57 掴んだ未来
クラウスに抱きついているリディアは、いつ離れようかと考えていた。常に思っていたことを皆の前で叫んでしまったのだ。どんな顔をして日常生活に戻ればいいのだろう。
邪魔だったシビルの呪いは本人へ返却済み。協力してくれた精霊は「また呪われたら会いに来てもいいぞ」と言い残して消えた。二度と来るなと言って精霊よけのポプリを巻いているのはシェーラだ。よほど嫌いな精霊だったらしい。リディアのために我慢してくれていたのだろう。
「問題は解決したみたいだし、僕らは解散しようか」
空気を読んだフリッツが、他の使用人たちに呼びかけた。彼らはリディアの呪いや、初めて見た精霊のせいで、まだ困惑している。あとで納得がいく説明をしてあげるべきだろう。
「お嬢様。何かありましたら、お呼びください。よそ者の精霊が出たときとか、よそ者の精霊が侵入してきたときなど。よそ者の精霊が話しかけてきた時でもかまいません」
「え、ええ」
シェーラは枕元に短剣を置いて寝室を出ていった。
抱き合った状態でクラウスと二人きりにされると、どうしていいのか分からなくなる。呪いの対処が終わって冷静になった今、クラウスがリディアのために奔走してくれたことが信じられなくなってきた。
「リディア。落ち着いたか?」
「……まだ、待ってください」
クラウスの手はリディアの肩に置かれている。リディアはまだ顔を上げられなかった。
「泣いた跡が残っています。化粧もしてなくて、クラウス様に見せられる顔ではありません」
「俺は気にしないが……君が気になるなら、見ないようにしようか」
安心したのは短い間だけだった。クラウスはベッドに腰掛け、膝の上にリディアを座らせた。しっかりと抱きしめられたリディアは、クラウスの肩に頭を寄せるしかない。
小さく、情けない悲鳴がもれた。
「な、なんで、この格好なんですの?」
「なぜって、この部屋にはイスが一つしかないから。君をベッドに座らせて、俺がイスに座ったら、君の顔が見えるじゃないか。かと言って背中を向けて座るのはおかしいだろう?」
「そうですけど。そうなんですけれど」
最愛の人に耳元で囁かれるなんて、リディアには拷問に等しかった。心臓が痛いぐらい脈打っている。気を抜けば呼吸が荒くなりそうだ。伝わってくる温もりで、夢だと思うこともできない。
リディアがこんなにも緊張しているのに、クラウスはいつもと変わらないのが酷い。
クラウスの指がリディアの耳に触れた。優しく外側を撫でて、首へ向かう。
「からかわないでください」
「駄目か? 生存確認していると思ってくれ」
伏せていた顔をあげると、愛おしげに見ているクラウスと目が合った。
「クラウス様。変わりましたか? 外見だけじゃなくて、心境とか、色々と」
「そうだな。君が変えたんだ」
「私、魅了の魔術は使えないはずなのに……もしや、どこかで妖精に襲われましたか?」
「君は想像力が豊かだな」
クラウスは残念そうに言ったあと、ため息をついた。
「……いや、俺が悪いな。今まで夫として君と向き合おうとしなかった」
「王妃様のことが引っかかっていたから、ですよね?」
「そう。人を信じられなかった。ヘンドリックたちの気持ちを知って、同じことが繰り返される気がしたんだ。父上は再構築を選んだが、俺は無理だった。君と結婚が決まったときも、愛情なんて死ぬまで関係ない生活になるのだろうと思っていたんだがな」
リディアはクラウスの上着を掴んだ。続きを聞きたいけれど、聞きたくない。正反対の気持ちが渦巻いている。
期待が強くなっていくからこそ、裏切られたくなかった。
「ずっと、君は一貫して俺に素直な感情を向けてくれていた。自分が誰の子供か悩んで、母親からあんなことを言われても落ち込まずにいられたのは、君がすぐに欲しかった言葉をかけてくれたからだ。あの時に、ようやく君が大切だと気がついた」
「信じてもいいのですよね? 後から勘違いだったとか、真実の愛を見つけたなんて、言わないでくださいね?」
「そんな不誠実なことするか。なんだその真実の愛って。君が朗読している小説と一緒にするんじゃない」
クラウスはリディアの頬を軽く摘んだ。痛くはない。甘くなり始めた空気がすっかり消えてしまった。
「だって、こんなふうに触れてくれる日が来るなんて思わなかったから……」
「望んでいたんじゃないのか?」
「もちろん望んでいました。でもね、いきなりですもの。慣れていないというか、心の準備をしていなくて、どうしていいのか」
こちらは本気で悩んでいるのに、クラウスは意地悪く笑った。
「では君が早く慣れるために、一日一度はこうして触れ合うことにするか」
