言語音について
「聞こえるということ」でこう書きました。
生後一年程度で低次聴覚野の学習って終っちゃうんです。
今回は、このあたりのことについて。
英和辞書なんかには発音記号とかが載っています。まぁあれというわけではないのですが国際音声字母(International Phonetic Alphabet)というのがあります。地球上の言語で使われている音を記号で書こうというものです。この立場は音声学と呼ばれます。
生後半年からもう少しくらいのあいだの乳児は、どうやらこのあたりの違いを聞き分けていると考えられています。でも、その後、そうではなくなります。
さて、ちょっと次の例を見てください。
三人 さ「ん」にん
三枚 さ「ん」まい
三階 さ「ん」かい
三 さ「ん」
この4つの「ん」は、音声学においては異なる音です。
わかりやすいのを二つ。
「三枚」の「ん」は、「ン」ではなく「マ」の「m」あたりと一緒になったようなものです。唇を閉じている時です。例えば「新橋」駅の「し『ん』ばし」の「ん」は、ローマ字表記では「m」と書かれています。それと同じです。
あるいは三階の「ん」の場合、舌が口の奥の方へ行って、ついでに息が鼻から抜けていると思います。
音声学での記号を書くときには"[ ]"で記号をくくるという慣習があります。
「え〜? でもみんな『ん』じゃん」
と思われた方。そちらももちろんありです。ある言語で、どういう音は同じものと聞かれ、どういう音は違うものと聞かれるのかに注目するのが音韻論です。音韻論では、その単位を音素と呼びます。まぁ、どういう場合に音素と認めるのかにはちゃんとルールがありますが、結局はその言語を母語としている人がどう聞くのかが根っこの基準になります。そのため逆に、「この音素とはこれこれこのようなものである」という定義ができないことになります。「この音素は、あっちの音素ともそっちの音素とも違う」という定義しかできません。あやふやと思われるかもしれませんが、現在の科学のいろんな分野ではこの段階の理解が必要になります。科学には人文科学も入れてです。この段階の理解ができることが、理系を理解する最低条件になっているようなものです。
なお、この音韻論からの考え方は、構造主義に直接影響を与えています。
音韻論の立場でとか音素を書く場合には"/ /"でくくるという慣習があります。
音声学では国際音声字母がありました。ですが音韻論の場合、国際的に統一されたものはありません。というのも音素は言葉ごとに決まるものなので。
それで、生後一年くらいでと書いたのは、この音素の方の話になります。生後一年くらいで、乳児はよく耳にしている言語における音素を聞きわけて、かつその言語においては意味がない音の違いは無視するように、学習してしまいます。わぉ。不思議ですね。
とは言っても、後から改めて勉強しなおすことができないわけでもありません。ですが、意識しての練習が必要になります。幼児に英語のアニメを見せるとかいうことを聞くこともあります。あー、それ、聞き取りとか発音については、まず無駄です。英語の音素を聞きとれるようになるわけじゃありませんから。そういう幼児も英語を話せるかもしれません。でも発音を良く聞いてください。だいたい日本語の発音になっているはずです。まぁ発音が日本語だからと言って、英語の音素を聞き分けられていないという証拠にはなりませんが。このあたりはどっかに研究があると思いますので、そちらで確認してみてください。どうなってるのかは知りません。
さて、外国語の音、あるいは音素を聞きとれるかどうかについては、モーター理論という古い理論があります。実際のところそう言えるのかはどうなんだろうというところもありますが。これは「発音のしかたがわかると聞き取れる」というようなものです。練習のしかたとしては、まぁありな方法です。ただ、聞き取るのと発音するのがペアになった方法なので、どっちがどっちなのかというところもありますが。
ところで、中学、高校あたりの英語の先生の発音って、だいたいいいですよね。
ごめんなさい。嘘です。悪くはないと思いますが、変な具合に癖が強い感じがしませんか? 授業なのでわざと強くやっているという面もあるかもしれませんけど。ですが、こう何て言うんだろ。ネイティブにある発音の怠けがないような感じで、変な具合に癖が強い印象があります。この「発音の怠け」というのも自然さという面では重要です。例えば英語だとアクセントがない母音はシュワー /ə/ になりやすいとかあります。
おまけですけど、「第9地区」、「Elysium」、「CHAPPiE」のブロムカンプ監督はご存知かと思います。ハードSFマインドを強く持った監督だと思います。ですが、それだけではなく言葉にも強いこだわりを感じます。
「第9地区」では、アフリカの一部の言語で使われている舌打ち音が入った言葉をギャングに使わせています。
「Elysium」では、相棒のコプリーが、ずいぶん強く訛った英語を使っています。その鈍りは南アフリカの一部で実際に使われている鈍りだそうです。
「CHAPPiE」では、ギャングの鈍りも、ヒュー・ジャックマンのオーストラリア鈍りも活かしています。
こういう例はブロムカンプ監督の作品に限りません。ですが、現代の監督の作品として、「正しい発音」(そんなものは存在しませんが)にこだわると楽しみが減るという例として挙げていいかと思います。




