18.物語の始まりは
果てしなく広がる青い空
ぽこぽこと浮かぶ羊雲
風にそよぐ緑の草原
のどかな風景の真ん中で、アンは種まき作業の真っ最中だ。
ふかふかに耕された畑の上に、小さな種を1つまた1つと埋めていく。麦わら帽子をかぶった頭皮は熱を持ち、種袋を握る手のひらにはじんわりと汗がにじむ。
長いうねの半分に種をまき終えたとき、アンはんん、と伸びをした。
「レオナルドぉ。あたし、全然もてなされてる気がしない」
アンの文句には、麦わら帽子をかぶったレオナルドが「ははは」と笑い声を返した。レオナルドの腕には一抱えもある肥料袋が抱き込まれている。
「今年は枝豆を育ててみようと思いましてね。畑を耕していたのをすっかり忘れていたのです」
「そう……枝豆、美味しいもんね……」
客人であるはずのアンが、こうして炎天下の中で畑仕事をしているのは、他でもないレオナルドに誘い出されたからだ。「アン様、ワンピースが乾くまで一緒に畑仕事でもいかがですか?」と。
アンは深く考えることなくその誘いに応じ、客人の身でありながらもう30分以上も畑仕事に勤しんでいる。
アンは凝り固まった腰をほぐしながら、うねに肥料を撒くレオナルドの姿を眺めた。かつて鬼人と恐れられたレオナルドが、麦わら帽子を頭に畑仕事。とても奇妙な光景だ。
「レオナルドって、この屋敷で一番偉いんじゃないの? 畑仕事なら他の人に任せればいいのに、グレンとかさ」
アンの質問に、レオナルドはまた「ははは」と笑い声を零した。
「私は偉くなどありませんよ。この屋敷で働く者は、上司も部下もありません。みなが対等な関係です」
「そうなの? でもグレンを叱っていたよね。あたしが水をかけられたときさ」
「客人応対の場でしたからね。外部から客人がいらっしゃる際には、私が便宜的に上に立ちます。場を統率する者がいなくては仕事がスムーズに進みませんから。ですが宮殿から仕事が舞い込んだときには、グレンがみなを仕切りますよ」
アンは素直に感心した。
「へぇー。宮殿から仕事を頼まれることもあるんだ」
「書類に目を通し、署名をするだけの簡単な仕事がほとんどですがね。後は新しく使用人を雇ったときの予算請求だとか、備品購入の許可依頼だとか、そういった宮殿宛の仕事はグレンの担当です。結婚候補者の素性調査をグレンが行っているのは、調査報告書の提出先が宮殿だからですね」
畑の向こうにうぐいす屋根の邸宅を眺めながら、アンはまた「へぇー」とつぶやいた。ちょうど1階の窓の内側を、書類を抱えたグレンが通りすがったところだ。
いつもと同じすまし顔、それでもぶ厚い書類束を抱えたグレンの横顔は、いつもより少し凛々しく見える。
アンに対しては何かと失礼な言動の多いグレンだが、すべき仕事はしっかりとこなしているようだ。
――それならあたしももう少し頑張ろうかね
アンはもう1度大きく伸びをすると、単調な畑仕事を再開した。
***
次にアンとレオナルドが会話らしい会話を交わしたのは、種まき作業が一区切りしたときのことだった。青々とした果樹の根元に座り込んで、バーバラ――アーサー邸の使用人の1人――が差し入れてくれた麦茶を飲み干した後のこと。
汗ばんだ視界に映るものは、水やりを終えてしっとりと濡れた畑と、畑の脇で物干し竿に向かうバーバラの背中。洗い立てのタオルが物干し竿に並んでいく。
そしてずらりと並ぶタオルの横では、アンのシフォンワンピースが風に吹かれて揺れていた。今日は日射しが強いから、もう間もなく乾く頃だろう。
のどかな風景を眺めながら、アンはにわかに口を開いた。
「レオナルドは騎士団にいたんだよね。どうして辞めちゃったの?」
そう問いかけたのは、ただの雑談のつもりだった。汗粒の浮くレオナルドの二の腕があまりに見事だったから。なぜその腕で剣を振るうことを止めてしまったのか、と疑問に思ったのだ。
「辞めたのではありませんよ。除隊になったのです」
「ふぅん。何か悪いことしたの?」
「悪いこと――そうですね。重大な軍規違反を犯しました」
アンは恐る恐る尋ねた。
「……どんな?」
ティルミナ王国の国軍に値する騎士団は総勢77名、いずれも戦闘に特化した猛者ばかりだ。その猛者ぞろいの騎士団の中で、鬼人と恐れられた人物がレオナルド・バトラーだ。
鍛え上げられた2本の腕で、三日月形の大刀を振り回す様は、武人ならぬ舞人のごとし。思わず人間であることを疑うような、鬼人の名にふさわしい戦いぶりであったという。
本来であれば、騎士団としてもレオナルドを手放したくなどなかったはず。そうであってもなお騎士団を除隊になるとは、若き日の鬼人が取り返しのつかない悪事に手を染めたということ。
アンは息を潜めレオナルドの答えを待った。
間もなくしてレオナルドの唇から紡がれるのは、想像よりもずっと残酷な言葉の羅列だった。
「私怨により人を殺しました。本来であれば生かして捕らえるべきであった敵を、拷問の末に打ち殺したのです」
のどかな風景の中に、レオナルドの声は静かに溶けて消えていった。
