意味と文法
こことか、エッセイ1とか、あるいは小説でも書いたりしてますが、意味っていまだによくわからないものです。
大昔は、意味というものを「書ける」と考えられていたというか、その可能性もあるだろうなと思われていましたが、進展するほど「意味そのもの」を書くのってどうすりゃいいんだろうとなった経緯があります。
それで、結局は、ある単語の意味というのは、その単語が使われる状況のすべての集合みたいなものであるという、わかるようなわからないような扱いになっています。まぁ、それで止まっているわけじゃないですけどね。
さて、意味と文法について書く際には、チョムスキーによる次の文を紹介しないわけにはいきません:
"Colorless green ideas sleep furiously"
これです。まぁ、これは有名です。超有名。日本語にすると、「無色の緑色の考えが猛烈に眠る」となります。あ、ここで「猛烈に眠る」となっていますが、これは「爆睡」という意味ではなく、「やたらめったら活動的に眠る」という感じです。まぁ、これでも寝相がむちゃくちゃ悪い人には該当しかねないとは思いますが。もちろん、そういう意味でもありません。
これは単純な話としては「黒い白馬」なんてのと同類です。違うとすれば、チョムスキーの文は、一応文の形式に則っているところですね。
こういうのの何が問題なのでしょうか。これまた簡単に言うと、聞いた(あるいは読んだ)感じとしては、そこで述べられている「何かが思い浮かびそう」であるにもかかわらず、実際には「これというものが思い浮かばない」という点です。
まぁ「黒い白馬」だと、表現が矛盾してるし、と思われるかもれません。
そこはそうなのですが、問題はそこではありません。というのも、「にもかかわらず、書ける(言える)」ところをチョムスキーは問題としています。
そこから、統語と意味ってどう関係しているんだろうという話題に進みます。結論だけ言っちゃうと、チョムスキーは「ひとまず意味は置いとく」方法をとりましたが。
あ、今、「統語」と書きました。んー。大まかには統語は文法と同じようなものと思ってもらってかまいません。ただし、文法には慣習が多く入り込んでいますが、統語はそういうのは無視します。えと、まぁ普通は。例えば、慣用句は文法の範疇ではありますが、統語の範疇ではありません。
ひとまず意味と統語を別に扱うという方法は、結局は妥当なものだったと言えると思います。しかし、だからと言って文を扱うのに意味を無視していいのかというのは、やはりある議論です。そのあたり、チョムスキーが言い出した頃はやはり議論がありました。ですが、結局は「意味ってなに?」というところに突き当たったわけですが。
まぁ、言語学を勉強すると、こういう話にぶち当たります。統語についても勉強していると、自分の書いた文を見ても「あれ? これって通じる?」とわからなくなったり。あるいは意味についても勉強していると、自分の書いた文を見ても「あれ? この言葉の意味ってどうだっけ?」となったり。
意味については「辞書に書いてある」という立場の人もいるかと思います。じゃぁね、それ、計算機で扱えますか? 扱えないんですよ。経路の長さはいろいろですがループしてたりとか。そもそも的に前提になってしまう言葉の意味が、「それってなんだ?」となったり。
あるいは、どのように、またどれだけのことが辞書に書かれていたとしても、言葉が実際に使われる際には常にそれらからは多かれ少なかれズレて使います。
こういうことを読むと、意外に思われるかもしれません。でも、意味というのはそういうものなのです。
統語でもある程度は同じようなことが言えますが、意味の方がズレは大きいかなと思います。
じゃぁ計算機は言葉を扱えないのかというと、まぁやり方しだいとか、どういう立場をとるかしだいでもあります。
意味は、その言葉が使われる状況、文脈の総体というようなことを書きましたが、計算機の性能も高くなり、人間がやっているのと同じではないとしても、同じような感じに扱えないこともないくらいにはなっています。んー。まだ不充分ではありますけど。
状況としては、統語の研究はまだまだ続くでしょう。チョムスキー系の統語論は英語ベースだから他の言語ではとかも含めて。
それに対して、何となく扱えるっぽくはなってきてはいるけれども、意味はこれからまだまだ研究が必要な分野かと思います。




