56.神の御許で
教会の内部は外観と同じく荒れ果てていた。壁の塗装は剥がれ、床には大量のほこりが積もり、淀んだ空気が立ち込めている。
くすんだ大理石の床には朽ちてボロボロになった長椅子が何脚も置かれているから、ここはかつて聖堂だったのだろう。煤にまみれたステンドグラスが、荒れ果てた教会の内部を妖しく見下ろしていた。
「よかった、とりあえず雨風はしのげそう。グレン、ここでしばらく休憩しようよ」
アンは息を切らしながらグレンに語りかけた。
ハート商会の関係者が、シャルロットに暴行を働いた犯人として、アンとグレンを探している可能性は捨てきれなかった。それでも覚束ない足取りで林道を歩いているよりは、教会に籠城していた方がよほど安全だ。
教会の出入り口は1か所だけで、扉を開けば派手な音が鳴る。そこから追手が入りこめば嫌でも気がつくだろう。屋内には身を隠す場所がたくさんあるし、武器になりそうな板切れもそこかしこに落ちている。
いざとなれば釘の突き出した板切れで横面を張り倒してやる、とアンは鼻息を荒くするのであった。
ひとまず武器になりそうな板切れを引き寄せて、アンはグレンの首元に手のひらをあてた。火の玉のような熱さだ。
「グレン……体調はどう?」
アンが優しい調子で問いかければ、グレンからは舌足らずな声が返ってきた。
「体調は最悪。お前、俺から離れてどっか適当なところに隠れてろ」
「何で?」
グレンは虚ろな瞳でアンを睨みつけた。
「俺が何の薬を飲まされたのかよく考えろよ。このまま俺のそばにいて無事で済むと思うなよ」
確かにそうだ、とアンは思った。
シャルロットは自身の魔法について「他者を興奮状態に陥らせる薬を創り出す」ことだと説明した。性的興奮を何倍にも助長させ、人を快楽の海に沈める薬だ。
グレンが強引にその薬を飲まされたのだとすれば、アンが無事でいられる保証はない。
しかし――
ばらばらと雨粒が屋根を叩き始めた。幸いにも風は強くないようだが、このまま悪天候が続けば、今夜中に町へたどり着くことは不可能だ。
それはつまり、2人がこの廃教会で一晩を明かさなければならないということだ。灯り1つない朽ちかけた廃墟の中で。薬に身体を侵されたグレンは、どれだけ不安なことだろう。
雨音に掻き消されないようにと、アンは大きな声で謝罪した。
「グレン、ごめんね。あたし、グレンには本当に悪いことをしたと思ってる。サバトになんか参加しなければよかった。欲を出さずにすぐ家に帰ればよかった」
グレンは舌足らずで答えた。
「……その件は別にいーよ。シャルロット嬢の本性も明らかになったことだし、結果オーライだ」
「ク、クロエは散々な目に合うし、グレンは薬のせいでへにゃへにゃだしぃ……」
「お前だってシャルロット嬢にまさぐられたんだからお互い様だろうが。気にしなくていいって、本当に」
薬の効果でもうろうとしたグレンは、いつもよりもずっと優しい。その優しさがアンを苦しめた。
アンがハート家の別邸に乗り込んだ1番の目的は、ドリーを魔女の妙薬から救い出したかったからだ。
グレンが気付くよりも先にドリーを魔女の妙薬から引き離せば、運命を元のレールに戻すことができると思ったから。皆にとって理想的な未来を守ることができると思ったから。
ドリーに魔女の妙薬を手渡したという己の罪も消えると思ったから。
結局は自己満足だったのだ。自分が悪者になりたくなかっただけ。身勝手に行動した結果、相棒であるグレンにばかり負担を強いてしまった。
だからこれは、せめてもの罪滅ぼしだ。
「本当に、グレンには悪かったと思ってるの。だからグレンの好きなようにしていいよ。少しくらい痛くても我慢するからさ」
そう言ってグレンの頬に触れた。
碧色の瞳の内側で、情欲の炎が揺らめいた。
「後悔するなよ」
「……しないよ」
そうして幾度となく求め合う。
朽ち果てた廃墟の中で。神の御許で。




