第四十三夜 蛇と大君 -10-
「お休み中のところ申し訳ありません。タルナールさま」と、戸口に現れた老婆は慇懃に言いました。「お部屋の具合はいかがでしょうか」
態度や口ぶりからして使用人かとも思いましたが、彼女が身につけている灰色の長衣では、こまごまとした家事に不便しそうです。かといって、オードラン公の縁者や賓客という風にも見えません。タルナールは老婆の身分と意図を測りかねながらも、失礼のないよう丁寧に答えました。
「僕にはもったいないほどの寝床です。お気遣いどうもありがとう」
「それはよろしゅうございました。ところで、少しお話があるのですが……」
「はい、構いません」
タルナールはすぐに用件が切り出されるものと思って待ちましたが、老婆が話しにくそうにしている様子を見て、なるほど内密の相談なのだなと悟り、彼女を部屋の中に招き入れてから、扉にそっと鍵をかけました。
「なにか困りごとでも?」
タルナールは老婆に椅子を勧め、自らは寝台に座りながら尋ねました。
「実はわたくし、さきほど仰せつかったことがございます。タルナールさまを寝所へお連れするように、と」
「どなたの寝所へ?」
「姫さま……ジェディアさまにございます」
「えっ」
その言葉にタルナールは慌て、困惑しました。
「それは姫さまのご希望なのですか?」
「もちろんです」
「……困ったな」
寝所に来いというのはつまり、閨事を所望されているということです。これは少々、タルナールの想定外でした。
もちろん、吟遊詩人や踊り子が、求めに応じて身体を売るという習慣がないではありません。しかし芸とともに春をひさぐ者はふつう、明らかにそうと分かる装いをし、披露する芸の中でも多分に媚びを示しますので、勘違いをする余地は生じないようになっています。
無分別な権力者であれば強引に、ということもあるでしょうが、まさかジェディア姫がそういう類の人間とは思いませんでした。
もしかすると真剣な求愛ということもなくはないでしょう。しかしタルナールとしては、師であるナジャハと交わした約束を諦めるわけにはいきません。
たとえ一夜限りのことであったとしても、ジェディア姫の危険な瞳に見つめられながら、甘い睦言を交わせるほど、タルナールは豪胆でも度量が大きいわけでもありません。
だから、タルナールは困ってしまいました。ここはなるべく当たり障りのない言葉を添えて、穏便に断るしかないでしょう。
「ですが、決して姫さまの寝所に行ってはなりません」
ところが、老婆がさきほどとは正反対のことを言いました。タルナールはさらに困惑します。
「あなたはジェディア姫の寝所へ行けと言う一方で、行ってはならないとも言う。いったい、僕にどうさせたいのですか? どういう事情があるのですか?」
老婆は深い皺の刻まれた顔をうつむけて、弱々しくため息をつきました。タルナールはその風情に哀れを催し、また彼女を責めても仕方がないと思い直して、静かな声で再度老婆に問いました。
「なにかお困りの事情があるんですね。よければ、話してもらえませんか」
老婆はしばらくためらっておりましたが、やがて顔をあげると、たるんだまぶたをしばたたかせながら、ゆっくりとこのような話をはじめました。
「四年ほど前、姫さまには婚約者がおりました。格としてはイリーン家に少々劣りますが、卑しからざる身分を持ち、オードランさまとも気のあう、若く、美しく、優しい殿方でございました。
その方が婿となったあかつきには、姫さまと手を携えて、ともに領を治めていくことになる予定でした。姫さまも別段、その縁組に異論を唱えるようなことはなく、姫さまのご機嫌を心配しておられたオードランさまが、かえって拍子抜けしてしまったほどでした。
しばらくの間、縁組の話はなんの問題もなく進みました。もしあのまま順当にいっていれば、いまごろふたりの間にはひとりかふたり、丈夫で可愛らしいお子があったことでしょう。しかし、残念ながらそうはなりませんでした。
事件が起こったのは、婚礼の儀がおこなわれた当日のことでございます。慌ただしい日中を大過なく終えたあとの深夜、ひとりの若い使用人が姫さまに呼ばれました。
いったいどのような用件だろう、と彼女が夫婦の寝所に立ち入りますと、なんとそこには裸のまま短剣で胸を突かれ、血みどろで息絶えた婿さまの姿があったのです。
殺したのは姫さまでした。現場を見て凍りついた使用人が尋ねるまでもなく、本人がそう話したのです。信じがたい無礼を働いた報いを与えた、というのが姫さまの言い分でした。
実際にどのようなことがあったのか、夫婦のほかに知る者はおりません。しかし婿さまの人柄を考えるに、殺されるほどの狼藉を働いたとは、到底考えられないのでございます。
どのようなことがあったにせよ、その不幸な婚礼をきっかけとして、姫さまは常軌を逸した行動をとられるようになりました。たびたび寝所に男を招いては、その者を殺すということを繰り返すようになったのです。
こっそり聞き耳を立てていた使用人によりますと、姫さまは男の陽物が萎れ果てるまで情交し、もうこれ以上は勘弁してくれと音をあげるやいなや、情け容赦なく刺し殺していた、というのです」
刺し貫かれる裸の胸。寝台に染み込む鮮血。事情を知らぬ男の方はまだしも、情交と殺人を同じ場所でおこなうジェディア姫の心中は、完全にタルナールの想像を超えておりました。
