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17.グレンのはからい

 ザバァという不穏な音とともに、アンの頭に降り注いだ大量の水。突然の出来事に、アンは「みぎゃあっ」と子猫のような悲鳴をあげた。


「グレン、何をしている!」


 レオナルドの怒声を聞き、アンが大慌てで振り返ってみれば、そこには澄まし顔のグレンが立っていた。右手には空っぽのガラスピッチャーを持っている。どうやらその中身をアンの頭にぶっかけたようだ。


 殺伐とした雰囲気の中、グレンはひょうひょうと謝罪した。


「申し訳ありません。手が滑りました」

「謝って済む問題か! 客人の頭に水を浴びせかけるなど」

「すぐに片付けますので」

「片付けより先に、アン様に頭を下げろ!」


 半ば放心状態で2人のやり取りを眺めるアンの頭上から、氷が一粒転がり落ちた。氷入りの冷水をぶっかけられたのだ。どうりで冷たいはずである。

 

 空っぽのガラスピッチャーをぶら下げたまま、グレンはアンに向かって静かに頭を下げた。


「アン様。私の不注意でまことに申し訳ございません。どうぞすぐに浴室へとお向かいください。衣装も邸宅にある物をお貸しいたします。粗相を働いたぶんおもてなし致しますので、ごゆっくりと滞在なさってください」


 アンが返事を返すよりも先に、ローマンが会話に口をはさんだ。


「あー……ありがたい提案ではあるが、今日は夕方に来客の予定が入っていてね。正午は越えずにお(いとま)しなければならない。服は近くの町で新しい物を買うから、とりあえずタオルだけお貸しいただけないだろうか?」

「失礼ですが、その来客の席に、アン様は同席の必要がありますか?」


 グレンが間髪入れずに聞き返すものだから、ローマンはたじろいだ。

 

「いや、私個人の客人だが……」

「ではローマン様は、どうぞ当初の予定通りお帰りください。アン様がお帰りの際には、私どもの方で馬車を出しましょう。ドレスフィードの本邸でも、繁華街のご自宅でも、アン様の望む場所にお送り致します。いかがでしょう、ご納得いただけますか?」

「そういうことなら……構わんが」


 ここまで丁寧な提案をされてしまえば、ローマンは渋々ながらも納得した様子だ。

 

 おおこれは嬉しい結果だ、とアンは心の中で両手を上げた。

 アンがこのアーサー邸訪問においてゆううつだったことは、第1にローマンと2人きりの往路、第2にローマンと2人きりの復路だ。相性最悪の人物と数時間におよぶ旅路、拷問以外の何物でもない。


 グレンとローマンの話し合いに無事決着がついたところで、レオナルドがアンのそばへと歩み寄った。


「アン様、このたびの非礼を深くお詫び申し上げます。すぐに風呂の準備を整えますので、暖かな客間でお待ちください。ご案内いたしましょう」


 優しい声でそう促され、アンが席を立ったときには、グレンともう1人の使用人はテーブルの片付けを始めていた。濡れた茶器を1つ1つワゴンテーブルの上に移し、空いた場所を布巾で丁寧に拭いていく。

 

 見事な連携で後片付けを進める2人の使用人を横目に見ながら、アンは茶会から退席した。


 ***


 その後のアンは、アーサー邸の浴室を心行くまで堪能した。きめ細やかな石鹼泡で身体を洗い、バラの匂いがする湯にのんびりと浸かる。心も身体もぽかぽかだ。


 入浴を終えたアンが客間へと戻ったとき、ちょうど窓の外にはローマンの姿が見えた。ローマンの前にはドレスフィード邸の馬車が停まっているから、茶会を終え帰路に着くところのようだ。


 アンのカーテンの影に身を隠し、ローマンが馬車に乗り込む姿を眺めていた。すでに入浴を終えたのだから、今のアンはローマンと一緒にドレスフィード邸へ帰ることもできる。

 しかし馬車へ乗り込むつもりなど更々なかった。せっかくグレンが「うちの馬車で好きなところまで送ってやるぜ」と言ってくれたのだ。好意に甘えても罰はあたらないはずだ。


 ローマンを乗せた馬車が林の向こうに消えたとき、コンコンと扉を叩く音がした。間髪入れず、扉の向こう側からはレオナルドの声が聞こえた。


「アン様、客間に入ってもよろしいでしょうか」

「はぁい、どうぞ」


 アンが答えると、レオナルドが客間へと入ってきた。


「父君は出発なされましたよ。一緒にお帰りにならなくて本当によろしかったのですか? 何なら今から馬で後を追うこともできますが」


 レオナルドは善意で言ったのだろうが、アンは慌てて首を横に振った。


「いえ、結構です。まだ髪が濡れていますし、すっぴんのまま馬車に乗り込んだら父に怒られます」

「ふむ……確かにそれもそうですね」


 幸いにもレオナルドはすぐに納得してくれたようで、アンはほっと胸をなでおろした。そしてほっとすると同時に、レオナルドに言わなければならないことがあるのを思い出し、アンは控えめに口を開いた。

 

「あの……今回の件であまりグレンを責めないであげてください。あたしと父は本当に相性が悪くって、一緒に馬車に乗るのがつらかったんです。だからあたしとしては、『水をかけてくれてありがとう』と思っているくらいで……」


 茶会の席で、グレンがアンに冷水をぶっかけたのは、何もアンに嫌がらせをするためではない。あれは強制的に場の話題を転換させるための荒業だ。

 あのまま『仕事の話』を続けていたのでは、アンはうまく言い逃れることができないと状況を先読みし、グレン自ら泥をかぶってくれた。

 

