第80話 クマちゃん、危険からみんなを守る
心に正義を宿したクマちゃんは、キリリとした顔で『クマちゃ――!』と杖を振った。
◇
彼らの視線の先には、水上に並ぶ板を攻略せんとする海上訓練生クマちゃんがいた。
装備は黄色のヘルメットと幼児用エプロン。
まことに勇ましい姿だった。
しかし残念なことに、訓練生は最初の板から一歩も進んでいなかった。
リオは現状を実況するかのように、ルークに尋ねた。
「……めっちゃ回ってんだけど。しかもクマちゃん何か怒ってない?」
目の形がいつもと違う。
リオはクマちゃんの怒りの原因を観察していた。
水上の板は、乗ると回転する仕組みの魔道具だったらしい。
リオはチラリと横を見た。
ルークは水上のクマちゃんを眺めていた。
綿毛のような生き物は、クルクル回る板の上に、成す術もなく座り込んでいる。
もこもこした手先を、獣のごとき顔でかじっている。
小さな鼻には日射しが当たり、ツヤツヤと黒く光っていた。
猫のようにピチョ……と濡れていた。
鼻の上には皺が寄り、いつもはキュルンとした黒丸は、キッと吊り上がっていた。
口元はいつも以上に〝もふっ〟としているようだった。
「…………」
ルークは回転板と戦うもこもこを、ただ見守っていた。
森羅を統べる魔王のごとき容貌で、表情も変えずに黙していた。
だがこのままでは、彼の愛しのもこもこは板を攻略できないだろう。
ルークはしなやかな筋肉に覆われた腕をす――っと伸ばし、綿毛をもふっ……と抱き上げた。
まるでストレスがたまった猫のように、肉球をかじっているクマちゃんを。
◇
そうして、クマちゃんの特訓は一時中断となった。
大好きな彼の腕にもふっ……と戻ったのだ。
しかし残念ながら、お目目はキッと吊り上がったままだった。
◇
ルークによって救助された白き綿毛は行動を停止していた。
手のひらをかじりながら熟考していたのだ。
――あの板は危険だ。
あのような不安定な場所でクルクルすると、立ち上がることすらできない。
憎らしい板を撤去する必要がある。
後ろで順番待ちをしている皆が、〝アレ〟に乗ってしまう前に。
世を乱すクルクルをこのまま放置するのは悪いことなのだ。
見逃せば、板の上で一生クルクルし続ける悲しき犠牲者が出てしまう。
――クマちゃんが仲間達を守らなければ。
クマちゃんはじっとルークを見つめた。
世のためヒトのため――正義を貫くために。
まずはもふ……と地面へ降ろしてもらう。
ルークが取り出した杖を、猫手で受け取る。
自分では届かない場所に魔石を置いてもらう。
うむ、と深く感謝を伝える。
「……まさかクマちゃん、それが気に食わないからって作り替えてやろうとか思ってないよね?」
――風のささやきが聞こえる。
いつもより風が弱く感じるのは気のせいだろうか。
風のささやきを聞くと、何故かリオを思い出す。
そういえば今日のリオは、あまりお話ししていなかった気がする。
何かあったのだろうか?
