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伯爵家の秘密  作者: BUTAPENN
第8章「王の資質」
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第8章「王の資質」(3)

 小さい頃住んでいた故郷に行くと、思い出よりも小さく見えるという話を読んだことがある。

 エドゥアールがこの町を離れたのは、一年半前だ。確かに一年半のあいだに背は伸びた。けれど、この町が彼の目に違って見えたのは、それが理由ではない。

 美しく整えられた領館に住み、最高の調度に飾られた王宮に入りびたっていた身には、この町の喧騒が、猥雑さが、一瞬見知らぬもののように映ったのだ。

 水路の隅に打ち寄せられたゴミの匂いも、通りを行き交う人々のよそよそしい視線も、彼がこの町の住人に戻ることを拒絶している。

 だが、悲しく思ったのはつかのまだった。川の波止場から響いてきた汽笛の音を合図に、町のすべてが生き生きと輝いて見えるようになった。

 『エディ』と呼ばれ、朝五時に起きて汗にまみれ、あかぎれを作りながら働き、町を走り回っていたあの頃に立ち戻ったかのように。体がうずうずして、活力に満ちて、じっとしていられない。

「行こう。ミルドレッド」

 かたわらにいる婚約者に手を差し出すと、ぎゅっと握り返された。広場に伯爵家の馬車を残して、質素な服に身を包んだふたりは裏路地を入っていった。

 水路沿いに進むと、二階部分が漆喰塗りの石造りの古い建物が見えてくる。

 涙でにじんでくるほどになつかしい、八年間暮らした彼の家だった。

 夜は客のために、たくさんの灯りをともして開かれている正面扉は、今の時間はぴたりと閉じられている。エドゥアールはためらうことなく、その扉を押した。

 玄関の間にいた娼婦のひとりが、ぽかんと口を開け、あわてて食堂の扉の中に戻っていった。

「エディ?」

「エディよ」

「まさか!」

 扉の向こうで叫び声が湧きあがると、バタンと扉が大きく押し開かれ、たくさんの人間が転がり出てきた。

 信じられないという表情の面々に、エドゥアールは笑いかけた。

「みんな。ただいま!」

 悲鳴と歓声とともに大勢の娼婦と下働きの男たちが、駆け寄ってきた。

「うわああ。りっぱになっちまって」

「どうしたんだい! 奉公先を追い出されたのかい」

「まさか。休暇をもらってきたんだよ」

「色がつるりと白くなって。伯爵家の従僕ってのは、よっぽど楽な仕事なんだね」

「北国の太陽は、ここと違って肌が焼けねえんだよ」

「そ、そちらのお嬢さんは? まるで人形みてえに顔がちっちゃくって綺麗だ」

「こら、汚い手で触るな。減っちまうだろ」

 群れの後ろで、ネネットが片目をつぶってみせた。どうやらエドゥアールの正体を、まだみんなには内緒にしてくれているらしい。

 エドゥアールはミルドレッドとともに二階への階段を数段上がると、もったいぶった咳ばらいして、腰に手を当てた。

「ちゃんと紹介する。俺は今度、この子と結婚することになった」

「えーっ!」

 一同、腰をぬかさんばかりに驚いている。

