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59.ドレスフィード一家

 アンが父であるローマンに書斎へと呼び出されたのは、ハート商会の大事件から1か月が経った日のことであった。


 私室で身なりを整えたアンは、ここ1か月の間にすっかり歩きなれた廊下をトタトタと音を立てて歩く。


 1か月前。朽ち果てた聖堂でアーサーの妻となることを宣言したアンは、最低限の荷物をまとめ父母の元へと帰った。

 そして詳しい事情を説明することは避け、ただ「体調が優れないから、しばらくの間実家に住まわせてほしい」と頼んだ。

 

 母エマはアンの帰宅を喜び、父ローマンも無表情でアンの頼みを受け入れた。

 元からティルミナ王国の貴族の間では、未婚の子息子女は両親と同居することが普通である。いわばアンは、本来あるべき生活に戻っただけなのだ。


 繁華街の住宅には、ここ1か月の間に1度も足を運んでいない。エマに頼んで家賃だけはしっかりと払っているけれど、住宅内の荷物は全てそのままだ。野菜かごに入れた玉ねぎも、読みかけの本も、物干し竿に干したままのタオルも、全てそのまま。

 

 いつかは片付けにいかないと、とは思うのだけれど。


 ウォルナット色を基調と書斎で、ローマンは悠然と椅子に腰かけていた。そして感情の読めない仏頂面でアンを見据えると、唐突に話し始めた。


「先ほど、ティルミナ王国の宮殿より手紙が届いた。手紙の内容は……わかるか?」


 アンは無感情に答えた。


「……いえ、わかりません。何でしょう」

「アーサー殿下の結婚相手にお前が選ばれたということだ。延いては顔合わせのために、一度アーサー殿下の元を訪れてほしいと言う。私の方で日程を調整して構わないな?」

「構いません。急ぎの用事はありませんから」


 アンが淡々と返事をすれば、ローマンは意外そうに目を見開いた。


「ずいぶんと物わかりがいいじゃないか。王族との結婚など御免だと、駄々をこねるものだと思っていたぞ」

「駄々をこねたところで決定はくつがえらないでしょう。そのくらいのことは理解しています」


 ローマンはふん、と鼻を鳴らしアンから視線を逸らしてしまった。用は済んだ、と言わんばかりだ。


「アリスとアメリアには私の方から手紙を送っておく。お前は引き続き、素行不良と思われぬ生活を心がけること」

「……はい」

「一族の恥さらし者かと思っていたが、最後の最後で役に立ってくれた。出来損ないの娘でも、王族との橋渡し役となれば上出来だろう」


 嫌味たっぷりの誉め言葉は聞かなかったことにして、アンはローマンの書斎を退出した。


 ***


 それから数日と経たず、姉であるアリスとアメリアがそろってアンの元を訪れた。ドレスフィード邸の庭にある真っ白なガゼボの下に、3姉妹が大集合。こうして姉妹が集まるのは、アメリアの結婚式以来のことである。


 テーブルの上には山盛りの菓子。

 ポットに注がれた紅茶とコーヒー。

 曇天模様の空の下、先陣を切る者は次女アメリアだ。


「アン、アン、アーン! パパから届いた手紙の内容、あれ本当なの? アンがアーサー王子の結婚相手に選ばれたってさ。冗談ではなくて? アンは王族になっちゃうの⁉」

「ア、アメリア姉さん、落ち着いて。親父の手紙は本物だよ。あたし、王族の仲間入りをするみたい」


 アンが肯定の言葉を口にしたことで、アメリアはさらにヒートアップする。


「全っ然納得できないんだけどさ! 何でアンが選ばれるのぉ? アーサー王子の結婚候補者って、イイとこのお嬢様がそろってたんでしょ? それこそドレスフィード家なんて掃いて捨てられちゃうくらいのさ」


 アンはできるだけ落ち着いた口調で説明した。

 

「イイとこのお嬢様はそろっていたけど、問題令嬢ばっかりだったらしいよ。繁華街で遊び歩いているようなご令嬢も多かったって話。あたしはその中で一番まともだったんじゃない」

「アンなんて繁華街に住んでたじゃん! 口は悪いし、ダンスはド下手だし、ピアノなんて『カエルの歌』しか弾けないしさぁ。おっぱいだってぺっちゃんこだし……」

「……おっぱいは別に関係なくない?」


 アンは控えめな胸元にそっと手のひらを添えた。

 なお胸のサイズで言えば、アメリアとアンはどんぐりの背比べというところである。


 アメリアに続き、アリスが控えめな口調で問いかけた。


「アン。私とアメリアは、アンの結婚を祝福していいのかしら?」


 アンはさらりと返事をした。


「祝福される分には構わないよ。変に気をつかわれる方がつらいかな」

「そう……」

「モーガン候にもそう伝えておいて。ついでに『可愛い義妹(いもうと)の結婚祝い、大奮発でお願いします』ともさ」


 アンがおどけて見せると、アリスは安心したように微笑んだ。

 以前会ったときはつわりで苦しんでいたアリス。つらい時期は無事に脱したようで、今日はちまちまと茶菓子をつまんでいる。腹部の膨らみはまだささやかで、言われなければ妊婦とは気がつかないだろう。


