第六十夜 災禍の呼び声 -8-
夜が去り、朝が訪れます。
日の出まであと半刻あまりという時間に、マヌーカはハアルとアミナを天幕に残して、野営地中央の幕屋を訪れました。昨日の会合の終わり際、アモルダートを案内する人間として、シャルカンから行軍への同道を求められていたからです。
冷たい黎明の中を行き交う士官や兵卒たちの様子には、少なくない動揺が見て取れました。この状況では仕方のないことと思いつつ、なにかまたよからぬことが起こったのではないかと感じ、ひとりを捕まえて尋ねてみます。
「東にあるケッセルの野営地が襲われ、壊滅したのだ」と、兵士は言いました。
「壊滅?」
マヌーカはさらに二、三質問しようとしましたが、彼はどうも忙しいようで、さっさと自分の持ち場に向かってしまいました。
いったいどのような襲撃があったのか。ジェディアは無事であるのか。そのようなことを気にしながら、マヌーカは昨日と同じ幕屋へ入ります。
そこにはすでに鎖帷子を纏ったシャルカンがいて、眠そうな様子で床に胡坐をかきながら、焼き菓子のようなものをぼりぼりと齧っているところでした。
「お待たせして申し訳ありません」
「いや、我もついさっき起こされたところじゃ。兵士というのは朝からよう動けるものよな。あと四半刻もせず出発となるが、お主、準備はよいのか」
「はい」
「そのうち声がかかる。適当に座って待っておれ」
「陛下。いましがた、ケッセルの野営地が壊滅したとお聞きしましたが」
マヌーカはシャルカンの近くに腰をおろし、尋ねました。
「そのようじゃ。さきほどケッセルの伝令が来た。こちらからも斥候を送って、状況を調べさせておる。伝令が言うには……」
「言うには?」
「信じられぬほど大きな獣に襲われた、と」
マヌーカとシャルカンが思い浮かべたのは、きっと同じ姿だったでしょう。つい先日、タルナールたちともぐった〈魔宮〉でのこと。
苦労して討ち取った夜の獣は、人の倍ほどの背丈を持っておりました。もし警戒をすり抜けて野営地に殴り込まれれば、訓練された兵士たちであっても犠牲は免れないでしょう。しかしかの獣も、大きさとしては信じられぬというほどのものではありません。
いったいどれほどの脅威がケッセルの野営地を襲ったのか?
さしものシャルカンもいつもの飄々とした態度を引っ込め、言葉少なに焼き菓子を齧りながら、なにやら物思いの体。
その様子を見たマヌーカも問いを重ねる気にはなれず、奴隷が持ってきた香りのよい茶にときおり口をつけるくらいで、ほとんど黙りこくったままでおりました。
そうしてしばらく待っていると、やがて天幕に訪れた士官が出発を告げました。段々と明るくなる空の下、あてがわれた駱駝の背に乗ったマヌーカが野営地を出ると、すでに軍勢は準備を完了し、出発の号令を待つばかりとなっておりました。
アモルダートへ向かうのは、野営地守備と避難民警護のための人員を除いた一千六百名。その内訳は駱駝騎兵が一千二百。弓兵が二百。巨人隊が二百。
駱駝騎兵は小ぶりの弓と刃の長い槍で武装し、状況に応じて戦い方を変えます。弓兵が持つ弓は騎兵のそれよりも大きく、曲射にて遠くの敵に矢の雨を降らせ、消耗させるのが役割です。
巨人隊は防具こそ軽いものしか身に着けておりませんが、これまで何度も述べてきたように、重量のある鋼鉄の槌矛を武器とし、いかに厄介な敵集団であっても、容易にその陣形を破砕することができます。
バーラムの私兵たちも装備の質だけで見ればこれに劣りませんが、さすがに守護者直属の軍勢となれば面構えや体つきからして違います。もし実際に両者が衝突したとして、およそ戦闘と呼べるほどのものになるかどうか。
さて、出発の号令くだされると、軍勢がぞろりと動き出します。当分の間、一千六百の兵たちは数十個の小部隊に分かれ、広く散開して荒野を進みました。アモルダートから湧き出した夜の獣を探し、見つけ次第矢を射かけるためです。
果たして野営地を出発してから一刻ばかりの間に、軍勢は断続的な襲撃に遭いました。ひとつひとつは大きな脅威ではなかったものの、報告をすべて合わせると百体近い夜の獣を殺した計算になります。
赤茶けた大地はおおむね平坦でありますが、ときおり現れる岩場や丈の低い草木があるため、完全に見通しが利くわけではありません。遠くから敵の姿を捕捉できた場合はまだしも、思わぬ死角から夜の獣が現れた場合は、ほとんど刃を交えるような距離での対処を迫られる部隊もあったようです。