「名前は……ミリ―と言って、俺と同じ伯爵家で、メイドをしてる」

「すげえ。こんな美人を嫁さんに?」

「うまいことやったね、エディ!」

「へへっ。当然だろ」

 ミルドレッドは彼の後ろに隠れて、笑いをこらえるのに必死だ。

 おそろしく博識で頭が切れ、本当は高貴な王家の血を引く婚約者が、まるで下町のガキ大将のようにふるまっているのだ。

「長旅で、腹がへっちまった。ガストン、なんかある?」

 娼館のコックは、にやりと不敵な笑みを見せた。「昼食の残りでよければ、牛すね肉の煮込みと、ほうれん草入りオムレツがある」

「うわあ、俺、その煮汁にパンを浸して食べるのが大好きなんだ。いつものチーズパンは?」

「もちろんある」

 台所の大テーブルの片隅で、大勢の仲間たちに見守られながら、エドゥアールとミルドレッドは幸せそうに、残り物とは思えない豪華な食事に舌鼓を打った。

「あら、この味って」

「しっ」

 エドゥアールは、人差し指を唇に当てた。「ガストンとシモンは、王立調理学校の先輩後輩なんだ」

「まあ、道理で、どこかで食べた味だと思いましたわ」

「それはそうと、ミストレス・イサドラは?」

 御馳走を平らげたエドゥアールが、この娼館の女将の名を出したとたん、凶事を話題にするときのように皆の顔が曇った。

「どうしたんだ?」

「それが……」



 水路の上に渡された木の橋を渡ると、煉瓦造りの家のノッカーを叩く。

 扉を内側から開けたのは、フレッドの母親のゾーイだった。

「まあ、エディ」

「久しぶり。ミストレスがここだって聞いたから来たんだけど」

 狭い板張りの診察室の中には、ゾーイと同じ看護婦用のエプロンを身に付けたイサドラが向こうを向いて立っていた。そのかたわらの診察台の上には、妊婦らしき女性が横たわっており、テオドール・グラン医師が、患者のお腹にかけた毛布の下で、聴診器を当てているところだ。

 患者が妊婦の場合、テオドール医師はゾーイとイサドラに応援を頼むことにしていた。同じ女性がいたほうが患者も安心する。

 長いあいだ医者がいなかったこの町では、もともと女たちがそうやって赤ん坊を取り上げてきたのだ。

 検診を終えて、患者の体を元通り毛布で覆うと、若き医者は顔を上げた。そして、分厚い眼鏡の奥で目を大きく見開いた。

「エ、エディ!」

 その叫びに、イサドラも振り向いて、「おやまあ」と声を上げた。

「ごめん、取り込み中だったか」

「ああ、だいじょうぶだ。診察は今終わった」

 ゾーイに助け起こされて、女の患者は着衣のため、衝立の向こうへ消えた。

「どうしたんだい。いきなり」

 イサドラの目がエドゥアールからミルドレッドへと順番に注がれ、とても優しい色を帯びる。

「ちょっとばかし暇ができたんで、遊びに来たんだ」

「よく来たね。ふたりとも」

 イサドラは、子爵令嬢を引き寄せ、しっかりと抱きしめた。「幸せそうだね、お嬢ちゃん」

「ありがとう……ございます」

 ミルドレッドは彼女のふくよかな胸に抱かれて、すすり泣き始めた。エドゥアールとの別れを思い悩んでいたとき、イサドラの威勢のよい啖呵が、どれほど彼女を勇気づけただろう。

