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伯爵家の秘密  作者: BUTAPENN
番外編
79/91

6. 下働きの休日(4)

 四人組の男たちは、ギルマン州長官の邸宅に押し入り、令嬢を無理やり敷布で包んで寝台から引きずり出すと、用意していた馬車に運び込んだ。

 もらった駄賃に見合う、ほれぼれするような手際の良い仕事だった。あの日は、たまたま居合わせた正体不明の騎士主従にこてんぱんにやっつけられたが、今日は夜明け前という時刻のせいか、誰も邪魔する者はいなかった。

 寝込みを襲われた令嬢は、じっと顔を伏せ、小刻みに震えている。ボンネットの下から長いくりかみが覗いているが、侯爵の落とし子なら金髪に決まっているから、おそらく染めているのだろう。顔立ちは気品を備えて愛らしく、仲間のひとりなどは、よだれを垂らさんばかりに眺めている。

 もちろん商売物に手をつけることは、ご法度だ。ただ、このまま依頼主のもとへ運ぶのが、彼らの仕事。あとは、上の連中の決めることだ。

 

 馬車は朝霧の中をひた走り、煉瓦造りの倉庫街の一角で止まった。

 ぷんと強い潮の香りが漂ってくる。ポルタンス港はラトゥール河の河口に近いために、日によって海水が遡上してくることがあるのだ。

「い――いやっ」

 馬車から降りるように促すと、おびえきっているのだろう、蚊の泣くような声で令嬢が言った。

「あんたに拒否権はない。言うことを聞くしかないんだよ」

「わたくしを、どうなさるの」

「いずれ、わかる」

「後生だから、家に帰して。もうすぐお嫁に行くことになっているの」

 さめざめと泣く様子を哀れに思ったのか、ひとりが口を開いた。

「あんた、大商人アロンゾの息子に嫁ぐことが決まっていたらしいが、そうならなくて良かったぜ。あいつら、あこぎなことで有名だからな」

 「しっ」と、先頭に立った兄貴分がたしなめる。「余計なことは言うな」

 彼らは、倉庫の重い木の扉を押し開けると、人質を引き立てて中に入った。その拍子に、令嬢は足をよろけさせ、後ろにいたひとりの胸にしなだれかかった。

「アロンゾさまは、あこぎ……な方なんですの」

「ああ、ひどい人非人だぜ」

 鼻の下を伸ばした誘拐犯は、すっかり饒舌になった。

「ここだけの話だが、来年にもアルバキアとの定期航路が開通する。その裏でがっぽり利益を独り占めしようってのが、アロンゾなんだ。まず、アロンゾの息子がブノワ侯爵の女婿に納まれば、書記を買収して、所領から財産から全部乗っ取るって寸法だ。もっと大変なのが造船会社のほうさ。気がついたら……」

「こら、黙らんか」

 兄貴分がおしゃべりの口をふさごうとしたとき、力なく寄りかかっていたはずの令嬢の姿が、あっと言う間に腕からすり抜けた。

「へっへ。いいこと聞いちゃった」

 気がつくと、倉庫の木箱の上に立っている。頭のボンネットを脱ぎ捨て、ドレスのすそを破って腰のあたりで結ぶと、しとやかで美しい令嬢はみるみる、ぼさぼさの髪とショース姿の下働きの少年に変貌していた。