せっかくのお出掛けなのだから、リオにももっと楽しんでほしい。
湖畔に咲いている花を、白猫の手で摘み、ルークに渡す。
ルークは花と魔石を一緒に、クマちゃんの希望通りの場所――危険な板の上――へと載せてくれた。
うむ、準備は整った。
クマちゃんは小さな猫鼻にキュッと力を入れた。
濡れた部分にひんやりと風を感じる。
草花の香りがする。
そうしてキュムッと両手で握りしめた杖を、クマちゃ――! と振り下ろした。
危険な板と〝リオが喜ぶこと〟を、同時に思い浮かべながら――。
水上に並ぶ板が光り、一点に集まる。
光り輝く個性的な板達が、音もたてずに変形する。
流れるように別の物へ組み替えられてゆく。
水面に浮かぶ元板に、野花のランプが飾られてゆく。
ふわり
光は静かに収まった。
すると遊具があった湖面に、あるはずのない物が出現していた。
屋根付きの船が浮かんでいたのだ。
揺れることもなく、ただ静かに、愛らしい姿で――。
◇
船の屋根からあかりが吊られている。
花の形をした可愛い蘭灯が。
リオは花をぼーっと眺めている途中ではっとした。
「デカい遊具一個なくなったんだけど!」
獣にやられたそれを見て、リオは叫んだ。
なんと水上にあったはずの巨大魔道具が消え失せている。
遊具を作り替えるのも、公共施設の湖で勝手に進水させるのも、どちらも結構まずいのではないか。
「こっちのがいいだろ」
どんなときもクマちゃんを肯定する悪しき飼い主が、艶やかな美声で適当なことを言い出した。
白もこ愛の強いルークは、愛しのクマちゃんが作ったものであれば、何でも『こっちのがいい』と言う気だろう。
リオは疑心に満ちた眼差しを向けた。
南国の鳥は腕組みをしながら「うーん」とわずかに首を傾げた。
〝素敵な船〟からリオへ、横目でチラリと視線を移す。
「僕も、クマちゃんが造った可愛くて素敵な船の方がいいと思うのだけれど」
また船を見て、意味深長なことを言う。
「――それに、君も〝こちらのほうが良い〟と言うのではないかな」
と、透き通った声で。
リオは尋ねた。
「なにそれ。どういう意味?」
ウィルの言葉に含みを感じたのだ。
「その言い方何か気になるんだけど」
だが面倒になったのか、ウィルは返事をしなかった。
代わりにクライヴが口を開いた。
恐ろしい表情で、愛らしい船を見つめながら。
「乗ればわかる」
冷徹な声だった。
含みはなくとも、ただ、冷たかった。
リオは当然『えぇ……』と思った。
が、すでにクライヴの意識は船に戻っていた。
愛らしくて心優しい、純白が造り上げた奇跡へ。
◇
リオは非常にありがたくないことに、最初に乗船する権利を得た。
クライヴに脅されたのだ。
リオは感じるままに尋ねた。
「え? まじで? 実は俺だけ乗ってみんなは乗らないとかそういうアレだったりしない?」
と、仲間の裏切りを心配するかのように。
とはいえ、本当に自分を裏切ると思っての発言ではなかった。
心配なのは彼らの〝気遣い〟だった。
『お前一人でゆっくり楽しんで来い』
『いや俺ぜんぜん一人で船乗りたいとか思ってないんだけど』
そんな不安を感じているのだ。
リオと仲間達の間には時々(あるいは頻繁に)心のすれ違いが起こる。
リオはチャラい外見のわりに真面目だった。
そんな男の心配事は、他の追随を許さぬほど大雑把な彼らにとって、一々心配するようなことではないからだ。
リオは頭を屈め、ゴリラちゃんを抱えたまま船に乗り込んだ。
当然一番乗りである。
「――この船まったく揺れてないんだけど」
驚いたように目をまたたいた。
『お前一人でゆっくり――』という懸念は、どうやら考えすぎだったらしい。
特に問題もなく、仲間達も船に乗ってきた。
厳密にいえば、ゴリラちゃんを抱えたリオは一人ではなかった。
が、ゴリラちゃんは非常に口数が少なかった。
喋っていなければただのぬいぐるみにしか見えないのだ。
そんなゴリラちゃんが不意打ちで、不思議な声を頭の中に直接伝えてくるのである。
そういう怪奇現象染みたところも、リオの心をざわつかせる一因だった。
不思議なことに、船は人が乗り込んでも傾いたりしなかった。
シャラ――と装飾品が揺れる音が響いた。
ウィルは座席に腰掛け、クマちゃんに優しい笑みを向けた。
「この船はとても安定しているね。クマちゃんの優しさが伝わってくるよ」
クマちゃんはルークの腕の中で『うむ』と頷いた。
木製の屋根が陽を遮っていた。
ふと外を見やると、庇のふちに吊り下げられた花の蘭灯が目に映った。
昼を過ぎたばかりだからだろう。
灯りはほんのりと、花を内側から照らしていた。
長椅子のような座席は船体に沿って両側に設置されていた。
