60.使用人A
アンとローマンがアーサー邸を訪れたのは、姉妹の会合から1週間後の出来事だった。
来訪の目的は結婚前の顔合わせ。
とはいえアンとローマンはすでにアーサー邸の人々と面識があるのだから、今さら仰々しい自己紹介は必要ない。邸宅の住人に形ばかりの挨拶を済ませた後は、レオナルドと3人でお茶の時間だ。
茶会が始まって少し経った頃、レオナルドがやり切れない表情で謝罪した。
「アン様。結婚式については本当に申し訳ありませんでした」
アンは茶菓子を片手に聞き返した。
「えっと……結婚式を開催できない、という話ですか?」
「そうです。その件については、我々も抗議の声を上げたのです。しかし結局聞き入れられることはなく……」
しょげかえるレオナルドは、水をぶっかけられた直後の大型犬のよう。アンは笑ってレオナルドの言葉をさえぎった。
「あたしは気にしていませんよ。真っ白なウェディングドレスでバージンロードを歩きたい、なんて熱い思いもありませんし」
「……そう言っていただけると、私どもも救われる思いです」
レオナルドが力のない笑みを浮かべたところで、すかさずローマンが口を開いた。
「バトラー殿。実はアンの結婚に合わせて、限定ラベルのワインを販売する予定でいる。ラベルにアーサー殿下の御名を入れさせていただいてもよろしいか?」
レオナルドは口調を改めて答えた。
「王族の名を記名した商品を販売する場合には、事前に国家の承認を得る必要があったはずです。審査をするのは宮殿の一部署ですから、不許可となる事例は多くないと存じます。こちらで書類を一式ご用意いたしましょうか?」
「ああ、ぜひお願いしたい。ワインが完成した暁には、この邸宅にも1ケースお届け致しましょう。そのうちの1本はぜひフィルマン殿下に――」
おっさん2人の雑談を横目に見ながら、アンは「お手洗いに行ってきます」と断りを入れて席を立った。急激な尿意をもよおしたのではなく、単なる暇つぶし。
応接室を出たアンは、人気のない廊下をのんびりと歩く。客人がお手洗いに向かうというのに案内人はいない。アンが「1人で自由に邸宅内を歩いてもいい客人」として皆に認知されている証拠だ。
アンの足がお手洗いの前に差しかかったとき、少し離れたところから懐かしい声がした。
「アン様。少しお時間を頂いてもよろしいでしょうか」
そうアンを呼び止める者はグレンだ。挨拶のときにほんの一瞬だけ顔を合わせたけれど、2人きりで言葉を交わすのはおよそ1か月半ぶりのこと。
つまりは例の懺悔以来のことだ。
アンはおっかなびっくり口を開いた。
「グレン……久しぶりだね。元気にしてた?」
グレンほ淡々と答えた。
「ここ1か月半ほどでいえば、身体に不調はございません」
「お仕事は順調かな。あたし、余計な仕事を増やしちゃったけど……」
「ハート商会に関する一連の事件については、間もなく宮殿より正式な発表がございます。まだ非公表の情報ですので、私の口からの報告は差し控えさせていただきます」
グレンは眉一つ動かすことなく語る。以前の表情豊かなグレンと比べれば、まるで別人のような不愛想さだ。
歩み寄ることを拒まれているようで、アンは悲しくなった。
「グレン、何で今日はそんなに他人行儀なの? いつもみたいにしゃべってよ」
「申し訳ございません。私は邸宅に仕える一使用人。アーサー殿下の妻となられるアン様を相手に、無礼な物言いをするわけには参りません」
「そんなの……気にしなくてもいいのに」
アンの悲しげな表情など気にかけることもなく、グレンは「さて」と声の調子を変えた。
「雑談はこのくらいにして、本題をお話しさせていただいてもよろしいでしょうか」
「……いいよ」
まだまだ話したいことはたくさんあるけれど、人形のように無表情なグレンを前にしては大人しくうなずくことしかできなかった。
