61.リナ
グレンに指定された2階南側の部屋は、邸宅で一番日当たりのいい部屋だ。邸宅の主であるアーサーは、1日の大半をその場所で過ごすのだという。
アンが部屋の扉を開ければ、そこにアーサーの姿はなかった。広い部屋の真ん中には、座る者のいないロッキングチェアがたたずんでいる。
そしてロッキングチェアのかたわらには、邸宅の使用人であるリナの姿があった。
「リナ……こんにちは。えーと、グレンにここへ来るように言われたんだけどさ。打ち合わせたいことがあるからって」
アンがたどたどしくそう伝えれば、リナはふんわりと微笑んだ。
「はい、私がお呼びしました。アン様が結婚式の開催に同意してくださるようであれば、今日のうちに採寸を済ませてしまおうと思って」
リナが当然のように言うものだから、アンは驚きに目を見張った。
「採寸って……まさかリナがウェディングドレスを作るの?」
「一から作るわけではありませんよ。既存のドレスを手直しするんです。アン様の背丈に合わせてすそや身幅を詰めて、スカートにはいくらか飾りを足そうかと」
アンは胸を撫でおろした。
「あ、そういうことね。びっくりしちゃった。どうぞどうぞ、胸でも腰でも好きなところを測ってよ。服は脱いだ方がいいかな?」
「いえ、着たままで構いませんよ。少し大きめに直しておいて、微調整は当日の朝に行いますから。結婚式までに体型が変わる可能性もあるでしょうし」
「んん。リナ、あたしの事よくわかってる。最近体重が増え気味なんだよ。母親があたしの好物ばっかり作るからさぁ」
「……では、少し大きめに直しておきましょうか?」
「そうだねぇ。ぜひそうして」
リナとアンは顔を見合わせくすくすと笑った。
ポケットから巻き尺を取り出したリナは、アンの身体を丁寧に図っていく。背丈、肩幅、首周り。袖丈にウエスト周り。
両手を広げる以外、これといってすることのないアンは、暇つぶしにリナに話しかけた。
「リナぁ。アーサー王子はお出かけ中?」
「バーバラと散歩に出ていますよ。今日は気持ちいい風が吹いておりますから」
「そっかぁ……確かにいい天気だね」
思わず視線を送った窓の外には、抜けるような青空が広がっていた。部屋の中にはそよ風が流れ込み、アンの髪とドレスのすそを揺らす。そしてリナの亜麻色の髪も。
日々の大半をアーサーの生活介助に費やすリナ。その献身ぶりたるや、母が子に無償の愛を捧ぐようだ。
――リナには弟がいるんだよ。小さい頃から身体が弱く、よくリナが看病をしていたらしい。だからリナは、アーサー王子に弟を重ねているんだ
それはかつてのグレンの言葉だ。
つまりリナにとってアーサーは愛する弟に等しい存在だということ。かけがえのない家族なのだ。
大切に守ってきた家族が結婚するというのは、一体どんな気持ちなんだろう。そよ風に吹かれながら、アンはそんなことを考えた。
「リナは……さ。アーサー王子の結婚相手、あたしでよかった?」
アンが小さな声で尋ねれば、リナは不思議そうな顔をした。
「なぜそんなことを仰います?」
「あたし、特技らしい特技が何にもないんだよ。ダンスはド下手だし、ピアノは『カエルの歌』しか弾けないし、乗馬や裁縫も最低限だしさ。1人暮らしをしていたから最低限の家事はできるけど、それって王族としては何の役にも立たないよね。口は悪いし、目つきは悪いし、どちらかと言えば幼児体型だしさぁ。こんなダメダメなあたしが、アーサー王子のお相手でよかったのかなって」
リナはすぐには答えなかった。質問に返す言葉を探しているようだ。
アンは鼓動を逸らせてリナの答えを待った。
「……アン様とアーサー殿下の結婚を周りの者がどう感じるのか、それは私には想像もつきません。けれども私個人の気持ちを語れば、アーサー殿下の結婚相手がアン様でよかったですよ」
「……本当?」
リナは力強くうなずいた。
「本当ですとも。なぜならアン様は、アーサー殿下を1人の人間として扱ってくださいます。心を失くしたアーサー殿下を蔑むことなく、見下すこともなく、対等な存在として接してくださるのです。私にはそれが何よりも嬉しい」
蔑まれることがあったのだろうか、とアンは思った。
恐らく幾度となくあったのだ。
一時期は王位継承筆頭候補とまで呼ばれた鬼才アーサー。光が影を作るのと同じように、羨望の裏には必ず妬みが存在する。
アーサーが心を失ったとき、ひどく悲しむ者がいた一方で、その失墜を喜ぶ者は一定数いたはずだ。例えばそれは他の王位継承候補であったり、彼らの支持者であったり。
宮殿から遠く離れた別邸で暮らすアーサーであるが、宮殿との繋がりが途絶えたわけではない。現に王子の数人は定期的に視察にやってくるのだし、かつての支持者が邸宅を訪れることもあるだろう。
抜け殻になったアーサーを目の前にして、彼らは何を言ったのか。好意的とはいえない言葉の数々を、リナはすぐそばで聞いていたはずだ。
アンはアーサーを蔑みはしない。哀れだと思うことはあるけれど、存在を見下すようなことは絶対にしない。
なぜならアンとアーサーは似た者同士だから。心を失くし宮殿から追放されたアーサー。『一族の恥さらし』の烙印を押されるアン。アーサーを蔑むことは、アンにとって己を蔑むことと同じなのだ。
「他の人たち……レオナルドやバーバラやジェフもさ。あたしでよかったと思ってくれているかな」
リナは、今度は迷わずに答えた。
「間違いなく思っていますよ。皆、表立って口には出すことはしませんが。『アン様をアーサー殿下の結婚相手にする』と宮殿から手紙が届いた夜、ジェフは好物のラガービールを5本も空けておりました。翌日、バーバラは邸宅中の窓をぴかぴかに磨き上げ、レオナルドは朝から晩まで庭で剣を振り……」
「か、感情の表現方法が独特だね、皆……」
「私が結婚式の発案をしたときも、反対意見は何一つ上がりませんでした。状況が状況ですから、式の規模や演出はかなり制限されてしまいます。それでもアン様に喜んでいただこうと、皆が工夫を凝らしておりますよ」
リナが力強く言い終えたとき、ちょうど採寸が終わった。レオナルドとローマンを待たせているのだから、採寸が済めば早急に応接室に戻る必要がある。
そうはわかっていても、アンにはまだこの場所を立ち去れない理由があった。もう一つだけ、リナには聞かなければならないことがあるからだ。
「リナ……もう一つだけ聞いてもいいかな。ずっと気になっていたことなんだけど」
「何でしょう?」
アンはリナの表情をちらちらとうかがいながら、小さな声で尋ねた。
「リナってさ……アーサー王子のこと、す、好きだったりする?」
リナは微笑みを浮かべたまま、亜麻色の目をまたたいた。
「それは主としてお慕いしている、という意味ではなく?」
「そうじゃなくってぇ……恋愛感情として好きってこと」
アンが消え入りそうな声で言い直せば、リナは間髪入れずに答えた。
「私のアーサー殿下に対する感情は、主に向ける敬愛の情に他なりません。決して『結婚したい』などとは思いませんよ」
「……そっか。それならよかった」
そしてまた時が過ぎる。




