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47.あなたが傍にいてくれて

 浴室を飛び出したアンは、全裸のままダイニングルームへとやってきた。

 まず目に入った物は、ダイニングテーブルにのせられた薄桃色の小瓶。アンはその小瓶を両腕でしっかりと抱きかかえると、安全な隠し場所を探して室内をうろうろと歩き回った。


 ――まずは魔女の妙薬をグレンから遠ざけないと

 アンの頭の中はその思いでいっぱいだった。


「おいアン。何なんだ、お前は」


 背後で不機嫌な声を聞き、アンはまりのように飛び上がった。怖々と振り返って見れば、リビングの入口には腰にタオルを巻いたグレンが立っていた。

 

 アンはグレンの股間を数秒凝視した後、ためらいがちに口を開いた。


「グレン、あのさ……何ともない?」

「何ともないって、何が?」

「だからその……ムラムラしたり、頭がボーっとしたりはしないかなって」

「何で飴玉食ってムラムラすんの?」


 グレンは訳がわからない、といった様子だ。

 

 アンの中にはしだいに罪悪感が湧き上がった。ドリーの一件とは異なり、今回の事故は100%アンの不注意により起こったもの。事前に魔女の妙薬のことを話していれば、絶対に起こることはなかった事故なのだ。

 真実を隠そうとしたために、グレンが危険な薬を口にしてしまったとなれば、責任を感じずにはいられなかった。


 もう全てを正直に話すしかない、とアンは小瓶を抱く手に力をこめた。


「実はこれ、ただの飴玉じゃないんだ。『魔女の妙薬』と呼ばれる薬なの。飲むと頭がボーっとして、すごくムラムラしちゃうんだって。グレン……今のところ体調に変化はない?」


 不安いっぱいのアンが問いかければ、グレンはこれみよがしに不愉快そうな顔をした。


「お前さぁ……何でそういうこと、初めから正直に言わないわけ? 新商品の飴玉だとか、瓶がお洒落で女性に人気だとか、適当なことばっか言いやがって」

「ご、ごめん。それでその……身体は大丈夫?」

「そう言われてみれば、ちょっと顔がほてってるわ。何か腹の中もムズムズするし。これってその魔女の妙薬とやらの効果か?」


 グレンがひたいを押さえてよろけるものだから、アンは泣き出しそうになった。


「そ、そうだよ。きっとそうだよ。どうしようどうしよう、グレンが廃人になっちゃうよぉ……」

「廃人? それ、そんなにやばい薬なのか?」

「やばいよやばいよ。超絶やばいよ。1粒の効果が強いという意味じゃなくて、依存性があるんだよ。段々と服用量が増えていって、しまいには薬を飲むことしか考えられなくなっちゃうんだ。大切なことが全部どうでもよくなっちゃうんだよ。うわぁぁん、ごめんねグレン。あたしがきちんと説明しなかったばっかりに……」


 アンは小瓶を取り落とし、グレンの腕の中へと飛び込んだ。裸の胸元に頬をすりよけて「アーサー王子のこともレオナルドのことも、ついでにあたしのことも忘れないでぇ」と泣き叫ぶ。

 

 忘れてはいけないことであるが今のアンは全裸。乳も尻も丸出しであるが、今のアンにそんなことを気にかける余裕はなかった。


 グレンの手のひらがアンの背中に触れた。大きくて温かな手のひらだ。


「……確かになぁ。お前がきちんと真実を話していれば、俺が魔女の妙薬を口にすることはなかった。つまりこのたびの誤飲はお前の過失だ。そうだろ?」


 アンはぐずぐずと鼻をすすった。


「そ、そうだよ……あたしが真実を隠そうとしたばかりに……」

「んじゃこの誤飲による『ムラムラ』は、もちろんお前が責任を取ってくれるんだろうな?」

「責任は取るからぁ……あたしのこと忘れないで」


 グレンの胸板に顔をうずめるアンは、そのグレンが邪悪な表情を浮かべたことに気がつかなかった。


 ***

 