「アン様とアーサー殿下の婚姻におかれましては、宮殿側の事情により公的な結婚式が不開催となりました。つきましては邸宅の使用人の発案により、婚姻証書作成の折に私的な結婚式を企画しております。非常に簡易的な儀式になるとは予想されますが、このまま準備を進めてもよろしいでしょうか?」
早口で語られる難しい単語の羅列に、アンはぽかんと口を開けた。
「えっと……ごめん。つまりどういう意味?」
「宮殿主催の結婚式が叶いませんでしたので、私どもの方で勝手に結婚式を企画してもよろしいでしょうか、という意味です」
――なら初めからそう言ってくれればいいのに
アンは不満を覚えた。
わざわざ難しい言葉を選んで語ることなど、以前のグレンならば絶対にしなかった。まるでアンとの間に見えない壁を作ろうとしているようだ。
「……それ、どこでやる予定なのかな」
「邸宅から馬車で15分ほどの場所にある小さな教会です。飲食物を持ち込まず、大勢の人を集めないのであれば、無償で聖堂を利用してもいいと司祭の許可を得ております」
アンは少し考えた後、尋ねた。
「あたしの家族は、結婚式に呼べる?」
「いえ。結婚式の参列者は新郎新婦と、新郎の介助および儀式の進行を担う邸宅の使用人。それに婚姻証書の作成を見届ける立会人のみとさせていただきます。アン様の親族には、社会に多大な影響力を持つ方が多数いらっしゃいます。極力目立たずに結婚式を開催したい、という我々の意向をどうかご理解ください」
全くその通りだね、とアンは肩を落とした。
アンの家族と言えば、第1にリーウワインの販路拡大に尽力する父ローマン。第2に娘想いの母エマ。第3に大貴族モーガン家へと嫁いだ姉アリス。第4に国内屈指の音楽家として精力的に活動する姉アメリア――なお夫であるテオ・ジェンキンスも同様に音楽家である。
アリスが結婚式に参列することになれば、夫であるダニエル・モーガンと2人の子どもも同伴は避けられない。
テオ・ジェンキンスについても同様で、さらにアメリアは結婚式の音楽担当をさせろと言い出すはずだ。
エマはアンのために手製の菓子を作りたがるだろうし、祝いの席となればローマンが黙っているはずもない。
アンが『宮殿にはナイショの結婚式だから、目立たないようにしてね』と言い含めても、目立たずに済むはずがないのである。
また結婚式への参列者が増えれば、どうしたって裏方に人が必要となる。アリスの子どもの面倒を見る世話人、アメリア専属の調律師、各家の御者、荷物の運搬を担当する使用人、その他諸々。
そうなってしまっては「大勢の人を集めないのであれば」という教会の使用条件を満たすことができなくってしまう。本末転倒だ。
「そっか……うん、わかった。それでいいよ。家族には、結婚式をすること自体内緒にした方がいいかな」
「アン様の判断にお任せいたします。またお手数をおかけしますが、いくつか打ち合わせたいことがありますので、2階南側の部屋へお立ち寄りください。ローマン候には私の方から伝えておきますゆえ」
そう早口で言い切るや否や、グレンはアンの元を立ち去ろうとした。微笑み一つ見せないまま。
――待って、まだ話したいことがたくさんあるよ
アンは去り行く背中に手を伸ばした。
「グレン。ちょっと待って――うぎゃっ」
つまづき、転倒。
盛大にすっ転んだアンは、あわや硬い床に顔面を打ち付けるところだ。
アンの悲鳴を聞いてほんの一瞬だけ振り返ったグレンは、まるで何事もなかったかのようにすたすたと歩み去って行く。
残されたのは床に座り込んだままのアンと、転んだ拍子に脱げてしまったヒール靴。凶器のようなピンヒールは、まだ履き慣れない。
「……待ってって言ってるのにさ」
アンがそうつぶやいたとき、もうそこにグレンの姿はなかった。