 イサドラがいなければ、ふたりにとって今はなかった。

「エディ、久しぶり。会いたかったよ」

 テオドールは、エドゥアールの両手をぎゅっと握り、感謝をこめて振り回した。

「ラヴァレ伯爵さまが、先だってこの診療所に大金を寄付してくださったんだよ。きっと、きみが嘆願してくれたんだろう」

「あ、そうか。そりゃ良かった」

「おかげで借金も返せたし、経営も軌道に乗ったよ。くれぐれも、よくお礼を申し上げておいてくれ」

「ああ、わかった」

「そちらのお嬢さんは……?」

 そのとき、衝立の後ろから、妊婦の患者が現われた。「先生、ありがとうございました」

「ああ、イヴォンヌさん。それじゃまた明日にいらしてください。もし途中で何かあれば、夜中でも叩き起こしてくれていいですからね」

 ゾーイに付き添われながら、患者が扉の向こうへ消えると、医師はため息をついた。

「やはり、むずかしいですね」

「何がむずかしいんだ?」

 エドゥアールは、医師とイサドラの浮かない顔を交互に見て、眉をひそめた。

「さっきの患者さんは、羊毛組合のウィレム親方の奥さんなんだが」

 テオドールが説明した。「四十歳で、見ての通り赤ちゃんを授かった」

「ちょっと待った。ウィレム親方ってば確か……」

「五十六歳だ」

「……やるなあ、親方」

 変なところに感心するエドゥアールに、苦笑を抑えながら医師は続けた。

「ところが、あの奥方は初産なんだ。四十歳という高齢で初産というのは、ほとんど例がない」

「危険なのか?」

「出産というのは、そもそも母体に負担が大きいんだよ」

 イサドラが沈鬱な面持ちで答えた。「母親の年齢が高いと、それだけ赤ちゃんも死産や早産する確率が高いんだ」

「親方も奥方も、たいそう赤ん坊を欲しがってるんだが」

 医師の顔色も冴えない。「この数日、奥方の体のむくみがひどく、赤ん坊の心音も弱い」

「まあ」

 ミルドレッドは息を飲んだ。「なんとか、無事に出産できる方法はありませんの?」

「異教徒の大陸では、【帝王切開】という方法が行われていると、本で読んだことがあるのだが」

「お腹を切るということですか、なんと野蛮な!」

 見送りから戻って来たゾーイが、悲鳴を上げた。

「だが、その方法だと、自分で生まれ出る力のない赤ちゃんを助け出すことができるらしい」

 テオドールは、眼鏡のつるをゆっくりと耳から外した。「異教徒の本だけに、どこにでもあるというわけじゃない。もう一度、王都の王立大学の図書館に行って、書物を見つけ出すことができればいいんだが」

「その本なら、ラヴァレ領にある」

 ぽつりとつぶやいたエドゥアールに、他の四人の目が一斉に注がれた。

「あ、つまり、ラヴァレ伯爵が、そういう感じの外国の本があるって言ってたんだ。今すぐ早馬の使いを出せば、二日のうちに手に入れられる」

 テオドールは目を輝かせた。「だけど伯爵さまは、そんな貴重な本を快く貸してくださるかな」

「だいじょうぶだって。伯爵と俺の仲だから」

「ぜひ頼むよ、エディ。お願いしてみてくれ」

「わかった」

 エドゥアールが診療所の外に出ると、橋のたもとの目立たぬところに、騎士ユベールが片膝をついていた。

「何か御用ですか」

「うん、着いた早々で悪いが、領館に【帝王切開】について書かれた医学書を取りに戻ってもらいたい。親父なら、すぐに見つけられるはずだ」

「承知いたしました」

「それから……その書物をジョルジュとトマに渡して、持って来るように言ってくれ」

「仰せのままに」

 次の瞬間、ユベールの姿は裏路地からなくなっていた。

「エドゥ……エディさま」

 ミルドレッドが扉から現われ、微笑んだ。「間に合うといいですわね」

「それに、うまくジョルジュをポルタンスに呼び寄せる口実ができた。本当は何か別の用事をでっちあげるつもりだったんだけど」

「よかったですわ」

 行商人や市場帰りの買い物客や配達の男がひっきりなしに狭い道を行き交っている。ひとりの恰幅のよい中年女性が、大きな麻袋を背負って、診療所の前で止まった。

「あれ、エディじゃないかい」

「肉屋の女将さん」

「久しぶりだね。元気かい?」

「うん。おばさんも元気そうでよかった」

「芋がたくさん手に入ったから、テオ先生におすそわけだよ。あんたたちも食べな。蒸かしてバターつけて食べると美味いよ」

 麻袋をエドゥアールに渡すと、女はくしゃくしゃと彼の髪の毛を撫でた。

「ありがと。ちゃんと蒸かして渡しとくよ」

 「じゃあ」と行ってしまった女の後姿を見送っていると、下から「やあ、エディ」と男の声がした。橋から川を見下ろすと、喫水線ぎりぎりまで荷物を積んだ小舟が通りかかるところで、棹を手にした舟乗りが、大きく手を振っている。