 身体をぬぐう間もなくベッドへとなだれ込んだ。


 アンの腰回りに馬乗りとなったグレンは、まだ湯に濡れた肌をするすると撫でる。全裸を見られることに恥ずかしさを感じながらも、アンは黙って身体の力を抜いていた。

 全ては己の過ちが招いた結果だ。受け入れる他に選択肢はなかった。


 熱を持つ手のひらがアンの肩に、胸に、腰に次々と触れた。ぞくぞくとした感覚が背筋をのぼるが、それはどちらかといえば恐怖に近い感覚だった。

 

 この先に待ち受ける行為への恐怖。

 あるいはグレンが本当に正気を失ってしまうことへの恐怖。


 触れ合うにつれて恐怖は増し、グレンの指先が足の間に触れたとき、ついに言葉となって溢れ出した。


「やだぁ……」


 グレンはぴたりと動きを止めた。それから言葉の真意を探るようにアンの顔を見た。

 澄んだ碧色の瞳に真正面から見つめられて、アンの瞳からはぼろぼろと大粒の涙が零れた。


「や、やっぱりやだぁ……あたし、こんな理由でグレンとしたくない」


 アンは手のひらで顔をおおい、涙ながらの懺悔をした。


「うぇぇ……ごめんね、グレン。あたしがダメダメなばっかりに。でも薬でおかしくなっちゃったグレンとするのは嫌だよぉ……」


 2人きりの部屋の中にはアンの嗚咽(おえつ)だけが響いた。窓の外の空はすっかり群青色に染まり、西の空にわずかばかりの残火が残っている。

 

 じきに星が見え始めるであろう空を悩ましげに眺めた後、グレンは肩を落として告白した。


「悪かった。今回は俺が悪かった。安心しろよ、全部嘘だから」


 アンはきょとんと目を丸くし、聞き返した。


「……嘘?」

「魔女の妙薬を飲んでない、ってこと。お前が隠し事をしてるみたいだったから、カマかけたの。この俺が得体の知れない物体を口にするわけねぇだろ?」


 アンがその言葉を理解するまでには数秒の時間がかかった。

 泣きはらした顔でグレンの顔をまじまじと見つめ、次いで床に落ちたままの魔女の妙薬を見つめ、それから大きな大きな安堵の息を吐いた。


「よ、よかったぁぁ……あたし、もうどうなることかと……」

「一安心してるとこ悪いんだけど、話すべきことはきちんと話せよな。魔女の妙薬はハート商会と関係があるんだろ? ハート家が絡んでいる以上、俺としても見なかったことにはできないんだわ」


 グレンがベッドの端に座り込んだので、アンもまたもそもそと身体を起こした。床に落ちた毛布を拾いあげ、全裸の身体に申し訳程度に巻きつける。

 

 そうしてグレンの反応をうかがいながらゆっくりと語り始めた。


「……あたしの知り合いのご令嬢がさ。最近、様子が変なんだよ。とても真面目な子だったのに、今は繁華街で男遊びをしているみたい。それで先日事情を聞いたら、魔女の妙薬の名前が出てきたんだ。表向きは『飲めば美しくなれる薬』ということで売り出されているみたいでさ。でも一度その薬を飲み始めれば、強い依存性から服用を止められなくなる」

「ほぉー。その薬を取り扱っているのがハート商会?」


 アンはうなずいた。


「そう、しかも販売方法があくどいんだよ。一般の店ではほとんど取扱いがないの。魔女の妙薬を確実に手に入れたければ、ハート商会の会員になって、店舗に並ぶ前の商品を買うしか方法がないんだ。商会の会員になるには入会金と月会費を支払わなければならない。魔女の妙薬は、ハート商会にかなりの利益をもたらしているはずだよ」


 グレンは腕を組み、アンの説明を反芻した。


「依存性のある薬を販売し、その薬を手に入れるためには商会の会員になるしかない……か。思った以上にあくどい商売だな」

「そうなの、あくどいんだ。許せないよ。だからあたし、ハート商会の会員になって新商品展示会に乗り込もうと思ったんだ。そうすれば魔女の妙薬に関するもっと詳しいことがわかるかもしれない。依存から抜け出す方法がわかるかもしれない。魔女の妙薬を買ってきたのは念のためだよ。薬のことを調べるのなら、現物が手元にあった方がいいかなと思ってさ」


