第八十二夜 異界よりのもの -4-
冷たい雨に打たれながら、ふたりは互いにゆっくりと歩み寄りました。最後に言葉を交わしたのは十年以上も前のこと。タルナールはすっかり大人になりました。しかしナジャハの姿はちっとも変わっておりません。
「立派になりましたね、タルナール」
穏やかに、ナジャハが言いました。その声はまるで見えない糸のように、タルナールの魂を束縛しました。
「また会えてよかった。さあ、行きましょう」
どこへ? と、タルナールは目だけで尋ねます。
「ここではない、べつの場所へ。物語を求めに行くのです」
僕の物語はここにあります。タルナールは首を横に振りました。
「いいえ。ここにあるのは死と滅びだけです。動かない腕と声の出ない喉で、いったいなにができるというのですか? 私が治し方を教えてあげます。命より大事なものはないのですよ。生きてさえいれば、色々な喜びが味わえるのですから」
ナジャハは腕を伸ばし、タルナールの頬に触れました。
「さあ、そんなに怖い顔をしていないで。笑ってください」
そう言いながら、ナジャハはタルナールの腕を取り、それでも従わないのを見ると、胸に抱きついて媚びたような声を出しました。
「ああ、タルナール。どうしてそう強情なの? あなたは私のために物語を創るのでしょう? その私が行こうと言っているのだから、従わない道理はないはずじゃありませんか?」
普通に考えれば、ここにナジャハがいるわけはないのです。タルナールの存在をどこかで聞きつけたのだとしても、アモルダートの近くには夜の獣たちが跋扈し、徒歩や騎馬で近づくことはできないのですから。
その姿にも違和感を抱いてしかるべきです。元々謎めいた容貌であるとはいっても、十年間まったく老いない人間などおりません。
しかし、タルナールはナジャハの行動や姿を妙だと思いませんでした。それは夢を見ている者が奇妙な光景を目にしても、夢だと自覚しないのに似ておりました。
そして、タルナールはナジャハに従うのが当然であると感じました。それが文句なしに正しいことであると思いました。すべてを彼女に委ねれば、万事うまくいくという気持ちになりました。
それでも、タルナールはナジャハを拒みました。
足を踏ん張り、胴体をねじるようにして、抱きつくナジャハを振り払いました。彼女は一瞬、哀しみと失望の表情を浮かべて、地面に倒れました。そして、二度と起きあがりませんでした。
タルナールはナジャハのもとにしゃがみ込み、横向きになった顔を覗き込みました。彼女の目からは急速に光が失われ、鼻と口からは血が流れ出しておりました。
半身を引き裂かれるような喪失感が、タルナールを襲いました。精神は激しく揺さぶられ、狂気の縁に追い込まれました。ぶつりぶつりと意識が断絶し、そのままナジャハの横に倒れてしまいそうになりました。
しかし、タルナールはあと一歩のところで踏みとどまりました。
頭のふらつきを、胴のぐらつきを抑えて、ふたたび立ちあがりました。それは腐った身体で墓穴から這い出すような、途方もない努力を必要とする行為でした。
それでも、タルナールは確かに、アル・アモルの作り出した幻の影響を脱しつつありました。
もちろん、幻です。タルナールはようやく、多少なりともまともな考えができるようになってきました。
自分をナジャハの幻から、狂気から引き戻したものはなにか。タルナールは思いを巡らせます。それはおそらく、物語への執着だろう。すべてを失ってもなお残る、吟遊詩人としてのありようだろう。ナジャハがいなくても、エルがいなくても、自分はこの物事の終わりを見届けたいのだ。
危ないところでした。あの幻に屈していれば、きっとタルナールもバーラムと同じように、アル・アモルの傀儡となっていたことでしょう。タルナールは思わず身震いしましたが、それは戦慄によるものばかりでもありません。雨に長く打たれていたせいで、ひどい寒気を感じます。
それでも脚を動かしていれば、どこかへは辿り着くはずだと信じ、タルナールは死んだアモルダートの街路を、ふたたび歩きはじめました。
いまだ幻の影響を脱し切れていないのでしょうか、タルナールが感じる時間や距離は甚だ不確かでした。ほんのひと息の間であるようにも、七昼夜を徹して行進し続けているようにも思えました。辻から辻までの長さであるようにも、大陸を横断できるほど歩いているようにも思えました。
しかし果たして、終わりはやってきました。
タルナールはやがて、大きな穴の縁に行き当たりました。それは差し渡し二百歩ほどもある、正確な円形の穴でした。
〈病人街〉だ、とタルナールは気づきました。〈魔宮〉の入口。夜の獣が最初に湧きだした災厄の中心地。〈病人街〉はアモルダートのほかの場所と同様、黒く死に絶えていましたが、いくつか、そうでないものが見えました。
まず目に入ったのは、トゥーキーたちの鮮やかな翼が三対。彼らは力なく倒れ、動く様子はありません。それから、ラーシュ、ネイネイ、エトゥの姿もありました。こちらも地面に伏し、生きているのか死んでいるのか分かりません。
タルナールは声の出ない喉で彼らの名を呼ばわりながら、穴の縁にある階段をおりていきました。最後の数段を踏み外し、固い地面に半身をしたたか打ちつけながらも、ふたたび立ちあがって仲間たちのもとへ駆けつけました。
一番近くにいたエトゥの傍で跪き、容体を確かめます。幸いにして、彼には息がありました。大きな怪我もしていません。かといって、無事というわけでもないようです。彼の目蓋が半開きになり、奥にある瞳は激しく揺れておりました。口からかすかに漏れるのは、苦悶に満ちた呻き声。ラーシュも、ネイネイも、トゥーキーたちも同じような様子でした。
彼らは幻に囚われている、とタルナールは確信しました。彼らの魂はいま、引き裂かれるような痛みに耐えているに違いありません。しかしそれが分かったとして、どうやって助ければよいのか?
