27.××の振りして
望まずして下着姿となったアンは、ゾンビの面持ちでグレンの太ももにまたがった。至近距離で向かい合う格好となるのだから、当然グレンの目にはアンの胸元が丸見えだ。下着におおわれているとはいえ、顔から火が出るほどの恥ずかしさである。
「あたし、もうお嫁に行けない……」
「嫁に行かないために俺と手を組んでいるんだろうが。泣き言はほどほどにして、さっさと腹をくくるこった。丸出しじゃないだけマシだと思え」
「それはそうだけどさ……」
アンはぐずぐずと泣き言を言うが、グレンはひょうひょうとした調子だ。
「先に言っておくけど、あんまり本格的に動くんじゃねぇよ? 俺にだって生理現象ってものがあんだからさ」
「わかってるよぅ……」
もうどうにでもなれと投げやりになったアンは、グレンのひざの上で小刻みに身体を揺すった。アンなりに精一杯、それらしく見えるようにと。
会場の音楽と人々の笑い声がどこか遠くに聞こえる。恥ずかしさに思考がにぶり、皮膚感覚だけが鋭敏だ。余計なことは考えないようにと自身に言い聞かせながら、瀬戸際の演技は続く。
そうした時間が数分に及んだとき、耳元でグレンの含み笑いが聞こえた。
「あーあ、もう言い逃れはできねぇな。ハンス家のご令嬢ともあろう者が、素性のわからない男をナンパしてお楽しみとはねぇ。こりゃ調査報告書が分厚くなりそうだぜ」
アンは動くことを止め、周囲の物音に耳を澄ませた。軽快な音楽と、たくさんの人の話し声に混じり、微かにではあるが女性の嬌声が聞こえてくる。その声がイェレナのものだとすれば、確かにもう言い逃れはできなさそうだ。
アンはほっと息を吐いて演技を止めた。グレンが満足するだけの成果を得られたのだから、あとは衣服を整えて、何食わぬ顔で地下クラブから退散すればいい。
――かに思われたのだが。
不意に、グレンの手のひらがアンの背中に触れた。大きく熱を持つ手のひらだ。
アンはぎょっと肩を強張らせた。
「グレン、何?」
「何って何? 下着姿までさらしといて、このまま終われると思ってんの?」
グレンの手のひらは、アンの背中を滑るように撫でる。ぞわぞわと鳥肌が立つ。
「お、終わるよ終わるよ! そもそも始まってもいないよ! ちょっとやだ……放してってば……」
アンは懸命の抵抗するも、グレンの左手はアンの腰を押さえて放さない。そしてもう一方の右手では、アンの背中や腰回りを執拗にさするのだからなお質が悪い。
性行為にいそしむための休憩所で2人きり、悪いことにアンは下着姿。ブルーノのときのように助けが期待できるはずもなく、アンの全身には冷や汗が流れ始めた。
「ちょ、お願いだからこれ以上はぁぁ……ふぎゃっ」
そこでグレンが突然腕の力を緩めるものだから、アンは子猫のようにソファから転がり落ちた。硬い床に背中を打ち付けて、痛みにうめくアンの頭上に、挑発的なグレンの声が降り注ぐ。
「わぉ、煽情的な格好だねぇ♪ 誘ってんの?」
アンははっと息を呑み、自身の身体を見下ろした。上下とも下着だけというあられな格好で、ソファから転げ落ちたために両脚は開脚状態。
惜しげもなく開かれた太ももの間に、グレンの視線がざっくざっくと突き刺さる。
アンの顔はみるみるうちに真っ赤に染まっていった。
「こんの……セクハラ野郎ぉ!!」
アンの叫び声は、欲望うずまく休憩所に大きく響き渡るのであった。
***
「婚約者でもない相手に下着姿をさらすとはね……あたしもついに変態の仲間入りか……」
「お前、自分がまともだとでも思ってたのか? 初めて会ったとき、歯の浮くような台詞で俺を口説いたこと、忘れたとは言わせないぜ」
「あれはアンドレのときの話でしょ。アンドレはあたしにとって着ぐるみなの。何を話しても、何をしても、しょせんお芝居でしかないんだよ」
