第五十五夜 災禍の呼び声 -3-
ここでまた、別の者の目を借りることにいたしましょう。
アモルダートに生きる鉱夫たちの中でも古参のひとり。ジャフディです。
彼がのちにタルナールに語った内容はいささか誇張や粉飾の多いものでしたが、これはさすがに……という部分を除いては、あえてそのまま残しています。
そのせいで少々おかしくなっているところもありますが、これも語られる物語の妙味。起こってしまった出来事の惨さを和らげる効き目もありますので、ああ、これは少々ふかしている部分だな、などと苦笑しつつお聞きください。
さて、マヌーカがバーラムの城館で恐るべき報告を聞く少し前のこと。
ここしばらくの間、ジャフディはアモルダートの南にある廃砦を活動の拠点としておりました。そこからせっせと〈魔宮〉への遠征を繰り返したおかげで、いまや小袋ふたつがダワーリー金貨ではちきれんばかり。
あまり貯め込むばかりでも仕方がありませんので、ジャフディは骨休めも兼ねて二、三日ほど遊興に耽ろうと思い立ち、アモルダートへ戻ってきておりました。
ひとりで呑むというのもいささか退屈ですので、〈病人街〉の常宿で顔馴染みを探します。しかしこのとき、酒場は非常にがらんとしておりました。いつも片隅に座っているはずの、マヌーカの姿さえありません。折あしくみな〈魔宮〉にもぐっているか、各々の用事にとりかかっているようです。
ジャフディは肩透かしを食らった気分になりながら、筵の上にどっかりと腰をおろし、しばし物思いにふけります。
ここ最近の〈魔宮〉は、以前よりもずっと旨味のある場所となっておりました。浅層であっても小型の獣が多く湧くようになり、比較的安全にアモルを採ることができました。より深層あっても、充分な頭数と武装で挑めば、死ぬような目に遭うこともなく、金貨数十枚に相当する取り分を得ることができました。
新しく鉱夫となる者も増え続けています。〈病人街〉の宿の部屋は随分前に溢れ、いまでは市街にある隊商用の宿も埋まりつつあるようです。
全体で何人いるのか、ジャフディは把握していませんでしたが、もしかするとこのひと月で、十倍にもなったのではないでしょうか。情勢がなにかと騒がしくなってからは、バーラムの許可もあってないようなもの。
人が増えれば、ひとりあたりの取り分が減ってしまうではないか。ジャフディはにわか鉱夫たちが流れ込んできた当初、そのような苦々しい思いを抱いておりましたが、結果として心配は不要でした。
〈魔宮〉は鉱夫たちに与え続けたのです。尽きることなく。それどころか、より多くを。
ジャフディ率いる一団がブルズゥルクを討伐して以降、鉱夫たちは深層に挑みやすくなりました。廃砦の入口が発見されてから、遠征はもっと容易になりました。
しかしそれらの要因を除いたとしても、〈魔宮〉はより多くのアモルを産出するようになっておりました。さきほど述べたように、夜の獣の数自体が増えたからです。
なぜ?
気にする者はほとんどおりませんでした。より多くの麦が実る。より多くの魚が獲れる。その逆ならともかく、自分に利益のあることならば、ただ喜ばしい、嬉しいと思い、深くは考えないのが人情というもの。
しかしジャフディはさすがに古参ということもあり、急激な変化に対して違和感を覚えるわけです。
このまま夜の獣が増え続けていったらどうなる? 徐々にであれば対処もできる。しかし、作物を食い尽くす蝗のように、突如大量に現れたとしたら? 蝗程度の大きさならともかく、人間より強い夜の獣が、人間を上回る数で現れたら?
ああ、それは結果として的を射た懸念でした。
人がいないならば仕方ない、ひとりで娼館にでもしけこむか、とジャフディが立ちあがろうとしたとき、宿の外、〈魔宮〉入口のあたりがにわかに騒がしくなりました。
鉱夫が増えてからというもの、乱痴気騒ぎや喧嘩沙汰も多くなりましたので、はじめジャフディはその類のことだろうと思い、大した関心も抱きませんでした。
しかし次の瞬間響いた叫び声は、ただならぬ内容を告げていました。
「逃げろ! 逃げろ! 夜の獣が出てくるぞ!」
もしそれだけで終わっていれば、麻薬の服用者が幻覚でも見たのだろう、と聞き流したかもしれません。しかし続く悲鳴や怒号を聞くに及び、ジャフディにもなにやら尋常ならざる事態が起こっていることが呑み込めました。
酒場を横切り、宿の扉を開けてみると、そこには。
そこにはジャフディが一度たりとも見たことのない光景が広がっておりました。
〈魔宮〉の深層にしか棲まぬはずの、昼の世界には決して出てこぬはずの、羊ほどの大きさを持つ夜の獣が複数、入口の鉄扉を通り抜け、〈病人街〉を混乱に陥れていたのです!