 アンのために馬車を出すことを提案してくれのたのもグレンの優しさだろう。アンが茶会の前に「まっすぐ繁華街の自宅へ帰りたい」と零したから。


 ――帰る前にきちんとお礼を言わないと

 そんなことを考えるアンの耳に、レオナルドのするどい声が飛んできた。


「アン様。あなたはグレンと知人関係がおありか?」

「え?」

「ずいぶんと親しげに『グレン』と名を呼びましたね。それに私の目には、グレンが茶会の席でわざとあなたに水をかけたように見えたのです。2人の間には親交がおありですか?」

「えーと……」


 アンは戸惑った。グレンとの関係をどこまで説明していいかがわからなかったからだ。そしてレオナルドは、アンの戸惑いを後ろめたさからくるものだと捉えたようだ。


「そういえばあなたは、仕事の話になると途端に口が重たくなった。ひょっとして他人には語れない仕事をしておられるのか?」

「え、えっとぉ……」


 確かに大声で人に語ることはできない仕事、なのである。歯切れの悪いアンを前に、レオナルドの眉はみるみる吊り上がる。


「よもや娼婦の真似事をしておいでか? あなたの仕事とは、身体を使って店に客を呼び込むことか。グレンを(たら)し込み、おめおめとこの邸宅に入り込んだとすれば、狙いは何だ。王族の地位か、それともアーサー殿下の命か?」


 レオナルドの表情に、入室当初の温厚さはない。灰色の双眸はぎらぎらと輝き、今にも獲物を食い殺さんばかり。今、レオナルドの腰に剣はないが、ここが戦場であれば間違いなくその右手は剣の柄を握りしめている。

 鬼人レオナルドは、そうして幾百もの人の悪意を討ち取ってきた。


 肉食獣のような眼光に恐れおののきながらも、アンとてここで引き下がるわけにはいかなかった。アンはグレンを(たら)し込んでなどいない。王族の地位に興味はなく、アーサーを相手に暗殺者の真似事をするつもりもない。

 

 腰に手をあて、胸いっぱいに息を吸い込んだ。


「ちょっとちょっと、あたしを稀代の悪女みたいに言わないでよね! ちょーっと人に言いにくい仕事をしていることは確かだけど、グレンとの顧客関係はないんだから。たまたま行きつけの酒場で会っただけ。それにあたし、王族の地位になんて興味ないもん。アーサー王子を傷つけるつもりもない。どちらかと言えば助けてるくらいだよ、グレンの相棒としてさ」


 アンの口調が突然変わったことに、レオナルドはひどく驚いた様子だ。しかしやはり疑いの抜けない表情で質問を重ねた。


「それはどういう意味ですか?」

「あたしは繁華街では顔が広いんだよ。繁華街を訪れる貴族のご令嬢とも付き合いがある。だからグレンに協力しているんだ。グレンがアーサー王子の結婚候補者の素性調査をしていることは知っているでしょ? ローラ嬢とイザベラ嬢については、あたしが情報を提供したんだから」


 アンがてきぱきと真実を告げれば、レオナルドは視線を泳がせた。


「ローラ嬢とイザベラ嬢……確かに、そのような方がおられましたか……」

「あたしの方からも聞きたいんだけど、何でレオナルドはあたしのこと知らないの? グレンから何も聞いてない? あたしとグレンが協力関係を結んだのは、もう2週間以上も前のことなんだけどな」


 アンの主張は筋が通っていると感じたのだろう、レオナルドの両眼からは獣のぎらつきが消えていく。居心地が悪そうに身じろぎをして、歯切れも悪く説明した。


「……私は素性調査の結果については何も聞かないようにしているのです。というのも私は本音を隠すことが苦手でして……結婚候補者であるご令嬢方に先入観を抱いてしまっては、当たり障りのない会話が困難になってしまいます。アン様のように、挨拶のためにとこの邸宅を訪れるご令嬢は数多くおりますから……」


 つまりグレンがアンとの関係を隠していたのは、今日の顔合わせに備えてのことだということだ。本音を隠すことが苦手なレオナルドが、ローマンを相手に良からぬことを口走ってしまうことを避けるため。

 グレンはグレンなりに考えているんだな、とアンは納得した。


「それなら後でグレンに確かめてみてよ。あたしとの顔合わせは終わったんだから、先入観も何もないでしょ?」

「……はい、そうさせていただきます」


 レオナルドは素直にうなずいた。申し訳なさそうに肩を落とすレオナルドは、冷水をぶっかけられた大型犬のようで愛嬌がある。

 

 和やかになった雰囲気の中、レオナルドはまた遠慮がちに質問した。


「アン様……最後に1つだけ確認させていただきたい。あなたがアーサー殿下の結婚候補者に立候補されたのは、父君の意向ですか?」


 アンはすぐにうなずいた。


「そうだよ、親父が勝手に決めたこと。あたしは王族の地位なんて欲しくないもの。だからグレンと約束したんだ。『素性調査に協力する代わりにあたしを結婚候補者から外して』ってさ」


 アンの主張は間もなく真実であると認められた。レオナルドはふっと表情を緩め、アンに向かって深く頭を下げたのであった。


「重ね重ねの無礼をお許しください。あなたがグレンの協力者であるならば、それは我々の協力者であるも同然です。アン様、あなたの来訪を心よりおもてなし致します」

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