「ふぅん。じゃあ天下のアンドレ様は、今日初めてお芝居抜きで痴態をさらしたってわけ? 貴重な瞬間に立ち会えて光栄だぜ」
アンは何かを言い返そうと口を開くが、結局何も言えずに黙り込んだ。アンドレとして日々多くのご令嬢を口説くアンであるが、しょせんは凡人。屁理屈のプロには適わないのだ。
無事に地下クラブでの仕事を終えた2人は、繁華街から数本外れた住宅街をのんびりと歩いているところだ。
繁華街の喧騒もここまでは届かず、開け放たれた住宅の窓からときおり人の話し声が聞こえるだけ。ぽつりぽつりと佇む街灯が、人気のない通りを煌々と照らしている。
そして月。パンケーキのような満月を見上げれば、アンの腹はぐぐぅと鳴った。
「お腹空いたねぇ。晩ご飯、どうする? グレンが言っていた洒落た飯屋は、もう閉まっちゃってると思うんだよ」
「結構遅くなっちまったもんな。他に、近間に美味い飯屋はねぇの?」
「シェリーさんの酒場なら、結構美味しいご飯が食べられるよ。この時間ならまだ売り切れってことはないと思うけど」
アンがそう提案すれば、グレンは「んー……」と悩ましげに伸びをした。
「酒場かぁ。何か、2人でのんびり食いたい気分なんだよね。がやがやした場所じゃなくてさ」
「ふーん?」
珍しいこともあるんだな、とアンは思った。
日々仕事に追われる生活を送っているためか、グレンは効率主義者だ。だらだらと余計な時間を使うことはよしとしないし、いくら仕事のためとは言っても余分な金を使うことはしない。
今の話の流れからすると「まだ仕事も残ってるし、とっとと食って解散すっか」などと言って、手軽な食事を選びそうなものだけれど。
だけど今日のグレンは、きっと特別な気分なのだ。
アンは身体の横で揺れる右手を見下ろした。アンの小さな右手と、グレンの大きな左手は、少し前から繋がったまま。
グレンがどうしてアンと手を繋ごうと思ったのかはわからない。
しかしその温かな手のひらを、アンはなぜか振り払えずにいた。
「のんびり食べたいのなら、表通りのレストランに行ってみる? 店によっては半個室の席があるよ」
アンの提案に、グレンはすぐに同意した。
「お、いいねぇ。せっかくだしちょっとお高いところに行こうぜ。一案件片付いた祝いにさ」
「お祝いは日を改めようよ。あたし、今日はあまり持ち合わせがないんだ。裏繁華街を歩くなら余分なお金は持ち歩かない方がいいと思ってさ」
「面倒な任務に付き合ってもらったんだし、飯代くらい出すさ」
思いもよらない羽振りのよさに、アンは目を丸くした。
「それは悪いよ。だって地下クラブの会員登録料も払ってもらったじゃない」
「会員登録料は仕事上の出費。飯は俺の個人的な出費。この俺が珍しくも飯代を出してやろうと言ってんだから、大人しく奢られておけや」
つまりこの度の夕飯の誘いは、仕事の打ち上げなどではなく、グレンの個人的なお誘いだということだ。それはそれで、どことなく心がむず痒かった。
「そういうことなら遠慮はしないけど。先に言っておくけど、今日のあたしはよく食べるよ。裏繁華街訪問が恐ろしすぎて、朝ご飯も昼ご飯ものどを通らなかったんだから。ステーキ肉の2枚くらいぺろりとイケちゃう」
「おお、食え食え。お前細っこいんだから、多少肉を蓄えても罰はあたんねぇぞ」
そういってグレンが大きく腕を振るものだから、小柄なアンは宙へと浮き上がってしまいそう。「いやぁぁぁ」と悲鳴を上げながら前へ後ろへ、時々ぴょんと飛び上がる。まるで下手くそな踊り子のようである。
ひぃひぃと笑い声を上げながらも、グレンはアンの手を、アンはグレンの手を決して離さない。
願わくはこの夜道が終わることなく、どこまでもどこまでも続きますように。
ドSで横暴だけどなぜか嫌いにはなれないのです。