「あー、腹いてえ。笑いをこらえるのに苦労したぜ」

「あーっ、お、お、おまえは!」

「ありがと。おかげでやっと、おまえたちの首謀者の正体がわかったよ」

 目をいたずらっぽく細めて笑うと、少年は木箱を身軽に飛び降り、入り口の扉へ走り出した。

「待て!」

「逃がすな、追え!」

 エドゥアールは外に飛び出し、ちらりと倉庫の看板を見上げた。

『【ネアザン造船】積荷倉庫』

 悪党どもが怒号を上げて迫ってきたので、逃亡を再開する。陸屋根のついた通路を走りぬけ、長い桟橋の先に追い詰められたかと見せかけ、縁を蹴って川に飛び降りた。

 桟橋の周囲には、小舟が何艘ももやってある。エドゥアールは、揺れる足場をひょいひょいとバランスを取りながら、舟べりから隣の舟べりへと飛び移った。

 まるで、生まれたときから舟に乗っているような敏捷さだ。誘拐犯たちは、あぜんとしてその様子を見ていたが、先回りすべく、あわてて隣の桟橋へと走り出した。

 そこには、一本マストの荷運搬用の帆船が停泊していた。

「おーい、レミ」

 霧に包まれた船の甲板から、日に焼けた少年がひょいと顔を出した。「なんだ、エディじゃねえか。どうしたんだ、そのレースのフリルは」

「そいつら、捕まえてくれ!」

 彼の指差した突堤には、まさに先ほどの四人組が走りこんでくるところだった。

「よし来た」

 レミと呼ばれた船員は、甲板に積んであった荷積み用の網を下に向かって放り投げた。

 魚ならぬ、四人のひげ面の男が獲れたのは、言うまでもない。



「アロンゾは、今回の定期航路の話が本決まりになる直前、こっそりネアザン造船の株を買い集めてたんだ」

 エドゥアールは、端の欠けた陶器のカップで、異教徒式の黒いコーヒーを美味そうに飲んだ。

 桟橋の下に、板切れや粘土を集めて作ったツバメの巣のような掘っ立て小屋がある。若い頃は海賊の一味だったという噂の、腰の曲がった老人がひとりで住んでいて、不思議なことに港湾関係者も彼を追い出そうとはしない。

 エドゥアールがロープの結び方や舵の取り方を教えてもらったのも、レミと仲良くなったのも、この桟橋下の聖域だった。

「その、つまり、株ってなんだ?」

 レミは、スプーンで苦い液体を意味もなくかきまぜながら、おそるおそる訊ねた。

「ネアザン造船は、もともと東の大陸や異教徒の大陸への航海のために、商人たちから出資者を募って設立された会社なんだ。航海が成功すれば、買った株の額に応じて巨額の配当が戻ってくる。失敗すれば一文も入らない」

「まるで、バクチみてえだな」

 レミは身震いした。経済の知識がまるでない彼は、エドゥアールが話す「株」の中に、人間の命を直接やりとりするような恐ろしさを感じたに違いない。

「アルバキアへの航路が結ばれれば、将来は半島の先端に住む異教徒との貿易を独占するのも夢じゃない。そこでアロンゾは、内緒で株を買い占めた。買い占めた株は経営者が持っている株より多くなり、アロンゾはネアザン造船会社の経営に参加させろと要求したんだ」

「ふうん。ひさしを貸したら、母屋を取られたってわけだな」

 船員の少年はいたく感心しながら、エドゥアールの話に聞き入っている。こいつはときどき訳のわからない難しい話をするのが得意だ。きっと、ものすごく頭の良いやつでないと、生き馬の目を抜くような娼館では雇ってもらえないに違いない。

 元海賊の老人は、若者たちの話にはまったく興味がないとばかりに、四隅がぼろぼろに朽ちたテーブルに油紙を広げて、炒ったビーナツの殻を剥き始めた。

「運輸大臣のブノワ侯爵は、アロンゾに肩入れして、乗っ取りを見て見ぬふりをしている。だから、ネアザン造船の今の経営者が、人を雇って令嬢を誘拐し、脅して結婚を破談にさせ、アロンゾと侯爵のあいだを引き裂こうとしたんだ」

