ。

 この物語は「全年齢向け」です。

 わかった? ごめんね(くすっ)。

 

 じゃあボクは寝室に行くね?


         ※


 それで乳だ。乳が揺れているんだ。

 ……ごめん、なにを言っているのかわかんないと思うんだけど、ボクにもぜんぜんわかんなくて、とにかく目の前にあるものを描写してるんだ。

 だって、おかしいじゃないか。

 全年齢だって宣言したその舌の根も乾かぬうちに、どうしてこんなことになっているの?

 ねえ、どうなっているの、この物語の倫理バリアは?

 描写されてなければ、なにをしてもいいって、そういうことなの?!

 尖端とか、突起とか、そういうのがなければいいってこと?!

 

 だけど、ボクの嘆きをよそに現実は迫ってくる。


 それで乳だ。乳が揺れているんだ。

 ごめん、同じことを二回描写したし、これはさっきのコピペなんだけど、悪文というものでもなくて、ましてや大事だから強調しようとしているんじゃない。

 ボクの、ボクの動揺を、キミにわかって欲しいんだ。

 師匠の部屋で、ボクの師匠の部屋で、乳が揺れているんだ。

「あ、おはようございますー♡」

 ドアを開けたあと、あまりの光景に飛び退り、ヤモリみたいに壁に張りついたボクを、そんな感じで認めて、巨乳美人は言ったんだ。

 ふわんとか、ほよよんとか、たゆたゆーんとか、そういう擬音がつきそうな感じの、ボクがあまり実在を認めないカテゴリの、ふわゆる女子みたいな……そんな女が、師匠の上で、跨がって、乳を揺らして……。

 これは、夢だ、そうなんだ。

 ボクはヤツの存在を全力で否定した。

「悪夢よ、去れ!」

「夢じゃないわー?」

 頭の悪そうな女がそう言った。

 最高にむかついた。

 夢じゃないだと? そんなこと、オマエがそう言うなら、こっちにも考えがある。

 言うことが、ある。

「で・で・で」

「で・で・で?」

 ボクは怒りのあまり、どもっていた。

 それを、ふわゆるーん、と美女が聞き直し、ついにボクの怒りが頂点に達した。

 大・爆・発だ!

 

「で・で・で、でていけーッッ!!!! いますぐ、ここから――ッ!!!」


 向こう三軒くらいには響きわたる絶叫ボイス。


 だけど、ボクの憤怒の形相と怒号を、ふわゆる美女は、ふるるんっ、とか受け止めやがったんだ。

「やだ、こわーい。怒らなくたって、でていきますぅ。だから、ちょっとのあいだ、部屋から出ていてくれる、ボク?」

「ななな、なんだとー、ボクはボクわ、ボクはーッ!!!」

「あん、もうこんな時間なのー? やだー、女官長にどやされちゃうしー」

「は・や・く、出・て・行・け! 我が家時空から、疾く去れ!!」

「お願ーい、だって見られながら服着るの、脱ぐより恥ずかしい♡」


 だめだ、キャラ相克性の法則で(?)、ボクはこの手の女が大嫌いなんだ。

 こういう、決断力のない感じの女が大嫌いなんだ、同性として。

 

 とにかく、ボクは出ていってもらいたい一心で、寝室のドアを閉めた。

 いつまでたっても、出てこない。

 着替えにこんなにかかるか?

 十分後、待ってたボクを尻目に寝室で化粧しはじめてた女を叩き出し、ボクは師匠に跨がった。

 

「起きろッ、こらッ、このロクデナシッ、スケコマシの、浮気者ッ!!」

 ボクは感情的になっていた。

 だから、普段だったら決してしないようなことをした。

 平手打ちだ。それも一発じゃない。二発。

 あとになって、赤面してのたうち回った。

 なにしてるんだ、ボクは。なに言ってるんだ、ボクは。なにしたんだ、ボクは。

 

 たしかに、師匠はロクデナシだ。

 

 むかし世界を救った勇者とともに戦い、魔王と魔軍による世界の簒奪を阻止した英雄なんだけれども、そのせいで持ってた《ちから》のそのほとんどを失って、いまじゃ、ほとんどただのヒト。

 かつての功績のおかげで、各国からの支援金を受けて、暮らしているけど、今の仕事は造園業のおじさんだ。それもあんまりまじめじゃない、というか腕は超一流なんだけどクライアントと衝突してばかりの、いわゆる困った職人さん扱い。その間に入るボクがどんな苦労をしてるか、きっと師匠にはわかっていない。

 

 お金を稼がないといけないの! 生きてるんだから!

  

 おまけに飲んだくれで、生活能力は皆無に等しく(ただし、料理の腕だけは、バカみたいに高スキル。片づけないけど)、さらにそのうえ、どーしようもない助平なんだ。

 いつも、どういうルートでか、女性をひっかけてくる。

 ひっかかるほうもひっかかるほうだと思うけど、それをボクと同じ屋根の下に引っ張り込むのは、どうなんだ!

 だから、スケコマシも間違いじゃない。わかってくれるよね?

 ただ、その……浮気者って……ボクは、師匠の弟子で、養女で……お嫁さんじゃない。恋人でもない。

 それが、浮気者って罵りは、どうよ?