「こんちは、クレマン」

 舟が見えなくなり、さざ波が静まった。空き瓶が緑色の川泥の中に沈み、その上をゆったりと灰色のカモが数羽泳いでいく。住人の生活を支える生命の流れだった。

「にぎやかな街ですのね。みんな足早で威勢がよくて、王都とはどこか雰囲気が違いますわ」

 ミルドレッドが旅情にひたりながら言った。「ひとつ路地を入れば、住民が家族のように仲良く暮らしている」

「気に入ってくれたかい?」

「ええ、とても」

「そいつは良かった」

 と背後から、イサドラが彼らの背中をぽんと叩く。「あんたたち、前に会ったときは、陰気な墓場のカラスみたいだったのが、そうやって並ぶ姿はまるで仲良しのツグミさ。見ててうれしくなるよ」

「それはそうと、テオ先生とゾーイのほうは、何か進展は?」

 女将は高らかな笑い声を上げて、首を振った。

「残念ながら相変わらずだね。ちっとも進みやしない。年を取ると、なかなか自分に素直になれないもんさね」

 と言いながら、腕を伸ばして若者たちの肩を抱き、ぐいと自分のほうに引き寄せた。

「何日かは、この町にいられるんだろう」

「うん。久しぶりだから、ゆっくりしてく」

「いろいろ見物に連れてっておあげ。お嬢ちゃん、客は追い出しとくから、うちの最上の部屋を使っておくれよ」

「あー。俺、あそこの天蓋つきの寝台、一度寝てみたかったんだ」

「バカ。あんたは二階に立ち入り禁止。台所の隅にでも寝てな」

 領館では数倍広い寝心地のよい寝室を使っているはずのラヴァレ伯爵は、「ちぇっ」とむくれたように唇を突き出した。



 ポルタンスは水路の町なので、見物は水路を使うのが具合がいい。

 エドゥアールは一艘の小舟を借りてきて、娼館の裏手の桟橋からミルドレッドを抱き降ろした。

 ラトゥール河の水量が減る夏から秋にかけては、運河の流れも眠っているようだ。灰色にくすんだ家々の間を、小舟はゆったりと迷路のような水路にそって進む。

 水は濁っているが、それでも水面は時に青空を映し、裁判所の白い柱を映し、市場の赤いテントを映し、まぶしい夏の陽を受けて、きらきらと宝石のように輝く。

「まるで万華鏡の中に迷い込んだみたい」

 水路を吹き抜ける涼しい風に薄茶色の髪を乱しながら、ミルドレッドはうっとりと目を閉じた。「なんだか潮の香りがします」

「もう少し先の河口まで行くと、川の水が海の水と混じり合ってるんだ。季節によっては、ここでも海の魚が獲れることがある」

 艫に座ったエドゥアールは、片手で櫂を器用にあやつって、舟の方向を自在に変える。

 アーチ状の橋の下を舟がくぐるとき、物音は一瞬止み、水の影がゆらめく別世界になる。

 そのたびにエドゥアールは、恥ずかしがる恋人を素早く引き寄せてキスした。ポルタンスの橋の数だけ、キスすると決めているように。

 もっとも、町を行く人は誰もじろじろ見たりしない。ポルタンスでは、舟の上は恋人たちがキスをする場所なのだ。

「ここは、王都より歴史が古いんだ。もともとは海賊が造った町だって言われる」

「まあ、海賊? 今でもいるのかしら」

「噂は聞くけど、見たことはないなあ。肩にオウムを乗せた隻眼の船長なんて」

「ここに来て、エドゥアールさまのことが、また少しわかりましたわ」

 ミルドレッドは、誇らしげに胸を張った。

「どんなふうに?」

「こんな町でお育ちになられたからこそ、広い世界に目が向いているのだと思います。海の向こうの異邦人の国まで。だからきっと、王宮や貴族の支配する王都は、あなたにとっては狭すぎるのでしょうね」

