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千夜の魔宮の物語  作者: 黒崎江治
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第五十六夜 災禍の呼び声 -4-

 獣の六肢はいずれも怪力を備え、もし掴まれればあっという間に引きずりおろされてしまうでしょう。ジャフディはこれまで数えきれないほどの夜の獣を屠ってきましたが、さすがに十匹以上を同時に相手取るのは危険すぎます。


 とはいえ冷静に考えてみれば鎖は一本。夜の獣たちがいっせいにのぼってくることはできません。ならば先頭の一匹に追いつかれないよう、とっとと上までたどり着いてやればよいだけの話です。


 ジャフディは下腹にぐっと力をこめ、猛然と登攀を再開しました。指が強張り、ぜいぜいと苦しい息を吐きながらも、自分の身体を少しずつ上へと運んでいきます。


 それでも悲しいかな、所詮は地面で暮らす人間の身。どんなに急いだところで、敵を置き去るほどの速度は出せません。


 一方で夜の獣はがちゃがちゃと激しく鎖を鳴らしながら、確実に追いすがってきます。その存在はすぐにたちのぼる悪臭として、そして身の毛もよだつ息遣いとして感じられるようになりました。


 ついにジャフディは、自らのかかとに掴みかかろうとしたおぞましい指先を、視界の端に捉えました。


 咄嗟に鎖の下を見遣れば、そこには血みどろの黒い毛皮を纏う、猿を怪物的に歪めたような姿の獣が、赤い瞳を爛々と煌めかせているではありませんか。


 あと建物半階分のぼれば、市街に辿り着けるというのに! ジャフディは焦りと怒りに任せて、のぼってくる獣を叩き落とそうと何度も蹴りつけます。運よく目か鼻面に当たって怯ませられれば、多少は時間が稼げるだろうと考えてのことでした。


 しかし、この試みは失敗に終わります。それどころかジャフディは蹴り足を掴まれ、身動きが取れなくなってしまいました。


「クソ! 放せ! 放さねえかこの野郎!」


 身体をねじりながら悪態をついてはみたものの、それでたじろぐ相手ならもとより苦労はありません。暴れているうちに懐から小袋が零れ、獣の身体を掠めて落ちていきます。それは遥か下の地面に叩きつけられ、金貨銀貨を派手に散らばらせました。


 命を張って稼いだ金が! しかしいまは長々惜しんでいる余裕はありません。いまにも万力のような獣の手が、ジャフディの足首をへし折ろうとしているのですから。


 こうなればもはや破れかぶれだ、という心持になったジャフディは、片方の手で身体を支えながら、もう片方の手と口でナイフを抜き放ち、生意気な相手にせめて傷を負わせてやろうと覚悟を決めます。


 反撃の甲斐なく捉えられ、最後には貪り喰われるのだとしても、少なくともこの一匹は、きっと人間の意地というものを思い知るでしょう。


 助けが訪れたのは、まさにそんなとき。


 離れた場所から飛んできた矢が、獣の首にずぶりと突き立ったのです。


 予想外の方向から攻撃を受け、醜い顔をさらに醜く歪ませた獣の口から、血反吐混じりのぞっとするような苦痛の声があがります。


 矢傷はすなわち死をもたらすものではなさそうでしたが、ジャフディが捉まれた足首を引き抜くのには充分な牽制となりました。


 やはり普段から善行を心掛けてきた甲斐があった! ジャフディは手に持ったナイフを獣に投げつけてから、最後の力を振り絞ってふたたび鎖をのぼります。


 そしてついには、〈病人街〉を囲む穴の縁に辿り着きました。ジャフディは鎖から太い木の支柱を伝い、地面におりたちます。掴まれた足首が少し痛みましたが、歩くのに支障が出るほどではなさそうです。


 いましがた夜の獣の首を射貫き、ジャフディの命を救ったのは、充分な装備に身を固めたアモルダートの若い兵士でした。彼はジャフディから二十歩ほど離れた場所から再び矢を放ち、まだ鎖にしがみついていた獣を見事に射落としました。


 しかし彼は〈病人街〉の惨状に衝撃を受けているのか、その後しばらく呆然としておりました。


 痛む手と腕をさすり、息を整えながら、ジャフディは彼と合流します。


「これはいったい、どうなってるんだ?」と、童顔の兵士は言いました。


「俺が知りてえよ!」と、苛立ち紛れに答えつつ、ジャフディは改めて周囲を見渡します。


〈病人街〉にあるふたつの細い階段はいまだ数百の人々で渋滞しており、そこに連なっている者はもはや死の順番待ちをしているのと大差ありません。暴れ回る夜の獣はいまや数十匹に達し、いまなお湧き出し続けておりました。


 それらの一部は血に酔ったように〈病人街〉で留まっておりましたが、壁の突起やひび割れを器用に使いながら、市街へと進出しようとしているものも見られました。


〈魔宮〉の入口を封印するのはもはや不可能です。アモルダートの市街に混乱と殺戮が波及するのも、時間の問題であるように思われました。


「おい、お仲間はなにしてる?」と、ジャフディは兵士に尋ねます。


「え?」


「え、じゃねえよ。お前、これをひとりでどうにかできると思ってるのか? アモルダートには二百人の兵士がいるんだ。まとまってここを守らなけりゃ、すぐに市街も獣でいっぱいになる。そうなりゃみんな殺されちまうぞ!」


