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55.宴は終わり

 勢いよく握りこぶしを振り上げたグレンであるが、その硬いこぶしでシャルロットの顔を打つことはしなかった。


 一瞬の間にこぶしを解いたグレンは、手のひらの付け根部分でシャルロットの顎先を打った。いわゆる掌底打ち、というやつだ。脳が揺れるため意識を失うことは避けられないが、目立った外傷は残らない。

 

 掌打を食らったシャルロットはベッドへと崩れ落ちるものの、人形のような顔には傷1つついていない。


 部屋の中は途端に静寂となり、グレンは開口一番アンに怒鳴りかかった。


「この大馬鹿野郎! やすやすと捕まってんじゃねぇよ!」


 まさか怒鳴られると思わなかったアンは、とっさに言い返した。


「お、怒らないでよ! あたし悪くないもん。目を覚ましたらここにいたんだもん!」

「捕まるならせめて何かしらの痕跡残せや! 死ぬ思いでサバトの会場に戻って見れば、どこにも姿が見えないしよぉ……この部屋を探し出すことがどれだけ大変だったと思う⁉」

「……だから気絶してたんだってば」


 再会の言い合いはそこで終わり。グレンはベッドの脇にしゃがみ込むと、アンの手足の拘束を解いた。アンにとっては久しぶりの自由だ。


 ――と、アンの身体はぬくもりに包まれた。グレンに抱きしめられているのだとすぐに気づいた。


「な、なに?」

「心配したんだ。本当に」


 グレンらしくない弱々しい声が耳に流れ込んできた。


 アンはグレンの背中を優しく抱きしめ返した。その温かさに涙が零れそうになるのは、今日という1日があまりにも長かったからだ。クロエと一緒に馬車に乗っていた時間が、まるで数か月も昔のことのように思い出されてしまう。


「グレン、ありがとう。助けに来てくれて」

「死ぬほど感謝しろ、馬鹿」


 子猫が母猫にじゃれつくように、グレンの首元に頬をすりよせれば、その首元が尋常ではない熱を持っていることに気がついた。


「グレン。身体、熱いよ」

「んー……? ああ、多分さっき飲まされた薬が効いてるんだ。全部吐き出したと思ったんだけどなー……」


 つぶやくグレンの身体からは、どくどくと激しい鼓動が伝わってくる。アンは泣きそうな声で問いただした。


「サバトの会場で何があったの? さっき『死ぬ思いでサバトの会場に戻った』と言ったけど、もしかして魔女帽子のスタッフに見つかっちゃったの? 薬はそのときに飲まされたの?」


 サバトへの参加を決めたのはアンだ。クロエに向かって「円卓の下に隠れたら」と提案したのもアンだ。もしもクロエが会場スタッフからひどい目に合わされたのだとしたら、それは全てアンの責任だ。


 アンの罪悪感を見透かしたようにグレンは言った。


「お前が罪悪感を抱える必要はない。一度は捕まったけど、うまく逃げ出したんだから結果オーライだ」

「……どうやって逃げ出したの?」


 グレンの仮の姿であるクロエは、男性の理想を体現した姿だ。

 サバトの会場にいた男性スタッフがクロエを捕らえたのだとしたら、クロエのことをただ縛り上げておこうなどと考えるだろうか。理性を忘れさせる薬を飲ませ、欲望の捌け口にしてやろうとは考えなかったのだろうか。


 もしもクロエが、その淫らな行為の最中に男たちの隙を突いたのだとすれば――?


 グレンの大きな手が、アンの頭をわしわしと掻き乱した。何も考えるな、というように。


「いいんだよ、もう。全部終わったことだ。クロエは俺にとってただの着ぐるみ。何をしても、何をされても、他人事のようにしか感じねぇんだんわ。元からバンバン色仕掛けを使うつもりであの容姿にしたわけだしさ」


 それから夜闇を映す窓ガラスを指さして言った。


「話は終わりだ。誰かに見つかる前にとっとと逃げるぞ」


 アンはきょとんと目を丸くした。


「……逃げるの? ハート候のところには行かなくていいの?」

「俺たちはただのスパイだ。悪をさばく正義のヒーローじゃない。魔女の妙薬の製造方法はわかった、現物も手元にある。あとはしかるべき手段で、しかるべき組織に調査を依頼すればいい」


 グレンの声を聞きながら、アンはぼんやりと部屋の中を眺めた。

 

 部屋の扉は激しく壊れていて、下着姿のシャルロットはベッドに倒れ伏している。もしもシャルロットの本性を知らない者がこの部屋を見れば、「サバトの会場から抜け出した不埒な輩が、シャルロットに強姦行為を働こうとした」と勘違いしてもおかしくはなかった。