「俺は、ちっぽけな人間だよ」

 エドゥアールは悲しそうに微笑むと、舟の中に両脚を伸ばして、空を見上げた。

「自分が伯爵だということさえ言い出せない。みんなに遠巻きにされて、今までと違う目で見られるのが恐いんだ。われながら情けない」

「いいえ。大切な友人をなくしたくないと思うのは、ごく自然な気持ちですわ」

「でも、そのせいで、きみのことをメイドだと紹介する羽目になった」

「わたくし、ミリ―なんて呼ばれたのは初めてでした」

 ミルドレッドは、くすくす笑った。「この町にいるかぎり、わたくしは子爵の娘ではなくメイドのミリ―。違う自分を演じるのは、とても楽しいですわ」

「人間て、ほんのちょっとしたきっかけで、身分の壁を飛び越えられるんだな」

「ええ、人は変われますわ」

 ミルドレッドは心をこめて、彼のことばに賛同した。「ジョルジュとミストレスの間にも、そのきっかけが訪れるといいのですけれど」



「まあ、なんて、すべすべだろう」

 娼婦たちはミルドレッドを取り囲んで、細い絹糸のような髪やきめ細かい肌を、よってたかって弄っていた。

「節のない白い手。まるで、洗濯なんて生まれてからいっぺんもしたことない手だよ」

「わ、わたくし、部屋づきメイドなので、あまりお洗濯はいたしませんのよ」

「でも、化粧がちょっと地味だね。きれいにアイラインを入れたら、もっと目がぱっちりと映えるのに」

「そうそう。つけまつ毛も」

「お、お嬢……ミリ―」

 そばで、ジルがおろおろしている。ふたりは同じラヴァレ領から来たメイド仲間というふれこみだ。ミルドレッドが何をしても黙って見ていると固く誓ったものの、大切な女主人を娼婦たちのおもちゃにされて気が気ではない。

「そうだ、この頬紅をお使い。きっとあんたの肌の色によく合うよ」

「ドレスは、あたしのがぴったりだね。これもいっしょに貸してやるよ」

「こちらは、何ですの?」

「網タイツさ。こうやってガーターベルトで止めるんだよ」

 ひとりの娼婦がスカートをまくると、現われた豊かな下肢に子爵令嬢は息を飲んだ。

「す、すばらしいお体ですのね」

「ああ、この尻で男を骨抜きにするんだよ。あんたもエディを骨抜きにしたいだろ?」

「がんばりな。あたしたちが、うんと磨きをかけてやるよ」

 ゾーイの息子のフレッドと路地で缶けり遊びをして帰ってきたエドゥアールは、控えの間の大騒ぎに気づき、ひょいと扉から中をのぞいた。

「いったい何を――うわっ」

 とんでもないことになっていた。

 ミルドレッドが着せてもらった赤いドレスは、裾が非対称に広がり、片側の脚がガーター留めまで露わになっている。黒の前開きベストは、胸が編み上げ紐でかろうじて覆われているだけ。髪は高く結われ、美しいうなじから背中までのラインを惜しげもなく見せている。

「きゃ」

 子爵令嬢は自分のあられもない姿を婚約者に見られたことに気づいて、羞恥のあまりうずくまってしまった。その結果、ますます胸の谷間が丸見えになる。

 エドゥアールは耳たぶまで真っ赤になると、あわてて回れ右をして部屋を駆け出していった。

「あはは、エディのやつ、今ごろ鼻血吹いてるよ」

 娼婦たちが膝を叩いて大笑いする声は、外の路地まで聞こえた。



 ポルタンスでの休日を楽しんでいるエドゥアールたちのもとに、ラヴァレから早馬が到着した。ジョルジュとその従者トマである。

「ご所望のものを持参しましたっ」

 ぜいぜいと息を切らしながら、あたふたと駆け込んできたジョルジュは、包みから大切な書物を取りだした。

「お産はどこで?」

「わ、わたしは八人兄弟で、弟妹を取り上げた経験もあります。ぜひ何かお手伝いを!」

 相変わらず早とちりの主従ふたりを椅子に座らせてから、エドゥアールは言った。「出産はもう少し先だよ。難産になりそうなので、前もってこの本が必要だったんだ。助かった」