アンはこくりと息を呑み、遠慮がちに尋ね返した。
「……人を殺したの? 拷問して?」
「そうです。拷問というのも大袈裟かもしれませんがね。ただ首を切り落とすよりは、手酷い殺し方をしたことは事実です」
そう語るレオナルドの表情は穏やかだ。まるで「昨晩の星空は見事でした」とでも言うにして己の罪を語る。その気楽さが、アンにその話が真実であることを伝えていた。他人を欺こうとする人間は、こんな穏やかな表情をしない。
真実を知ることをためらいながらも、アンは怖々質問した。
「一体、何があったの?」
レオナルドは澄んだ瞳でアンを見返した。
「アン様もお人が悪い。人を殺したという私に、人殺しの動機を問おうなどと。ですが……隠す意味もありませんか。この邸宅に住まう人はみな、私の除隊理由を知っておりますから」
そうしてさんさんと輝く太陽の下で、アンはレオナルドの過去を知る。
それは鬼人と恐れられたレオナルド・バトラーが本当に鬼人となった日の記憶。
それは全ての始まりの物語。
***
王国の下部組織である騎士団は、今も昔も77人の団員で構成されている。
団員は7つの隊にわけられ、王都の治安維持から山賊の殲滅に至るまでさまざまな業務に従事する。
当時のレオナルドの地位を正確に述べれば『ティルミナ王国騎士団第7部隊隊員』、鬼人と呼ばれ騎士団の中で確固たる地位を築くレオナルドであるが、その位はあくまで隊員。部隊を率いる隊長・副隊長の位にはついていなかった。
というのもレオナルドの本性があくまで武人だったから。部隊を率いることには向いておらず、ただ下された命令を遂行するだけの凶戦士。
それが騎士団におけるレオナルドの立ち位置だった。
日々さまざまな業務に従事する騎士団であるが、その主な仕事の1つが宮殿内の警備だ。
ティルミナ王国王の宮殿は周囲を高い外壁で囲われおり、国王が居住する王宮の他、巨大図書館や武器庫、侍女用の宿舎や孤児院に至るまで、さまざまな施設が詰め込まれている。
歴代の妃が居住する『離宮』と呼ばれる建物もその一部だ。
現国王フィルマンは当時6人の妃を迎え、それぞれの妃に離宮を与えていた。そしてオパール宮、エメラルド宮など輝かしい名前が付けられたその離宮の警備が、騎士団の重要任務として与えられていたのである。
レオナルドの属する第7部隊は、サファイア宮と呼ばれる別宮の警備を担当していた。警備と言っても頑丈な城壁で囲われた宮殿内には、賊など滅多に立ち入らない。
騎士団の主な仕事は妃の話し相手と、それから王子と王女の遊び相手、さらには侍女では手の届かない屋根の修理や庭木の剪定だ。言うなれば何でも屋、ということである。
各部隊の隊員は、必然的に警備を担当する離宮の主と仲良くなる。
レオナルドの場合、その主というのがアーサーの母ヘレナだった。
レオナルドがそこまでのことを説明したとき、アンは「へぇー」と相槌を打った。
「レオナルドは、アーサー王子のお母さんと友達だったんだ」
「友達、という表現が正しいかどうかはわかりません。私にとってヘレナ妃は守るべき主。しかしヘレナ妃は、私ども騎士団の者を友人と思っていたかもしれません。元々平民出身のお方でいらっしゃいましたからね。妃同士の茶会に参加するより、私と話をしている方が気安くて楽しいのだと仰ってくださいました」
アンがもう一度相槌を打ったところで、レオナルドの語りは再開する。
日々サファイア宮の警備を担当するうちに、レオナルドはその離宮のもう1人の主と仲良くなった。それが当時年端もいかない子どもだったアーサーだ。
アーサーはヘレナと同じく気安い性格で、騎士団員の足元にいつもまとわりついていた。中でも一番のお気に入りは、隆々の筋肉を持つレオナルド。腕の筋肉を触らせろとねだり、肩車をしろと叫び、ついには剣を教えろと言い出す始末。
断る理由も思いつかないレオナルドは、頼まれるがままアーサーに剣を教えた。
今思えば、あれが1つの転機だったのかもしれない。
レオナルドが剣を教え始めて数か月経ったとき、アーサーは5つ年上の王子を剣技の試合で打ち負かした。子ども同士の遊び試合、といえばそれまでのことだ。ただ試合相手が王位継承有力候補である第2王子であったために、その試合結果は宮殿内で広く注目を集めた。
王位継承権を『ただ持っているだけ』の第6王子が、第2王子を剣技で打ち負かした――と。
その試合をきっかけに、アーサーはめきめきと頭角を現し始めた。武術、弁論、そろばん、乗馬など、さまざまな分野で他の王子を圧倒した。
7つ年上の第1王子を押しのけて、王位継承最有力候補とまで言われることもあった。
レオナルドはアーサーに剣技を教えながら、その子どもの成長を厳粛な気持ちで眺めていた。アーサーはいずれ王になる、誰に言われるでもなくそう信じていた。歴代屈指の賢王となり、この淀み滞った王国を作り変えるのだ。
そう信じて疑わなかった。
しかしその数年後、運命の事件が起きた。