 少し興奮が落ち着いた様子のアメリアが、にこにこしながらアンに話しかけた。


「ねぇねぇアン。結婚式はいつになるのかな? 決まったら早めに教えて欲しいんだよ。アンの結婚式では、絶対に私が入場曲を弾くんだから。他の人を雇わないでよね」


 楽器の演奏を得手とするアメリアは、幼少時からイベントごとの音楽担当であった。ドレスフィード家が開催する夜会では、多種の楽器を用いてバックミュージックを奏で続け、誕生会や新酒の試飲会でも同様だ。

 アメリア自身、友人とのおしゃべりよりも楽器を奏でることが好きな変わり者であったから、それで不都合もなかったのだ。


 アリスの結婚式で入場曲を奏でたのもアメリアだ。その流れを引き継ぐのならば、アンの結婚式の入場曲も当然アメリアにお願いすべきなのである、が。


 アンは申し訳なさそうに肩をすくめた。


「あー……アメリア姉さん、ごめん。宮殿からの手紙に書いてあったんだけど、結婚式はやらないみたいなんだ……」


 アメリアとアリスは心底驚いた表情である。王位継承権はないに等しいといえ、王子が妻を迎えるのだから、当然大々的な結婚式が催されるものだと思っていたのだ。

 

 アメリアが烈火のごとく声を上げた。


「何でぇ⁉ 何で結婚式、やらないの⁉ アーサー王子が『捨てられた王子様』だから?」

「う、うーん。ちょっと理由はわからないんだけどさ……」


 そう言葉を濁すアンであるが、結婚式が開催されない理由については見当がついていた。

 恐らく、他の王子らがそう望んだのだ。結婚式の主役であるアーサーは、かつては王位継承筆頭候補とまで呼ばれていた人物だ。アーサーが抜け殻となってしまった今も、多くの王子が彼の復活を恐れている。


 恐れているからこそ、王子らはアーサーの元に人を集わせたくはない。「捨てられた王子アーサー・グランド。どうかそのまま目立つことなく、ひっそりと王位継承の椅子から下りてくれ」それが王子らの共通の思いなのだ。


 のほほんとお茶をすするアンであるが、アリスは瞳に涙を浮かべアンを問い詰めた。


「お父様とお母様は何も言っていないの? 第2王子であるオリヴァー殿下が結婚されたときには、大規模な結婚式が開催されたでしょう。確かお父様も参列しているはずよ。同じ王子だというのにあんまりな差だわ」

「親父の気持ちはよく分かんないけど、母さんは怒ってたよ。『大切な娘を嫁がせるというのに、あんまりな扱いだ』って。あの母さんが、珍しく親父に食ってかかってたからね。『宮殿に抗議の手紙を送れ』ってさ」


 アリスは神妙な顔つきで尋ね返した。

 

「……それで、お父様は本当に抗議文を送ったの?」

「さぁ……その後のことは知らない。でも何かしらの手紙は送ったんじゃないかなぁ。ほら、親父は仕事人だからさ。あたしとアーサー王子の結婚式なんて、王族相手にリーウのワインを勧める絶好の機会じゃん。何とかこの機会を物にしたいと考えているはずだし、結構頑張ってくれるんじゃない。あたしのためじゃなくて、リーウのワインのために」


 アンは格子模様のクッキーを口に運ぶ。さくさくさく、口の中に広がるバターの香りりこれは母エマの手作りだろうか。


 すっかりおやつモードのアンを前に、アメリアとアリスは顔を見合わせた。


「……アン、自分の結婚を他人事だと思ってない? こんな散々な扱いをされているんだから、もっと怒りなよ」

「散々、かなぁ」

「散々だよ。ウェディングドレスを着られないだなんて乙女心の危機だよ。一般人同士の結婚なら好きにすればいいけど、うちは貴族の家なんだからね。しかも結婚相手は王族。王国で一番大きな教会を貸し切って結婚式をしろよぉー! 私に入場曲を弾かせろぉー!」


 アメリアの魂の叫びを聞いて、アンは思わず吹き出してしまった。雄叫びを聞いた数人の使用人が、慌てた表情でガゼボの方へと駆けてきて、それがまた一層笑いを誘う。


 ――散々、かなぁ

 何だかよくわからない。心の一部分が麻痺してしまったみたい。

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