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25.お仕事終了!

 キスをされている。そう気づくまでに数秒のときを要した。


 アンの腰を抱き寄せたブルーノは、薄桃色の頬に触れるだけのキスをする。ちゅ、ちゅ、と軽い吸い音を立てて、頬の感触を楽しむためだけの軽いキス。

 肌に触れる温かな感触を、アンはまるで他人事のように感じていた。突然のキスの意味が全くといっていいほどわからなかったから。


 アンは困惑し、どうにかこうにか息を吸い込んだ。


「あの、ちょっと聞きたいんだけどさ。これは一体どういう……」

「おしゃべりの続きは後にしてください。ああ、行為についての希望でしたら、どうぞその都度おっしゃってください。大概の要望には応じますよ」


 疑問の声をさえぎられて、アンはぱちぱちと目をまたたかせた。男性経験のないアンであるが、ブルーノの言葉の意味がわからないほど子どもではない。


「……もしかしてだけど、このソファってこういう事に使う物なの?」


 ブルーノは当たり前のように返事をした。

 

「そうですよ、これが地下クラブの売りです。クラブの会場で出会った他人と、軽い気持ちで性行為に及ぶことができる。役人の目が届く地上のクラブでは、まずこんなことは許されないでしょうね。ですがその背徳感が人を惹きつけるようだ。私の相方であるレナも、もうすっかり地下クラブの虜ですよ」


 ――噓でしょ

 アンはさっと顔を青くした。


 地下クラブは、性行為を前提としたナンパ行為を楽しむ場所だということだ。ダンスを楽しむかたわら好みの相手を探し、会場の隅にあるこの休憩所で性行為に及ぶ。入場者がカップルに限定されているのは、客人の性別が偏っては困るからだ。


 つまりアンは、性行為の相手を探すためのダンス会場で、ブルーノにナンパ行為を働いたということ。ブルーノがその気になるのは当然も当然、だってここはそういう場所なのだ。


 ブルーノの右手がアンの太ももに触れた。慣れた手つきだ。流されてはまずいと頭では理解しているけれど、拒絶の言葉を口にすることができない。地下クラブの真実を目の当たりにして、脳味噌が考えることを止めてしまっている。


「ブルーノ……あたし――」

「おいこらぁ! アン!」


 突如として響いた怒号に、アンはソファから飛び上がった。


 見ればソファの前にはグレンが仁王立ちしていた。両眉は悪鬼のごとく吊り上がり、嚙み締められた上下の歯列はぎりぎりと音を立てている。

 

 ――鬼だ、鬼がおる

 アンは身の毛がよだつ心地である。


「おい赤毛。そこのちんちくりんは俺の連れだ。勝手に手を出してんじゃねぇ」


 グレンが強い口調で話しかければ、ブルーノは不愉快そうに言い返した。


「私は誘いを受けた側ですよ。事情も知らず、私が彼女を(たぶら)かしたかのような物言いは止めていただきたい」

「アンがお前を誘ったぁ?」


 するどい視線がアンを射抜いた。


 アンはびくりと肩を揺らし、身振り手振りで必死に訴えた。

 ――身体目的じゃないよ。この人イェレナのお連れさんだよ。あたし真面目にお仕事してただけだよ

 

 しかしアンの訴えがグレンに伝わるよりも早く、ブルーノがまた口を開くのであった。


「君も地下クラブを訪れるのは初めてですか? この地下クラブは自由なナンパ行為が許される場所であり、他人の連れに声をかける行為は禁止されていません。私と彼女の楽しみを邪魔すれば、スタッフにつまみ出されるのは君の方ですよ」


 グレンの登場にもブルーノはひるまず、アンとの楽しみを中断するつもりはないらしい。

 

 これは不味いことになった、とアンは身を震わせた。

 もしもグレンが「あっそ、じゃあ好きにすれば」と言ってこの場を立ち去ってしまえば、アンは処女喪失が確定してしまう。アンの方からナンパ行為を働いた以上、迫りくるブルーノを拒むことは簡単ではないのだ。


 間もなくして、落ち着きを取り戻したグレンが沈黙を破った。


「あー……なるほど、先に声をかけたのはアンなわけね。そりゃ疑って悪かった。重ね重ね申し訳ないんだが、そいつとの行為は諦めてくれねぇ?」


 ブルーノはふんと鼻を鳴らした。


「私にその頼みを聞き入れる必要がありますか? 他の男に触れさせたくないのなら、初めから地下クラブになど連れてこなければいいでしょう」

「ごもっともな意見だな。ぐぅの音も出ねぇわ。あんたが本気でアンを抱きたいと言うのなら、俺にそれを止める権利はない。ただ一応言っておきたいんだけど、アンの腹には俺の子どもがいるんだよね」

「は?」

「ほぇ?」


 は、と聞き返したのはブルーノ。ほぇ、と間抜けな声を上げたのはアン。

 様変わりした雰囲気の中、グレンの語りは続く。


「俺とアンは互いに好き勝手遊んで過ごしてたんだけどさぁ。このたびアンがめでたく妊娠したもんで、正式に結婚することになったんだ。あ、腹の子は俺の子だぜ? それは間違いない。そんで結婚を目前にして、アンが突然『地下クラブに行ってみたい』と言い出したんだ。俺も1度は止めたんだけど、子どもが生まれたらこんな場所絶対に来られないだろ。結婚前の最後のわがままだと思って、泣く泣く聞き入れてやったんだ」

「はぁ……そうですか」


 グレンの語りは清水がまな板の上を滑るようである。よくも即興でこれだけの物語が作れるものだと、アンは場違いにも関心してしまった。


「アンには『腹の子に障ったら困るから、俺以外に抱かれんじゃねぇ』とは言ったんだぜ。でも初めて訪れる地下クラブで、ちょいと羽目を外しちまったみたいでさ。気が付いたら俺のそばからいなくなっていて、勝手にナンパ行為を働いてんの。……というわけだから、もしアンを抱くというのなら腹の子に害がないようにやってくれ。あんた、妊婦の抱き方は知ってるか?」


 グレンが堂々とそう言い切れば、ブルーノは溜息まじりにアンのそばから離れた。すっかりやる気を削がれてしまった、とでも言うように。


「そういう事情なら、彼女を抱くのは止めておきますよ。正直うさん臭いとも思いますが、あなたの言葉の真偽を確かめる術はない。わざわざ危険を冒さずとも、楽しみの相手はごまんといますからね。ではお嬢さん、どうぞ元気な子を産んでください。願わくはもうこの場所でお会いすることがありませんよう」


 手早くシャツの襟元を整えたブルーノは、一片の迷いも残さずアンの元を立ち去った。アンはぽかんと口を開けて、遠ざかっていく赤茶色の頭を見つめていた。


 ブルーノの後ろ姿が完全に見えなくなったとき、グレンの手がアンの頭蓋骨をわしづかみにした。このまま頭蓋骨を握り潰されるのではないか、と不安を覚えるほどの握力である。


「アン、話がある」

「……はい」


 今のアンには、大人しくうなずく以外に選択肢はない。

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