 エドゥアールは、剥いたピーナツをひょいと口に放り込んだ。「さっきの連中は?」

「港湾局の牢屋にぶちこんでもらってる。あとは港長が、警察にしょっぴいてくはずだ」

「取調べでネアザン造船の関与が明らかになる前に、ブノワ侯が事件自体をもみ消すだろうな」

 エドゥアールは一瞬、焦れたような表情を浮かべた。「この国に賄賂が横行し、不正がまかりとおるのも、王政がきちんと機能していないせいなんだ」

「王さまは王宮から一歩もお出にならねえから、王宮の中のことしかわからないのさ」

 友の背中を叩いて、レミは笑った。「俺たちが心配したって、どうにもならねえよ。天国みてえに遠い、雲の上のことなんだからさ」

 猫背の老人は、ちらりと下働きの少年の顔を盗み見た。その雲の上に彼がいつか立つことを、自分だけは知っているという得意げな顔だ。

 頭の上から、桟橋の板を鳴らす足音が聞こえ、エドゥアールは小屋の外に出た。

「エディさん」

 コレットが数歩走り寄ると、膝を屈めてお辞儀をした。

「ごめんな、あんたのドレス、破いちまった」

「とんでもない、私のためにこんな危険な目に会われたのに……怪我はありませんでしたか」

「その人が、シモン?」

 彼女の背後で、ユベールとともに立っていたのは、誠実そうな若者だった。

 コレットの背中にそそがれていた、決意を秘めた眼差しを見て、エドゥアールは彼ならだいじょうぶだと直感した。

 彼ならば、身分の差を乗り越えて、愛する女性を幸せにすることができると。

 シモンは前に進み出て、深々と頭を下げた。

「はい。お世話をおかけしました」

「あとは、州長官を説得しなきゃならないけど、覚悟はできてる?」

「できております」

 迷いのない口調で言い切ると、彼は隣にいるコレットを見つめた。「この方と離れていた半年間の苦しみを思えば、どんなことでもやり遂げるつもりです」

「コレットさん。あなたも?」

「は……い」

 答えようと口を開いたとたん、その薄紅色の唇が嗚咽にゆがんだ。

「ああ、また泣く」

「ごめんなさい。でも本当に……いいのでしょうか。こんなに……ご迷惑をかけてしまって」

「人は、本当に幸せになるためなら、うんと回りに迷惑をかけていいんだと思うぜ。だって、幸せな人間がひとり増えれば、世界はそれだけ明るくなるんだし」

「……ありがとうございます」

 辻馬車にふたりが乗り込んで、ギルマンの屋敷へと戻っていったあと、残されたエドゥアールとユベールは、桟橋に並んで立ち、ラトゥール河を見つめた。

 港を包んでいた霧は少しずつ海のほうへ退いてゆき、白っぽい太陽が水面に光のくずを撒き散らしていた。

「ああ、そうなのだな」

「何が、でしょう」

 ユベールの見たものは、今だけは下働きの仮面を脱ぎ捨てた、高貴な伯爵子息の横顔だった。

「わたしは、ずっと迷っていた。父と母が身分を越えて自分たちの気持ちを貫いたことは間違いで、本人たちをも、周囲の多くの人をも不幸にしたのではないかと。そして、わたしがこの世に生まれたことも、やはり間違いだったのではないかと」

「お戯れを」

 騎士は喉の奥で笑った。「あなたがおられるおかげで、どれほどわたしたちが慰められ、励まされていることか。あなたがこの世におられなければ、世界はそれだけ暗くなっておりましたよ」

「無駄に明るい、と言いたいんだろう」

「よくおわかりで」

「わかった。もう迷わねえ」

 彼は大きく足を広げて、腰に手を当てた。それだけで、さきほどまでの伯爵子息は霧のように姿を消し、今このとき、誰をも包み込むような明るい笑顔で笑っているのは、下働きのエディだった。



 その夜、ギルマン州長官が身体を揺するようにしてイサドラの娼館を訪れた。

 上等の客室の天蓋つきの寝台にどかりと座ったきり、夜に向かって開かれた窓を見つめて身じろぎもしなかった。

 ノックがあり、エドゥアールが酒瓶とグラスの乗った盆を持って、中に入ってきた。

「お客さま。指名料、二十ソルドにお安くしておきますけど?」

「……」

「ちぇっ。少しは何か言ってくれよな」

 お盆をテーブルに置き、ギルマンの隣に並んで腰をかけ、窓を見つめる。どこからか、娼婦の嬌声と酒瓶のがちゃがちゃという音が聞こえてきた。

「シモンはいい男だよ。彼と結婚すればコレットさんは幸せになれる」

「……誰も、おまえの意見などは聞いておらん」

「大商人の邸宅に嫁いでも、幸せにはなれない。お嬢さんは、花瓶いっぱいに活けられた豪華な花よりも、庭に種を蒔いて育てた一輪の花を喜ぶ人だ」

「そんなことは、わかっておる!」

 州長官は、膝の上でぎゅっと両の拳を握りしめた。

「あの子は十三年間、わしの家で育てたのだ。あの子が来たとき、わしら夫婦は最愛のひとり息子を病でなくしたばかりだった。毎日泣き暮らす妻といっしょに、途方に暮れていた。もう二度と人を愛することなどないと思っていた。そのわしらを、コレットは――」

 ぐしゅりと大きな音を立てて、鼻をすすりあげる。「あの傷ついて、アザだらけになった幼い女の子が、わしらに愛するということを、ふたたび教えてくれたのだ。あの子の幸せ以外のものを、わしが願うはずがなかろう!」

「じゃあ、何も迷うことはないじゃねえか」

「おまえなどにはわかるまい。この国は、貴族が治めているのだ。ブノワ侯爵の意向にそむけば、どうなることか。愛する男と結婚しても、コレットは幸せにはなれぬ。出世の道も閉ざされ、一生うだつのあがらぬ男と、じめじめした倉庫の二階で暮らすような一生など」

「ええっ。なんだよ、それ」

 ぽかんと口を開けて、すっとんきょうな声でエドゥアールは叫んだ。

「そういうお涙ちょうだいの筋書きは、今どき場末の三文劇場でも流行らねえぜ」

 少年は州長官のぶよぶよの肩に腕を回し、ぐいと自分のほうに引き寄せた。

「俺が筋書きを書き直してやるよ。シモンは明日にでも何食わぬ顔をしてギルマン家に戻り、もう一度執事見習いとして働き始める。数年して執事に出世し、十年後には州長官の後継者に抜擢される。コレットさんは可愛い子どもを全部で五人産み、あんたは孫に囲まれてにぎやかな余生を送るんだ」