「クラウス様は私を心臓発作で殺すつもりですの?」
「そうならないために慣れてもらうんだよ」
決定事項になってしまった。絶対にクラウスは実行に移すだろう。
リディアは急に始まった新婚生活を喜びつつ、慣れる日なんて来るのだろうかと首を傾げた。
「リディア」
お互いの額が触れた。ごく自然に唇が重なって、すぐ離れる。たったそれだけなのに、愛されている実感が出てきた。
「クラウス様」
「なんだ?」
「今のが初めてのキスということにしませんか?」
「うん。その提案は悪くない」
***
呪いが解けてから数日は、忙しい日が続いた。クラウスは国境問題の後始末で砦へ戻り、リディアは防衛戦で協力してくれた医師たちへのお礼や、返事が滞っていた手紙への返信に費やした。
王都の方でもちょっとした混乱があったそうだが、辺境に詳細は伝わってこない。しばらくゆっくりしたいリディアには、その静けさがありがたかった。
今は日課になったルカの散歩中だ。庭を通り抜けて崩れかけた塔へ向かっている。
「そういえば、あの人はどうなったのかしら」
リディアは隣を歩くクラウスに話しかけた。
忙しくて忘れかけていたが、シビルはどこで何をしているのだろう。王都を離れる前、裁判があったはずだ。もう判決は出たのだろうか。
「……リディア。世の中には、知らない方がいいこともあるんだ」
クラウスはこちらを見ないまま、真面目な声で言った。
「どういうことですの?」
「彼女の最期については、父上とヘンドリックから教えてもらった。牢の中で……その、なんと言うか、かなり悲惨な死に方をしていたらしい」
「返ってきた呪いに耐えられなかったのね」
おそらくクラウスは詳細を知っている。表情が少しすぐれない。シビルのことを教えてくれないのは、クラウスの優しさだと思うことにした。
王都で起きた混乱は、シビルの死因に様々な噂や陰謀論が集まった結果だそうだ。
「そうですか。不思議なことではありません。他人を呪うということは、想像以上の労力を使うのですから。時間をかけて私へ送りこんだものを、一度に受け取ったのよ。精霊が力を削ったとはいえ、相当な威力だったでしょうね」
「末路を考えると、呪いなんて手を出すものじゃないな」
崩れた塔の入り口が見えるところまで来た。精霊の世界と繋がっていた扉は、すっかり沈黙している。人間が通ったことで、力を使い果たしてしまったらしい。数年は世界が繋がることはないだろう。
足元に瓦礫が増えてくると、クラウスが手を差し出してくれた。
この優しさはずっと変わっていない。結婚式ではリディアが歩く速さに合わせてくれた。辺境では会話こそ少なかったものの、リディアが暮らしやすいように気を遣ってくれる。もしクラウスが冷たい人だったら、初恋の人でも気持ちが冷めていただろう。
「精霊の世界はいかがでした?」
「二度と行きたくない。君が普通の令嬢とは違う理由がよく分かった」
「もう危険なことはしないでくださいね。次は片目では済まないかもしれません」
「さすがに何度も精霊と交渉するような事件は起きないだろうよ。君がまた呪われたら、その限りじゃないが……」
クラウスは遠くを見つめたまま、黙ってしまった。
「リディア。俺の見間違いでなければ、どこかで見たことがあるイスが馬のように走っているぞ」
「どこです?」
示された方向を見ると、確かにイスが走っていた。リディアが王城で襲撃者へけしかけたイスに違いない。
草原を軽快に走る姿は、仔馬のようだ。
「まあ。可愛らしい。ねえ、クラウス様。あの子をうちで飼いませんか?」
「むしろうちで引き取るべきだろう。あんなものを野放しにできるか」
察しがいいクラウスは、あれがリディアの仕業だとすぐに気がついてくれた。呆れた顔をしつつも、イスを捕獲するために草原へ向かう。
「私、クラウス様を好きになって良かったわ」
「はいはい。そういうことは、あのイスを捕まえてから言ってくれ」
「分かりました。では早急に捕まえますね」
リディアはルカにつけていた鎖を外し、イスを連れてくるよう命じた。走り出したルカがイスの進行方向へ回り込み、たくみにこちらへ誘導している。リディアが指示を出さなくても良さそうだ。
無言のまま、そっとクラウスの方へ距離を詰めてみる。意味はないが、何もせずただ待っているのはつまらない。
同じく無言のまま、クラウスが抱き寄せてくれた。心地よい沈黙だ。リディアは目を閉じて、伝わってくる温もりを感じていた。
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2025/07/20 佐倉 百




