66.溢れる想い
レオナルドのエスコートを受けたアンは、聖堂の内部へと1歩立ち入った。
想像していたよりもずっと小さな聖堂だ。天井は一般的な住宅よりも少し高いくらいで、壁と床は全て真っ白な石造り。そこに紅茶色の長椅子が、左右合わせて10ばかり並べられている。
人が30人も入れば手狭になってしまうような、小さな小さな聖堂。
「アン様、どうぞお進みください。ゆっくりで構いませんから」
優しい声を聞いて、アンはその声のした方を見た。声の主はリナだ。両手でしっかりと扉を押さえているから、レオナルドの指示で扉を開けた者はリナだったようだ。亜麻色の髪は後頭部ですっきりとまとめられ、衣服は濃紺のフレアワンピース。
リナの優しい笑顔を見て、アンはふっと緊張を緩ませた。
アンとレオナルドがバージンロードを歩み出したとき、ぽろぽろと軽やかなピアノの音が聞こえ始めた。聖堂の最奥に位置する祭壇の脇で、肩を揺らしながらピアノを弾く者は老齢のバーバラだ。
元々音楽が得意なのかと思いきや、奏でられる音楽はどこかぎこちない。頻繁に音が外れるし、リズムも乱れ放題だ。
それでも楽譜と睨めっこしながら必死で入場曲を奏でている。他の誰でもなく、アンのために。
バージンロードを歩きながらアンは顔を綻ばせた。
「ふふ、あたしは幸せ者だなぁ」
レオナルドが小声でアンに問いかけた。
「何かお気に召すことがございましたか?」
「全部だよ。レオナルドは父親役をやってくれるし、リナは緊張を解してくれるし、バーバラは頑張ってピアノを弾いてくれるし……あ、ジェフは神父役なんだね。ジェフの前で永遠の愛を誓うのぁ」
長さが10mほどのバージンロードの先には、ただ木製の台を並べただけの小さな祭壇があった。祭壇の中央には講壇が置かれていて、ゆったりとしたローブをまとったジェフの姿がある。どうやら邸宅一老齢のジェフが、結婚式の司祭役を務めるようだ。
そして講壇の手前には――アーサーとグレンがいた。真っ白なタキシードを着込んだアーサーは、車椅子の上でうつらうつらと首を揺らしている。その車椅子を押す者が、品のいいグレースーツを身にまとったグレンだ。
レオナルドにリナ、バーバラにジェフ、アーサーとグレン。これでアーサー邸の住人が勢ぞろいしたことになる。
祭壇の真下にたどりついたとき、レオナルドがアンに促した。
「アン様。アーサー殿下のおとなりへ」
「……うん」
アンは名残惜しさを感じながらもレオナルドの腕を離し、アーサーの隣へと並んだ。
間もなくジェフのしゃがれ声が石造りの聖堂に響いた。
「アーサー・グランド、アン・ドレスフィード。あなた方は今日このときをもって、ティルミナ王国の法に認められた夫婦となります」
そこで一度言葉を区切り、車椅子に座るアーサーを見た。
「汝アーサー。あなたはアンを妻とし、喜びのときも悲しみのときも、健やかなるときも病めるときも、その命が続く限りアンを愛し抜くことを。果てなき路を共に歩き、苦難を乗り越え、幸を分け合い、死が2人を分かつ時まで傍に在ることを。婚姻の契約の元に誓いますか?」
「誓います」
アンははっと横を見た。
心神喪失状態のアーサーは言葉を語ることができない。アーサーの代わりに誓いの言葉を口にした者はグレンだ。
アンはグレンの横顔を凝視した。
結婚の誓いは続く。
「汝アン。あなたはアーサーを夫とし、喜びのときも悲しみのときも、健やかなるときも病めるときも、その命が続く限りアーサーを愛し抜くことを。果てなき路を共に歩き、苦難を乗り越え、幸を分け合い、死が2人を分かつ時まで傍に在ることを。婚姻の契約の元に誓いますか?」
アンは小さな声で答えた。
「……誓います」
「よろしい。では婚姻証書に署名を。まずは新郎アーサー」
ジェフの言葉を聞き、グレンはすぐに動いた。
講壇に置かれた羽ペンを手に取って、さらさらさら、と婚姻証書にペンを走らせる。署名を終えるまでには数秒とかからない。
「次に新婦アン」
名前を呼ばれたアンは、グレンと入れ違いで祭壇へのぼり、ティルミナ王国の国紋が刻まれた婚姻証書を見下ろした。
小難しい文言で書かれたその証書の末尾には、2人分の署名欄がある。署名欄の一つにはすでに『アーサー・グランド』の文字が刻まれていて、もう一つは空欄のまま。
アンは視線を上げ、聖堂内部を見回した。少し離れたところから祭壇を見つめるレオナルド、リナ、バーバラ。祭壇のすぐそばに立つグレン、車椅子に腰かけたままのアーサー。
そして今まで気付かなかったが、祭壇の脇にはアンの知らない人物が立っていた。ティルミナ王国の国紋が刻まれたダークスーツを着込んだその人物は、するどい眼差しでアンのことを見つめている。
恐らくその人物が『婚姻証書の作成を見届ける立会人』だ。彼の目の前で婚姻証書に署名をすることで、初めて証書は法的な効力を持つ。
アンは震える手で羽ペンを取った。
婚姻証書に署名をすればアンはアーサーの妻となる。永遠に王族の地位から逃れることはできない。
迷い、惑い、悩み、そしてついに空いた署名欄に自らの名を刻んだ。
――アン・ドレスフィード
「……結構です。新郎新婦両名の署名を持ちまして、本婚姻はティルミナ王国の法に正式に認められました。では儀式の最後に、誓いの口付けを」
口付け、とアンはつぶやいた。
動けないアーサーが相手なのだから、誓いの口付けはアンからする以外に方法がない。そうだとしても心神喪失状態の相手に、一方的に口付けをすることは気が引けた。もう法律上は夫婦なのだとしてもだ。
ウェディングベールが揺れた。
視界が一気に開けた。
動けないアーサーの代わりに、グレンがアンのベールを上げたのだ。
遮る者のなくなった視界の真ん中にグレンの顔があった。こんなに近くで顔を見たのはもう数か月振りのこと。朽ち果てた教会で己の罪を告白した、あの日以来のこと。
――何だかあたし、グレンと結婚するみたいだね
そう思えばふいに胸が熱くなった。
胸の内側からせり上がる想いは、大きな涙の粒となって瞳から溢れ、純白のウェディングドレスにいくつもの染みを作る。
泣いてはいけない、悔やんではいけない。心の中で必死に言い聞かせるけれど、一度頭に湧いた思いが消えることはない。
――あたし、グレンのことが好き
グレンとキスしたかった。
グレンと結婚したかった。
グレンとずっと一緒にいたかった。
けれどもいくらグレンを想ったところで、もう手遅れ。