「そうですか。間に合いましたか」

 ネネットが運んできた水を一気に飲み干すと、ジョルジュは部屋の中を不審げに見まわした。

「それにしても、若さまはどうして、このような場所に?」

「あ、言わなかったかな。俺、ここで育ったんだ」

「ええっ」

 ジョルジュは椅子から転げ落ちそうになった。

 彼らの声を聞きつけたミストレス・イサドラが、自室から出てきた。

 ジョルジュを一目見たとたん、その表情がみるみる強張る。

「よ。ようこそ当館においでくださいました」

 いつもは豊かなアルトの声がうわずって、掠れている。

 ジョルジュはゆっくりと立ち上がった。その顔は、やはり驚愕に引きつっている。

 ふたりは即座に、お互いに誰だかわかったのだ。二十一年ぶりの再会。特にジョルジュは母の顔は記憶にすらなかっただろう。肖像画など、一切のものは処分されてしまっているからだ。

 それでもやはり血のつながりは、年月や人の力も及ばぬ、はかりしれぬものなのだ。

 イサドラが取り乱したのは、ほんのわずかの間だった。

「お茶をお持ちします。騎士さま。どうぞ、ごゆっくりお寛ぎください」

 非の打ちどころのないお辞儀をして、彼女は厨房の扉の向こうに消えた。

 とたんに、ジョルジュは訴えるような目をして、主を見た。「若さま。あの人は――」

「ここの女将のイサドラ・プランケット」

「……」

「俺を、この娼館で八年間育ててくれた人だよ」

「……そうでしたか」

 うなだれたまま、騎士は押し殺すような声で続けた。「若さまは、あの人が先のメイヨー伯爵夫人、わたしの――母であることをご存じの上で、わたしをここにお呼びになったのですか」

「ああ、そうだ」

 ジョルジュは長い間、押し黙っていた。従者のトマは、後ろではらはらと気をもんでいる。

「お気遣い感謝いたします」

 やがてジョルジュは頭を上げ、驚くほど明るい笑顔を作った。

「でも、わたしは騎士の誇りにかけて、あの人を母と呼ぶことはいたしませんから」

「ジョルジュ」

「役目は果たしました。このままラヴァレ領に戻らせていただきます。一刻も早く、村を回って自警団の訓練を再開しなければなりませんので」

「ジョルジュ。待て」

 出て行こうとする騎士の後姿に、エドゥアールは声をかけた。「あと数日、ここにいてほしい。ミルドレッドを王都まで送り届けてほしいんだ」

 彼は振り向いた。「わたくしがですか」

「頼む。俺は領地に戻らなきゃならない。それに、おまえたちがここに滞在すれば、その数日だけでもトマとジルがいっしょにいられるだろ」

「わ、わたしは別に」

 従者はあわてて否定しようとしたが、途中で口をつぐんだ。伯爵はジョルジュをおもんばかって、そう言っているのがわかったのだ。

 士爵は両足を揃え、羽根帽子を胸に服従の姿勢を取った。

「……承知しました。ご命令とあらば」

 扉を出るとき、再びぴたりとジョルジュの足が止まった。

「ようやく謎が解けました。わたしのような者がラヴァレ伯爵家から仕官の話をいただくなんて、おかしいと思っていたのです。騎士としての技量を認められたからではない。わたしがあの人の息子だからなのですね」

「ジョルジュ。それは違……」

「失礼いたします」

 トマがあたふたと主人の後を追いかけ、扉がばたんと閉まる。

「なんだか、ややこしいことになっちまったなあ」

 エドゥアールは苦り切った顔で、頭をぐしゃぐしゃと掻いた。

 


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