幸いにして、マヌーカのいる守護者の本隊が戦いに巻き込まれることこそありませんでした。しかし離れた場所から響く獣の咆哮や、撒き散らされた血肉が放つ悪臭などは、どれだけの守りに囲まれていたとしても、避けることはできませんでした。
また道中には点々と、野ざらしになった人々の骸もありました。
アモルダートから逃げ出しながら、安全な場所まで行きつくことのできなかった人々の、それは悲惨な末路でありました。彼らはもしかすると、街に乗り込んできたシーカ兵やケッセル兵の暴虐は予想していたかもしれません。しかし夜の獣に引き裂かれ、食い荒らされた身体を露天に晒すなどということは、きっと毛先ほども考えていなかったでしょう。
「予想より獣の数が多いですな」
アモルダートまでの道程を半分ほど消化したあとで、アズバァイルがシャルカンに向かって言いました。
彼は似合わぬ鎧兜に身を包み、主君と轡を並べながら、頻繁に行き来する伝令の言葉から、全体の状況に気をとがらせているようでした。万が一ひとつの部隊で対処しきれない敵が現れれば、急いで戦力を移動させなければなりませんから。
「人間の気配で集まってきているのかもしれませんが、アモルダートの周辺に、少なくとも数千はいるものと思われます。陛下、部隊同士をより密集させましょう」
「お主の思う通りにせよ」
アズバァイルは部下に指示を出すと、すぐうしろに従っているマヌーカを振り返り、バーラムの城館は市街のどこにあるのか、と尋ねました。
「中心からやや南にあります。大臣閣下」と、マヌーカは答えました。
「城館は、兵士を全員収容できるだけの広さがあるか?」
「いいえ。中で休めるのはせいぜい五百といったところ。しかし周囲にはいくつか大きな建物がありますので、それらを使えばよろしいかと」
もし日暮れまでにアモルダートを制圧できるのだとしても、既に湧き出した夜の獣を全滅させるのには、少なくとも数日はかかるでしょう。小さい建物に分散して休息を取ると再集合手間がかかりますから、バーラムの城館とその周囲の建物群は、まずまず好適な拠点と言えそうです。
アズバァイルは少し考えてから、軍勢をこのまま進めてアモルダートの北市街を通過し、〈病人街〉の様子を見たうえで、バーラムの城館に向かうことを決めました。
それからしばらく。遠く豆粒ほどのアモルダートが段々と大きくなり、もう一刻もせずに到着するだろうという頃合い。泡を食った様子の斥候が、マヌーカたちの近くへとやってきました。
「シャルカン陛下。アズバァイル閣下。獣の群です。アモルダートの市街から出てきました」
本体に先行して偵察をおこなっていたらしい彼は、駱駝をなだめながらそう報告しました。
「仔牛がおよそ二百。馬が百。まとまってこちらへ向かってきます」
呼び名について補足しておきましょう。バカルアやヒーザーンといった名はダバラッドの古い言葉で、便宜上それぞれの大きさを持つ夜の獣を分類するため、先日の会議で使用を決めたものです。
斥候が見たというのは、犬、山羊、猿と呼ばれる獣より大きく、ふつうなら廃砦の入口からさらに丸一日ほど進んだあたりでなければ、まず遭遇する恐れのない種類のものでした。
「鷹の翼の陣形を取れ」と、アズバァイルが傍らの士官に命じました。「巨人隊を中央前衛に配置せよ」
はて、鷹の翼の陣形とはどのようなものか。マヌーカはいざ接敵というときに置き去られてはたまらないと思い、傍らの兵士に尋ねてみます。
曰く鷹の翼の陣形とは、数で劣る敵を包囲するためのもの。比較的軽装の部隊を両翼に配置し、左右から敵を挟み込むよう移動するのがその要諦です。
はじめは遠距離から矢を浴びせつつ徐々に翼を閉じ、最後にはすべての方向から白兵戦を挑む。敵は前後左右から攻められて防御もままならず、撤退することもできず、やがては殲滅されることになります。弓と槍の両方に熟練し、高い機動力を誇る駱駝騎兵でこれをおこなえば、非常に大きな効果を発揮します。
ただしこの戦術を成功させるには、軍勢の練度が高いのはもちろんのこと、中央本隊の守りが堅固であるのが条件です。しかしながら今回は精鋭の巨人隊が前衛を務めるので、いかなる敵が相手でも陣が崩れることはないであろう、と兵士は請け合いました。
この戦術が夜の獣の群にどの程度通用するのかは分かりません。しかし軍勢を率いて敵を打ち破ることはシャルカンやアズバァイルの仕事ですから、自分が口を出すのは出過ぎた真似というもの。
マヌーカはとにかく守護者の傍を離れまいと気を引き締めつつ、敵がやってくるという南の方向に目を凝らしました。