 長居は無用。そのことを理解したアンは、グレンの意見に同調しうなずいた。


「うん、わかった。すぐに逃げよう」


 そしてシーツとカーテンを綱代わりにして、夜の園庭へと逃げ出した。


 ***


 ひんやりと冷たい風の吹き抜ける夜だ。広い園庭にはコロコロと虫の鳴き声が響き、吹き抜ける夜風がざざぁ、と音を立てて芝生を揺らす。

 アンがベッドの上で目覚めたとき、窓の外には澄んだ夜空が広がっていたが、今は厚い雲が夜空をおおい始めていた。


 ――雨が降らないといいけれど

 人気のない園庭を走り抜けながら、アンはそんな不安を覚えていた。


 園庭を走り抜けたアンとグレンは、今度は薄暗い林道を歩き始めた。その道を進んでいけば、馬車で30分ほどのところに小さな町がある。人の足では少し時間はかかるけれど、1時間半もあればたどり着くことができるだろう。

 町に着けば宿をとることができるし、人ごみに紛れてしまえば追っ手に捕まる心配もない。


 初めのうちは順調と思われた脱出劇だが、じきに暗雲が垂れ込んだ。グレンの足取りがおぼつかなくなり始めたのだ。呼吸は荒く、手足は震え、そして額には大きな汗の粒がいくつも浮いている。横を歩いているアンは寒いくらいだというのに。


「グレン、大丈夫? 薬が効いてる?」

「結構、効いてる。ふらふらする」

「どうしよう……まだ町はずっと先だよ。少し休む?」


 アンは首を伸ばして林道の先を見つめた。どこまでも伸びる1本道の先に、まだ町の灯りは見えない。

 グレンは両膝に手のひらを置き、苦しげに呼吸をしながらも、力強く行く先を見据えた。


「いや、今はとにかく先に進もう。身体が動くうちに、少しでも別邸から離れたい」

「……そう? 無理はしないで、つらくなったらすぐに言ってね」


 アンはグレンに寄り添い、また1歩2歩と先に進む。ペタペタと裸足の足音が夜闇に響く。


 今のアンは素肌に男物のシャツを着ただけという格好だ。靴も履いていない。客間から逃げ出す前に、クローゼットの中身は一通り覗いたけれど、アンが着れそうな服や靴を見つけることができなかったためだ。


 一方のグレンは白い長袖シャツに黒いズボンを合わせている。会場スタッフから奪い取った物だろう、とアンは予想していた。しかし靴は合う物がなかったのか、足は裸足のままだ。


 そうした奇妙な格好だからこそ、追っ手がかかる前に少しでも別邸を離れたかった。もしもハート家の関係者に捕まれば「私たちは夜の散歩を楽しんでいただけです」と言い逃れることはできないから。


 だからグレンは重たい身体を引きずって、アンはグレンの身体を支え、暗い林道を懸命に進む。


 しかし結局、その先は500mと進むことができなかった。ぱたりと歩みを止めたグレンが、うめき声をあげて地面に崩れ落ちてしまったからだ。


 アンは涙声でグレンの身体を揺さぶった。


「グレン、やっぱり少し休もう。ここは目立つから、近くの森の中に隠れてさ……」


 冷えた手にぽつり、と冷たい雫が落ちた。雨が降ってきたのだ。夜風で冷えた身体に、靴を履かない足に、次から次へと雨粒が落ちる。


 最悪、とアンはつぶやいた。

 

 雨に打たれれば身体が冷える、身体が冷えれば体力を奪われる。まだ町まではかなりの距離があるというのに、無駄に体力を消耗するのは自殺行為でしかない。

 グレンの体調によっては、森の中で一晩を越さなければならない可能性も捨てきれないというのに。


 どこか雨風をしのげる場所を探さなければと、アンは四方八方に目を凝らした。そしてそのうちに、森の中にたたずむ建物を見つけた。


「あ……教会がある。そうだ、教会があるよ。あそこで雨宿りをしよう」


 それは昼間、馬車の中から眺めた石作りの建物だった。建物の窓には板が打ち付けられており、敷地内の草木も伸び放題。もうだいぶん前に廃墟となった様子のその建物は、三角屋根の中央に小さな鐘楼をのせ、外壁には神の存在を示す十字模様が刻まれていた。


「グレン、もう少しだけ頑張って。そうすれば屋根のあるところで休めるから……」


 アンはグレンの身体を引きずるようにしてまた歩き出した。

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