はじめから寝所に行くつもりがなかったとはいえ、ごく近い距離に迫っていた死の輪郭を見た気がしたタルナールは、背中に冷たい汗が流れ落ちるのを感じました。
「誰もそれをとめないのですか?」
「とめようとはしております。しかし姫さまを面と向かって諫めることのできる者は、この城館にひとりもいないのです。また閨でのことでもありますから、表沙汰にすればイリーン家の名誉に大変な傷がついてしまいます。それがまた、問題の扱いを難しくしているのです」
市井の人々はジェディア姫の気の強さや武勇を面白半分に称えておりましたが、その残酷な所業について知っている様子はありませんでした。このことからも、イリーン家が彼女の異常さをひた隠しにしていた事実が窺えます。
「なぜ、僕にそれを教えたのですか」
「食事をともにした使用人たちは、あなたの礼儀正しさや屈託のなさを褒め、広間に控えていた使用人たちは、あなたの素晴らしい歌を褒めておりました。そうでなくとも、むやみに殿方が殺されるのは忍びないものです。……ですからどうか、お逃げください。夜に紛れて、イルムリムから出るのです。そのあとは、できる限り遠くへ」
逃げるかどうかは判断するまでもないことです。しかしタルナールは自分の逃亡で老婆に累が及び、彼女がひどい仕打ちを受けるのではないかと心配しました。
「あなたは本当に親切なお方です。姫さまの所業は確かに度を超えておりますが、身内にまで手をかけることは致しません。多少厳しいお仕置きを受ける程度でございます。秘密を漏らしたことも、きっと最後にはお許しくださるでしょう……」
絞り出すように呟いた老婆の瞳に、タルナールはなにか歪んだ感情を見たように思いましたが、その詳しい中身については、にわかに理解することができませんでした。
しかし老婆とジェディア姫の関係がどのようなものであれ、差し出された厚意は素直に受けておくべきでしょう。タルナールは老婆の手を握り、改めて礼を言いました。
「心苦しいですが、あなたの言う通りにさせてもらいましょう」
「お急ぎください」
老婆はそう言うとおもむろに立ちあがり、タルナールがそれ以上声をかける暇も与えずに、部屋から出ていってしまいました。その背中は、彼女が入ってきたときよりも随分と小さくなったように思えました。
タルナールは寝台に座ったまま、いま伝えられた話についてしばらくぐるぐると考えておりましたが、既にほとんど猶予がないことに気づき、慌てて逃げる準備をはじめました。
老婆がどのような言い訳をするか、どれくらい時間を稼いでくれるかは分かりませんが、ジェディア姫は早晩、要求を断られて憤慨するか、タルナールが真実を知ったのではないかと疑い、なにがしかの行動をとるでしょう。
そして彼女が本気でタルナールの命を奪おうとするなら、きっと畑から雑草を一本引き抜くほどの手間で、易々と目的を達してしまえるでしょう。
急いで玄関へ……いえ、それは危険です。途中で誰かと鉢あわせするかもしれませんし、城館の正面には夜でも警備の目が光っているはずです。
ならば、窓から逃げるほかありません。
タルナールが割り当てられた部屋は二階にありましたから、覚悟を決めれば飛びおりることも不可能ではありません。
しかし万が一で足を挫いたり骨を折ったりすれば、かなりの醜態を晒した状態で捕まることになるでしょう。無様かどうかはこの際気にしませんが、もう少し安全な方法を採りたいところです。
そこで、タルナールは部屋にあった木綿の布や、荷物の中のボロ布を引き裂いて粗末なロープを作り、それを寝台の脚にくくりつけて壁を伝い、安全な高さまでおりることにしました。
慌ただしい作業のあと、タルナールは小さな窓から外に這い出して、壁の突起を足掛かりに、慎重に地面を目指します。
とはいえ所詮は二階ですから、そう大変な仕事ではありません。ロープが途中でちぎれたせいで、尻をしたたか打ちつけたものの、タルナールはなんとか無事に城館からの脱出を成功させました。周囲に柵や防壁はありませんので、あとは兵士に見つからないようこの場を離れるだけです。
先におろしておいた荷物を背負い、タルナールがあたりの気配に耳を澄ませておりますと、ふと頭のあたりにちりちりと、焦げるような視線を感じました。
これほどのものを発することができるのは、イルムリムでもおそらくひとりだけでしょう。タルナールが恐る恐る城館の方を振り返ると――
ああ、窓に!
いましがた脱出してきた部屋の直上、三階の窓に人影が見えるではありませんか。背後から弱い灯りに照らされて浮かぶその輪郭は、見間違えようもない、ジェディア姫のものでありました。
タルナールは息を呑み、二歩三歩とあとずさります。その間もジェディア姫は微動だにせず、おそらくはあの恐ろしげな瞳で、こちらをじっと見据えておりました。
いまのうちに、せいぜい遠くまで逃げるがいい。タルナールはそう聞いたように思いましたが、あるいは自身の恐怖が形をとって、耳元で囁いただけだったのかもしれません。
たっぷりふた呼吸分の硬直から覚め、なんとか身体の自由を取り戻したタルナールは、残酷な女主人が住まう城館に背を向け、二度と振り返ることはありませんでした。
追手がかけられる気配がないのをいいことに、タルナールはそのままイルムリムの市街を離れ、ダバラッドとの国境に辿り着くまで、休むことなく急ぎ足を続けました。
疲れを押して脚を動かし、ときには恐れに駆られて小走りとなり、ようやく人心地がついたのは、すっかり夜が明けてからのことでした。