 いくら、激高してたからって、それはちょっと、どうなの、ボク?


 とか、動揺してたら、うっすらと師匠が目を開けた。

 銀色の、無造作に伸ばされた髪の海と男性的な美貌――その眼窩に嵌め込まれた、血の色の宝石のような、それ。

 紅い、ルビーのように紅い瞳。

 

 師匠の瞳を正面から見ると、ボクは、いつも射すくめられたみたいになる。

 昔は漆黒だったと、師匠を知るひとたちは口々に言う。その頭髪も、同じだったと。

 豊饒な、生命を育む土のように。


 そして、その色にふさわしく、彼こそは世界最高の創造能力者――ガーデニング・マイスターだった、と。

 魔軍の侵攻にさらされ、徐々に失われていく世界に、我が身を捧げ、吹き荒れる破壊に、創造で立ち向かった男。

 わかってるんだ、ボクだって、師匠は、ほんとは凄いヒトだって。

 世界最高の、希代の、唯一無二の――そう謳われた才能を、師匠は捧げた。

 世界のために。

 見も知らぬ、縁もゆかりもない、でも、彼の背中にいた人々のために。


 はっきり言って尊敬してる、尊敬してるんだよ。

 だから、だから、ダメな大人の師匠を見るのが、ボクはつらい。

 なんとかしたいんだ。

 そう思った瞬間だった。

 いきなり引き倒された。いや、引きずり込まれた。

 えっ、あっ、とかいう間もなかった。

 怒ったんだと思った。最初は。

 でも、そうじゃなかった。

 抱きすくめられ、頬ずりされた。首筋を嗅がれて……師匠の手が、手が!!

 温かい春の日の朝、ボクは膝丈のズボンと長袖のシャツを腕まくり、その上からエプロンって格好で調理してた。

 そのエプロンの下に、手が、師匠の手が! 肌が、匂いがっ……!!

「えっ、やっ、ちょっ」

 反射的に抵抗しようとしたけどダメだった。


 いや……正直に言う。出来なかったんじゃない。ボクは……しなかったんだ。


 どうしてかって……それは、尊敬してたから? えと、尊敬……してたから。

 ボクは女のコだけれど、魔物相手の戦闘経験はそこらへんの兵隊さんよりずっとあるし、身体能力を爆発的に高める異能をいくつも習得してる。ほとんど無能力者の大人――師匠をぶっ飛ばすくらい、一秒もかからない。

 だけど、そのときのボクには、そんな風に抵抗しようなんてこと、考えることすらできなくなっていた。

 それがいつもの無邪気なスキンシップ(どつき漫才?)というものではなく、女のコとして必要とされているんだってことがわかって、ボクは抵抗できなくなってしまった。

 だから、抵抗を、やめた。

「師匠……師匠……ジョバンニ……あの……あの……や、やさしく、して、ください」

 覚悟を決めて、目をつぶって、ボクはそう告げた。

 震えてたと思う。強ばってたと思う。

 養父と養女でこんなことになってはいけないことはわかっていたんだけれど、頭のなかで一回も夢想したことなかったかといえば、そんなことなかった展開が、こんな風にやって来るなんてわかんなかったわけだけど。

 でも、それでも、師匠が、ジョバンニが欲しいって言ってくれるなら、ボク。


「ねえな……」

「あ?」

「なんだこりゃ」


 決定的な瞬間はいつまでたってもこなかった。

 かわりに頭上から降ってきたのは……失礼極まる、寝ぼけた男の声だった。

「ねえって?」

「おー? なんだ、ソラ、お前か。巨乳ちゃんはどこいった? 夢? あー、なんだ、夢か。道理でふかふかの肉まんが、途中から鶏ガラみたいな肋にすり替わるわけだ」

「に、肉まん? とっ、とっ、鶏ガラ?」

「もう朝か。どうしたソラ、まだ、オレのベッドに潜り込んでくる癖が治らねえのか」

「だっだっだっ、だれがっ」

「あーん? そんな昔のことじゃあるめえ。しかしな、もういい加減、オマエもいい歳なんだから、考えてくれ。大人の情事、もとい、事情というのをな? あー、もったいねえことしたなー。せめてもっかい、揉んどくんだったぜ」

「揉んだっ、揉んだしっ」

「オマエのなんざ、ノーカウントだよ」

 ピキッピキッ、とボクのこめかみに血管が青く浮いていたと思う。

 やっぱりコイツ殺ス、と決心したときだった。

 

「ギュ?」

 と、開け放たれた扉のむこうから、声がした。

 緑色のもふもふした体。頭に植わっているのは砂糖大根。うちの働き者くん第二号。ファッジ。

「てっ、テンサイッ! どこっ、どこから見てたのっ? 聞いてたのっ?」

 不意を突かれ、あられもなく動揺しきったボクの言葉に、「ギュ?」と再び、テンサイは小首を傾げた。

「だいたいぜんぶ、と言っているな。おいテンサイ、おもしろそうだから、ちょっとやってみろや、その話」

「うわー、うわー、テンサイ、喋るなッ、記憶を失えええッ!!」




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