 ジャフディが兵士の胸に指を突きつけて言いますと、彼もようやく事態の深刻さが腑に落ちたようでした。彼は〈病人街〉に向けてもう一度弩を放つと、仲間と合流するためでしょうか、踵を返してバーラムの城館がある市街の南へと走っていきました。


 ジャフディもまた、この場を離れます。たとえあの若い兵士が二百人の仲間を連れてきたとしても、〈病人街〉をふたたび制圧するのは困難でしょう。


 ろくな実戦経験もなく、士気も低い形ばかりの兵士たちが、あの夜の獣に太刀打ちできるとは思えません。最大限うまくいったとしても、市民が避難する時間を稼ぐのがせいぜい。


 そして、夜の獣はとめどなく湧き出し続ける。


 まだなにが起こっているのか理解していない人々の横を通り抜けながら、ジャフディは強い予感を抱きます。


 おそらくこのまま、アモルダートは破滅するでしょう。精強な他国の軍隊に蹂躙されるのではなく、その内側に孕んでいた闇に腹を食い破られて死ぬのです。


 あの馴染みの娼婦の愛想よい笑みも、行きつけの酒場のおやじが作る鶏の焼肉も、懐が温かいときに歩く大通りの喧噪も、すべてが失われるでしょう。〈魔宮〉から教授した豊かさの代償を、最も悲惨な形で支払わされ、消えるのです。


 なんという無常! ですがしみじみと悲しんでいる暇はありません。取り急ぎどこへ逃げるべきか、とジャフディは素早く頭を巡らせます。


 近ごろジャフディが拠点にしていた廃砦には、〈魔宮〉にもぐるための装備一式、それから財産の大部分も置きっぱなしになっておりました。


 もしかするとあの場所も、夜の獣で溢れてしまったでしょうか? しかしシーカ軍を警戒するため、廃砦には普段から数十人の兵士が詰めています。出入口もそう広くありませんので、たとえ夜の獣が這い出してきたとしても、きっと守りきることができるでしょう。


 懐に入れていた金貨銀貨はさきほど落としてしまいましたので、いったん廃砦に寄って財産を持ち出すという選択肢は、ジャフディにとって非常に魅力的なものに思えました。


「いいや、そいつは危ねえ考えだぜ」


 しかし、ジャフディは自分に言い聞かせるように呟きました。


「中途半端に希望を持つのはよくねえ。せっかく命を拾ったんだ。まずはこいつを守ることを考えなきゃならねえ」


 アモルダートができる前は食うや食わずのその日暮らし、ほとんど身ひとつだった自分が、またもとに戻るだけ。そう考えれば大したことはありません。生きてさえいれば、今後いくらでもやりようはあるのです。


 この千夜の間、自分は〈魔宮〉の夢を見ていたのだ。そう考えれば大したことはありません。小袋いっぱいの金貨も、美しい女も、上等な酒も、すべては夢だった――


 そう思うしかない。死ねばすべては終わりなのだから。


「畜生!」


 ジャフディは大声で悪態をつき、顎鬚をむしり取って湧きあがる悔しさをこらえました。


 もしかしたら、この混乱はすぐに収まるかもしれません。バーラムが整然と兵士たちを指揮して夜の獣たちを鎮圧し、死んだ人間を丁寧に弔い、速やかに鉱夫たちが平常の仕事に戻れるよう、取り計らってくれるかもしれません。


 しかしジャフディをこれまで生きながらえさせてきた勘が、状況の絶望を告げるのです。ジャフディの横っ面をぶん殴り、早く逃げろと急かすのです。


 お前だって、〈魔宮〉が近ごろ変だと気づいてたんじゃねえのか? なのにいまさら、甘い希望に縋ろうとするんじゃねえ!


「ああ、畜生!」


 ジャフディはもう一度、絞り出すように悪態をつきました。そしてともすれば廃砦に向きかける気持ちを振り切って、北へと足を向けます。なぜなら、そちらには守護者(ダワール)の野営地があるからです。


 この近辺で最も精強な勢力のもとに身を寄せれば、たとえ歓待はされないにしても、むざむざ見殺しにはされないでしょう。


 そのようなことを考えながらジャフディが貧民街へ入りますと、そこにはすでに虐殺の痕跡がありました。


 密集した汚らしい天幕や掘立小屋の影で、逃げ遅れた老人、病者、子どもの死体がいくつも転がって汚物にまみれ、あるいは鰐か蜥蜴に似た獣が貪り食われておりました。足元を流れる泥水には血が混じり、爪痕のある廃材がそれをせき止めておりました。


〈病人街〉から湧き出した群が到達したにしては、どうも早すぎます。


 そもそもの話、夜の獣は尋常の存在ではありません。人間を襲って食べることは知られていますが、〈魔宮〉に人間が現れる前はなにを食べていたのか。ほとんど岩しかないような〈魔宮〉でどうやって殖えるのか。


 ある者はそれを生物ではなく、妖霊や屍食鬼に近い魔性のものだ、と言いました。


 もしかすると、夜の獣はすでに〈魔宮〉の出入口を経由せず、直接地上に湧いているのではないか?


「助けてくれ!」と、どこかで声が響きました。それは次の瞬間、断末魔の悲鳴に変わりました。いましがた通り過ぎてきた市街からも、叫喚の嵐が追いかけてきます。


 異変は速やかに、そして一切の容赦なく、アモルダート全体を覆いつつありました。

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