 そこで説明を一区切りにすると、アンはそろりとグレンの表情をうかがった。

 

 今までの説明に嘘はない。アンの助けたい『知り合いのご令嬢』がドリー・メイソンであること。ドリーに魔女の妙薬を手渡したのはアンであること。いくつかの情報を意図的に伝えずにはいるけれど。


 グレンの碧色の瞳は揺らぐことなくアンを見つめていた。アンの説明を疑うでもなく、鵜呑みにするでもなく、冷静に真実を見極めているようにも見える。


「……お前が俺に、魔女の妙薬の存在を隠そうとした理由は?」


 淡々となされた質問に、アンはうつむき答えた。


「この件はあたし1人で解決したかったから……かな。だってグレンを巻き込んだら大事になっちゃうじゃない。この件が大きな事件になって、国家の立ち入り検査が入ることにでもなれば、魔女の妙薬の服用者にまで調査の手が及ぶかも。そうしたら、あたしの友達はどうなっちゃうのかな。変な薬にはまって男遊びをしているなんてことが知られたら、家族に見放されちゃうかも。け、結婚だってできなくなっちゃうし、友達だっていなくなっちゃうかもぉ……」


 アンの蜜柑色の瞳には、またみるみる大粒の涙が盛りあがった。行き場所のなくなった涙の粒は頬をつたい、シーツの上にぽたぽたと落ちる。

 

 グレンはぎょっと身体をこわばらせ、それからアンの肩を労わるように撫でた。


「あー……なるほど。そういう事情だったわけね。なんつぅか、変に疑って悪かったな? 確かにハート家が絡んでいる以上、俺が関われば大事になるわな。そりゃそうだ」

「そうだよぉ……でももう全部話しちゃったよぉ……」


 静まり返った部屋の中に、アンの嗚咽だけが響いた。そんな押し潰されそうな時間に、グレンが大声で終止符を打った。


「あーもう! おいこらアン、泣くな! 事情はわかったから泣ーくーなー!」

「い、いひゃい(いたい)いひゃいよふへん(いたいよグレン)ほっぺは(ほっぺた)ほへふぅ(とれるぅ)


 グレンの両手はアンの頬をつまみ、上下左右にむにむにと揉みしだく。化粧はしておらず髪はぼさぼさ。顔中を涙と鼻水で濡らす今のアンは、お世辞にも美しいとはいえない姿だ。

 それでもアンに向けられるグレンの視線は、まるでその不細工顔を愛おしむようである。


「お前はさぁ、もちっと俺を信用しろよ。相棒だろ? お前がこの件を大事にしたくないというのなら、その意向を無視して派手に調査を進めたりはしねぇよ。俺の仕事はあくまで結婚候補者の素性調査。必要以上に、面倒な事件に首を突っ込むつもりはないんだわ」


 アンはずず、と鼻をすすった。


「……そうなの?」

「内容が内容である以上、見て見ぬ振りもできないけどさ。要は魔女の妙薬の存在が明るみになったときに、薬の服用者たちが不利益を被らなければいいんだろ? お前の話を聞く限り、今回の件の被害者には貴族の関係者も多いはず。国家としても、被害者側を糾弾するような流れはしたくないだろうさ。報告の仕方さえ考えれば、穏便に収まるんじゃねぇかと思うんだよな」


 グレンがそう結論付ける頃には、アンの身体はグレンの両腕にすっぽりと収まっていた。

 アンはたくましい胸板に顔をうずめ、脈打つ心臓の音を聴く。そうしているだけで心が落ち着く。まるで母の歌う子守唄を聴くかのようだ。


 ――グレン、ありがとう

 そんな言葉が頭をよぎった。


 でも頭に浮かんだ言葉を口にするよりも先に、アンにはグレンに伝えなければならないことがあった。


「グレン……こんな時にこんな事を言うのもなんだけどさ。何かあたってるぅ……」

「裸の女を抱きしめれば勃つに決まってんだろ。生理現象だ」


 どこまでも失礼で不埒な男ではあるけれど。

 それでもグレンが傍にいてくれてよかったと思った。

次、新章です。2章ほど苦しい章が続きますが、お付き合いいただけると嬉しいです。

何が起こってもエンドはハッピー!

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