さらに開け放たれた扉からは、逃げてきた鉱夫たちを追うように、次々と獣が現れます。鉄扉を守るはずの兵士たちも完全に浮足立ち、本来の役割も果たさず茫然と立ち尽くし、あるいは無力に逃げ回っておりました。
夜の獣は並々ならぬ狂暴さを持つ生き物。人間と見るや襲いかかり、その黒々とした爪牙や角で、驚愕に固まる人々を正面から、慌てるあまり転げた人々を背中から引き裂き、突き刺します。
ああ、乾いた土に鮮血が撒き散らされ、臓腑が零れ落ち、食いちぎられた四肢が転がります。〈病人街〉はまたたく間に凄惨極まる様相を呈しました。
たった四半刻前まで安穏と暮らしていた人々が、いまは泣き叫びながら追い立てられ、あっけなく殺されていきます。富をもたらす存在と考えていたものに。危険ではあっても、あくまで獲物であると考えていたものに。
なぜ。いったいなぜこのようなことが。
ジャフディも心の隅で懸念し、最悪の場面を想像していたとはいえ、実際目の前にしてみると、にわかに信じることができません。
もしジャフディが腰に曲刀があったならば、成すすべなく襲われるか弱い人々を守ることもできたでしょう。ええ、もちろんそうしたに違いありません。
しかしこのとき運の悪いことに、武器や防具といった重たい荷物は、拠点としていた廃砦に置いてきてしまったのです。常に持ち歩いているナイフだけはありますが、これで切ることができるのは、どう頑張っても瓜ぐらいのものでしょう。
ジャフディは歯噛みしつつも、逃走するよりほかありませんでした。
〈病人街〉には内壁に沿って作られた階段がふたつ、物資を運ぶためにつくられた昇降機がひとつあります。階段にはすでに怯えた群衆が殺到し、押しのけられた人間が転げたり、少しのぼった場所から落下したりと、非常な混乱に陥っておりました。
脱出路の広さに比べて、〈病人街〉にいる人間が多すぎるのです。いまからあそこに向かったとして、引き倒されて足蹴にされるか、少しも進めないまま背中から襲われるのがおちでしょう。
一方で昇降機。丈夫な鎖で釣った巨大な籠を、滑車と歯車を利用して引き揚げる装置です。内壁の上にはついさっきまで作業をしていた奴隷たちの姿もありましたが、猿に似た夜の獣が壁をよじのぼろうとしていることに怯み、すぐさま逃げ去ってしまいました。
畜生! とジャフディは毒づきましたが、籠がおろされたままであるのを見て、しめたと思いなおしました。鎖を伝って上へのぼれば、群衆を掻き分けずとも逃げられるかもしれません。
ジャフディは災禍の燎原を駆け抜け、昇降機の鎖に取りつきます。のぼるべき距離は建物四階分。中々に骨は折れますが、やってやれない仕事ではありません。ジャフディは自分を小さく身軽に産んでくれた両親に、心の底から感謝しました。
太い鋼鉄の鎖に飛びつき、ジャフディはぐいぐいと安全な場所を目指します。三割ほど一気にのぼってから振り返ると、〈病人街〉はさながら死と叫喚の坩堝。
蠢く黒い獣が放つ悪臭と、おびただしく流された血のにおいに、さして繊細な性質ではないジャフディも、思わず吐き気を催しました。
しかしその直後、悪心も吹っ飛ぶ光景が。
〈病人街〉の市場近く、いましがた果物売りの首をへし折った獣の一体が、こちらに目を向けたのです。それは耳をつんざくような鳴き声をあげると、昇降機の方へ一目散に駆け寄ってきます。
「おい、やめろ! ほかに行け、ほかに!」と、ジャフディは思わず叫びます。
それがよくなかったのか、はじめ注意を向けたもののほかに、狼に似たもの、猿に似たもの、蠍を大きくしたようなもの、十匹近くの夜の獣が集まり、ジャフディのぶらさがっている鎖へ、我先に取りつき、のぼりはじめたではありませんか!