途方に暮れ、タルナールがあたりを見回したとき、〈病人街〉の中心にある、黒い建造物が目に入りました。すっかり変わり果てたアモルダートの中で、これだけは災厄の前とほとんど変わりませんでした。まるで無関心な傍観者のように、のっぺりと佇んでいます。
しかしタルナールの注意を引いたのは建造物自体でなく、そこに背を預け、脚を投げ出すようにして座り込む、人間の形をした影でした。
さきほど見たナジャハのように、これもアル・アモルが作り出した幻だろうか。警戒心をびりびりと刺激されつつも、タルナールは影に近づきました。
足音に反応したのか、うなだれていた影が顔を上向けます。血走った目だけが不気味な人間らしさを残し、あとの輪郭は茫洋としています。しかし全体の容貌は、確実にある人物の特徴を備えていました。
それは、かつてアモルダートの主であった男、バーラムでした。埋もれていた〈魔宮〉をふたたび見出し、アモルダートを造った者。アル・アモルの声に呼ばれた者。その意思に屈し、災厄の直前に姿を消した者……。
タルナールに向かって、バーラムが手を伸ばします。それとは別に、彼から生えた不可視の触腕が、じりじりと這い寄ってくる気配もしました。
ザーランディルの一撃によって、アル・アモルは滅びの火に灼かれました。しかし、最後の欠片まで燃え尽きたわけではありませんでした。その欠片――というよりも、核と呼ぶべきものかもしれませんが――それこそが、変わり果てたバーラムだったのです。
触腕を避けるようにして、タルナールはあとずさります。踵を返して向かうのは、倒れているラーシュのところです。叩き起こすためではありません。彼の傍らに転がったザーランディルを拾うためです。
しかしあと一歩というところで、触腕が追いついてきます。それは足首に巻きつき、さらには太腿や腰まで伸びてきます。
タルナールは膝をつき、倒れ込みました。身体の自由は奪われつつありますが、まだ屈服してはいません。辛うじて無事な上腕と肩を使って地面を這い、ザーランディルの柄に齧りつきます。
その直後、漁師が網を手繰るように、触腕がタルナールを引き寄せます。バーラムのもとへ。アル・アモルのもとへ。暗く寒々しい異界の深みへ。
滅茶苦茶にザーランディルを振り回し、拘束を脱しようとすることもできたでしょう。しかしタルナールはそうしませんでした。死すら生温く感じる混沌の満たされた盃が、自らの頭上でゆっくりと傾けられるのを感じながら、おそらく一度きりであろう攻撃の機会を、じっと待ちました。
ずるり、ずるり。黒く変じた石畳が、砕けた結晶の欠片が、乱暴に肌を削ります。タルナールはなんとか身体をねじり、仰向けになりました。頭を起こしてみれば、相変わらずこちらに向かって手を伸ばす、バーラムの姿が目に入ります。
お前のものにはならないぞ。僕も、この世界もだ。
バーラムの指先がいよいよ触れようかというときを見計らい、タルナールは触腕の力と、自由になる筋肉のすべてを利用して、勢いよく身体を起こしました。辛うじて人間らしさを残したバーラムの目が、影となり果てた胴体が、剣の間合いに入りました。
タルナールは歯を食いしばり、首を振るようにして、ザーランディルの一撃を放ちます。戦士の強烈さも、魔術師の鮮やかさも、狩人の精密さもない、それでも全身全霊の一撃でした。
ほぼすべての魔力を使い尽くし、しかしいまだわずかな残滓を纏ったザーランディルの刃が、瘴気と闇で造られたバーラムの身体を通り抜けます。肉を穿ち、骨を断つような感触こそありませんでしたが、タルナールにはアル・アモルの核となる部分が放つ、断末魔の呻きを聞いたような気がしました。
触腕が力を失い、タルナールは地面に倒れます。ザーランディルも固い音を立てて傍らに転がりました。バーラムはいまだそこに在りましたが、輪郭は既に朧となり、雨と風に溶けていく最中でした。
「昼の中に夜が湧き……夢が現を喰らった……」
影が言いました。弱々しく掠れてはいましたが、それは確かにバーラムの声でした。
「ようやく覚める……千夜の夢が、ようやく……」
消え去っていくバーラムを、アル・アモル最後の一片を見届けたあとで、タルナールはごろりと仰向けになりました。いつのまにか雨はやみ、分厚い雲の切れ間から、わずかに陽が差してきているところでした。
逆光の中、上空で旋回するものがありました。〈病人街〉で姿を見なかったルアフです。彼はどうやら助けを呼びにいっていたようです。タルナールの耳に、近づいてくる馬蹄の音が聞こえてきました。
「終わったのか」
タルナールは呟いてから、自分の声が戻っていることに気がつきました。指先にも感覚があることを確かめて、安堵の息をつきます。
いや、終わりではない。僕の仕事はこれからはじまる。
仲間たちや、夜の獣と戦った人々の無事を祈りながら、タルナールはゆっくりと目を閉じました。