「ばかな」

 ギルマンは泣き笑いを浮かべて、エドゥアールを見つめた。「そうなったら、どんなに良いか。だが、コレットはもうギルマン家の養女ではない。ブノワ侯爵が返せと言ってきているのだぞ」

「誰を?」

「だから、自分の娘をだ!」

「侯爵の娘なんて、どこにもいないのに?」

「……んだと?」



「おそれながら、申し上げます」

 ブノワ侯爵家の居間で、ギルマン州長官はじゅうたんに額をこすりつけるほどに平身していた。

「侯爵令嬢コレットさまは、十三年前、カロン男爵の手によって打ち叩かれ、息も絶え絶えになって、我が家にお越しになられました。そのまま傷は癒えず、二ヵ月後に流行り風邪によって、あっけなく身まかられたのでございます」

「コレットが――死んだ?」

 侯爵は、椅子から立ち上がり、わめいた。

「では、あの娘は誰だ!」

「お預かりした子どもを死なせてしまい、わたくしどもはお叱りを恐れたのでございます。似たような顔だちの子どもを孤児院からもらい受け、コレットと名づけて育てておりました。まさかこのような事態になるとは思いもしませず」

 ギルマンは、顔をわずかに上げて、ちらりと侯爵を見る。「その旨、王宮にも届けを出したばかりにございます。処罰はいかようにもお受けいたしますので、どうぞあの娘のことはお忘れになっていただきたく」

「よくも――よくも、たばかってくれたな!」

 ブノワ侯は、頭から湯気を立てそうな勢いでギルマンに迫った。

「あの子がわたしの娘でないとわかれば、アロンゾはただちに支度金を返せと言って来るだろう。それどころか今まで借りた金まで返せと言われたら、いったいどうすればよいのだ!」

「そ、それについては存じ上げませぬが、なんでも王宮のお役人さまが言うことには」

 彼は、エドゥアールに教わったとおりの文章を、ただ棒読みした。

「王国法第194条には、国際航海への投資は、国王の許可を必要とするという条項がある。つまり商人アロンゾが国王の許可なくネアザン造船の株を所有することは違法であり、ただちに株券は国庫に没収される――由にございます。アロンゾは当分、結婚どころではありますまい」

 侯爵の細面が蒼くなり、わなわなと足が震え、崩れるように椅子に座り込んだのを見て、ギルマンは晴れ晴れとした思いで、もう一度じゅうたんに額をこすりつけた。



****



「お父……州長官!」

 あわてて言い換える執事の声に、長い回想から引き戻されたギルマンは、うざったげに目を開いた。

「お父さんでよい。何用だ」

「外務大臣閣下が……ラヴァレ伯爵がおいでになりました」

「なに、エディが! いや違う、エドゥアール・ファイエンタール・ド・ラヴァレ伯爵さまが――」

「エディでいいってば」

 気がついたときには、金髪の青年が生垣から軽やかに庭に飛び降りるところだった。

 五年前に娼館の下働きだった少年は、今や伯爵であり、王甥であり、外務大臣である。その雲の上のお方が、玄関を通らずに生垣を腹ばいになって潜りぬけ、しかも美しい妻と愛らしい息子まで生垣から助け降ろしている。

「ここへ来るときは、なぜか生垣から入りたくなっちまうんだ。な、ユベール」

「あいにく、わたしは同意しかねますが」

 羽根飾りの帽子を被った騎士まで、奥方を同伴して、生垣を降りてくるところだった。

 ギルマンは、昼寝のあずまやから飛び出した。同じく屋敷から急いで出てきたコレットも、夫とともに庭の上に膝をついた。

「大臣閣下。ようこそおいでくださいました」

「やめようぜ、そういう堅苦しい挨拶。コレット、元気か」

「はい。今三人目の子を身ごもっております」

「な、州長官。俺の言った筋書きどおりになっただろ?」

 エドゥアールは、澄んだ水色の目をきらめかせて、楽しげに笑った。

「はい。おっしゃるとおりです」

「休暇を取ってきたんだ。二、三日はポルタンスにゆっくり滞在できるから、今日は世話になるぜ。ネネットの養女の件も頼みたいし」

「お役に立てることなら、なんなりと」

 エドゥアールは、息子のジョエルとともに、柔らかな庭の芝生の上に仰向けになって寝ころんだ。シモンとコレットの子どもたちふたりも歓声を上げて、駆け寄ってくる。

 ラヴァレ伯爵のギルマン家での休日は、まだ始まったばかりだ。




第六話おわり


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