向かい合わせで会話を楽しめる、ゆったりとした作りになっていた。
しかし(一部の人間にとっては)残念なことに、陸地からは子供の雄叫びが響き渡っていた。
森の街の荒々しい子供が集う、色々と激しい公園なのだ。
全身が美術品のような男には、まったくもって不似合いな場所だった。
けれども美しく設えられたこの船だけは、優雅な彼にとても良く似合っていた。
隣に座ったのはルークだった。
彼はクマちゃんの頬を長い指でくすぐると、いつものように綿毛を褒めた。
「ああ。いい船だ」
ルークはクマちゃんをじっと見ていた。
長い脚を組み、ヘルメットと幼児用エプロンと愛くるしい顔、そのすべてが視界に入るようにして。
クマちゃんはルークの顔が見える体勢で抱かれると安心するようだった。
人間の赤ちゃんと同じらしい。
ストレスは消え、安心した猫の顔になっていた。
つぶらな瞳できゅるるんと彼をみつめて、肉球をペロペロしていた。
「…………」
クライヴは無言で頷いた。
席は当然、清らかな純白が一番よく見える場所――ルークの正面である。
奇跡の白毛はまるで仰向けで抱っこされた猫のようだった。
無防備な後ろ足も最高に可愛らしかった。
恐るべき愛らしさに、自然と眉間に皺が寄る。
これでもかというほどグッと。
そんなクライヴの目つきは数人殺ってきたかのような険しさだったが、指摘する者はいなかった。
◇
「ウィルの言ってたのって何? 俺が船のほうが良いって言うとか」
リオは向かいに座る男に尋ねた。
忘れていなかったのだ。
しかし答えたのはリオが抱えるゴリラちゃんだった。
先刻まで静かだった腕の中から声がした。
「船の先に付いているだろう。船首像というのだったか」
低く美しい不思議な声が、彼らの頭に響いた。
この船の船首像は、リオが気に入るものらしい。
「え? 船首像とかついてんの? この船」
リオは船の先端を見た。
ゴリラちゃんの言葉が妙に気になった。
細長い流線形の船首に、何かが座っている。
視力が優れているせいで〝何か〟は良く見えた。
非常に見覚えのある姿だ。
一心同体といっても過言ではない。
金の輝きを持つ〝何か〟は――
「――俺じゃね?」
船首に座っているのは見覚えしかない人間の像だった。
なんなら子供時代の顔も知っているかもしれない。
あまり考えたくはないことだったが――自分の姿によく似ていた。
リオは静かに問うた。
「……頭だけ金色なのおかしくね?」
明らかにおかしい。
木で出来ているのになぜ、髪だけ……。
両腕に抱えているのはクマちゃんとゴリラちゃんだろう。
しっかり確認して、もう一度叫んだ。
「……俺じゃん!」
ウィル曰く、リオが『こちらのほうが良い』というらしい何か。
それはまさかの、〝リオの船首像〟だった。
――つらい。
全然こちらのほうが良くない。
だがここは喜ばなければいけない。
理由は分からないが、おそらくクマちゃんは、リオのためにあの像を作ってくれたのだろう。
しかし素直な気持ちで答えていいなら、
つらすぎる。
クマちゃんは可愛いが、木製金髪像には胃痛を覚える。
自分は酒場の冒険者の中でもそれなりに顔が知られている。
この公園はでかい。
でかい公園のど真ん中に、この湖はあった。
そんな場所に〝自分の船首像を付けた船〟を浮かべる〝色々と主張の強い犯人〟として、取り調べを受ける未来が見える。
あの船首像について聞かれたとして――
『あれは俺じゃないです』
『では別の金髪ですね』
――で済むとは思えない。
「良かったな」
無駄に良い声だった。
ルークがリオに伝えた言葉に悪気はない。
彼はクマちゃんが自分の像を作ったとしても、優しく撫でて感謝を伝えるのだろう。
腹立たしいほど色気のある声も、ただの地声なのだ。
そんなことはリオにも分かっていた。
「……ありがとう」
リオは様々な感情をぐっと飲み込んだ。
ルークとその腕の中の綿毛に礼を言った。
黄色のヘルメットと幼児用エプロンが似合っていた。
実に可愛かった。
クマちゃんはつぶらな瞳をリオに向けていた。
黒い瞳は必死に何かを訴えていた。
うるうると、水の膜が揺れていた。
……なんとなく『リオ、嬉しい?』と言っているのが分かった。
衝撃的な愛くるしさだった。
胸が、心がぎゅうっと強く締め付けられた。
見落としてしまった何かが、もどかしかった。
リオは複雑な表情でクマちゃんを見つめ、頷いた。
面倒なことを考えるのはやめにした。
そうしてただのんびりと、愛しいもこもこが造った可愛い船を、心ゆくまで楽しむことにした。
クマちゃんの望み通り、みんなで仲良く、笑顔を浮かべて。
――三十分もせず、そのもこもこが何かを発見するとも知らずに。




