67.アンの結婚相手
――あたし、グレンのことが好き
頭に湧いた想いを振り払うように、アンはふるふると頭を振った。零れる涙を拭うことはしない、化粧が落ちてしまうから。
気持ちを静めるために何度も深呼吸をする。大きく息を吸って、吐いて。また吸って、吐いて。
いくら後悔したところでもう遅い。アーサー・グランドとアン・ドレスフィードの婚約は結ばれた。婚姻証書に署名し、その現場を立会人に見られている以上、婚姻関係は強固な拘束力を持つ。
アーサー以外の誰かを想うことも、愛することも、もう許されないのだ。
罰、と言えばそれだけの話だ。
貴族としての責任をないがしろにして好き勝手に生きてきた。
乙女の恋心を利用して金を稼いできた。
アーサーにとって最善の結婚を台無しにした。
たった1人の相棒を信じられなかった。
たくさんの過ちに科された罰だ。
許されざる恋心は胸の内に秘め、アーサーの妻として生きていく。この命が尽きる日まで。
また涙が1粒、頬をつたって落ちた。
――と、温かな手のひらがアンの頬に触れた。温もりに誘われてついと視線を上げれば、何か柔らかな物が唇に触れた。
目の前にグレンの顔がある。キスをされているのだとすぐに気づいた。
アンは涙を流していることなど忘れ、大慌てでグレンの行いを諫めた。
「グ、グレン。キスの代行はさすがに不味いよ。ベールを上げるまではいいけどさ……」
そろりと後ろを見てみれば、聖堂内の人々は皆ぽっかりと口を開けていた。アンと同様、一体何が起こったのかわからないというように。
――グレン、これは最高に不味いよ。神聖な儀式がめちゃめちゃだよ
アンがそう言うよりも早く、グレンが雄叫びにも近い声を上げた。
「あー……もう! この馬鹿! 馬鹿アン! 何でこのタイミングで泣くんだ。俺はこの先の人生を、ずっとグレンとして生きていくつもりだったのに!」
「……ふぇ?」
アンはグレンの言葉の意味がわからずに呆然と立ち尽くした。
聖堂内の皆が見つめる中、グレンは前髪を掻き上げた。
碧眼がするどい光を放つ。
彗星のように、閃光のように。
薄い唇がゆっくりと開かれた。
「立会人セドリック・スミス」
静まり返った聖堂にグレンの声が響き、名前を呼ばれた立会人はびくりと身体を揺らした。
「……は」
「アーサー・グランドとアン・ドレスフィードの婚姻は結ばれた。ただちに宮殿へと赴き、その事実を国王フィルマンに伝えよ。ただし婚姻証書作成以後に起こった出来事については一切伝える必要がない。ただ『両名の婚姻が滞りなく結ばれた』と、最低限の事実のみを伝えること」
静かな声であるはずなのに、グレンの言葉はびりびりと脳味噌に染み渡った。
その感覚はまるで脊椎に雷を落とされたよう。恐ろしくて心地よくて、逆らうことなど考えられなくなる。
この感覚を人は何と呼ぶのだろう。魅了、愛慕、あるいは陶酔。その鮮烈な感覚を、アンは一生忘れることはない。
立会人セドリック・スミスは「はっ」と短い返事を残し、聖堂の出入り口へと向かった。足取りはしっかりとしているが、その表情は狐につままれたかのようだ。
やがてセドリックの背中は紅茶色の扉の向こうへと消え、聖堂内はまた静寂に包まれた。
レオナルドが、リナが、バーバラが、ジェフが、そしてアンが。次にグレンの口から紡がれるであろう言葉を、ただ静かに待っていた。
長い静寂を破りグレンは言った。
「皆には本当に迷惑をかけた。特にリナとユリウスには。リナ……愛弟の人生を奪ってしまったこと、心より謝罪する」
「謝罪など。初めから人の力を借りずしては生きられなかった命です。こうして私どもに居場所を与えてくださったこと、役割を与えてくださったこと、いくら感謝しても感謝しきれません」
リナはグレンに向かって深く頭を下げた。その様子は普段の2人の仲からは想像できない、まるで忠実な家臣が主に向かって首を垂れるようだ。
皆の思いを代表するように、レオナルドが尋ねた。
「殿下、お戻りになられますか」
グレンは静かな声で答えた。
「……ああ、戻る。もう過去から逃げるような真似はしない。アンがアーサーに生涯を捧げる覚悟をした。俺もいい加減、覚悟を決めないと」
皆の視線が一斉にアンの方へと向いた。
『部外者』から突然『場の中心人物』へと昇格したアンは、蜜柑色の頭を掻き乱し叫ぶ。
「ちょ、ちょっと待って。あたしを置いてけぼりにしないで。誰か最初から丁寧に説明してぇ!」
「アーサー殿下は確かに王者の風格をお持ちでしたが、その風格を隠すことにも長けておられました。だから彼が自ら本性をさらけ出すまで、誰もその風格に気が付かなかった。母親であるヘレナ様でさえも」34話お茶会よりレオナルドの言葉




