第三十八夜 蛇と大君 -5-
マヌーカがカリーム太子に毒を盛った翌日の深夜。宴はまだ続いておりました。病身のハキム殿下はさすがに部屋へとさがりましたが、それ以外ではまだ大勢が、休息を挟みつつだらだらと飲食を繰り返しておりました。
当初の堅苦しさは既にほとんど残っておらず、近衛兵や侍従、果ては奴隷までも巻き込んで、段々と堕落した様相を呈していきます。中には庭園に出て、男女の淫らな行為に及ぶ者までおりました。
しかし参加者が安楽でいられるのもいまのうち、そろそろマヌーカの盛った毒が薬との根競べに勝り、カリーム太子の心臓がとまるころあいです。
そのとき当のマヌーカはといいますと、三年の月日を過ごした部屋の中、最低限の荷物をまとめ終え、二匹の蛇を操って廊下を見張りつつ、いよいよ宮殿を脱出せんとしておりました。
しかしここで蛇の一匹が、暗い廊下の向こうからやってくる、抜き身の曲刀を携えた三人の近衛兵を捉えました。カリーム太子の配下に間違いありません。
裏切りが露見するには少々早すぎます。だとすれば、太子はもとよりマヌーカを始末しようと決めていて、あらかじめ命令をくだしてあったのでしょう。
とはいえ、それはマヌーカも想定しておりました。カリーム太子が抜け目のない人物であれば、特別に邪悪な意思の持ち主でなくとも、暗殺の実行者は消しておいた方がよい、と考えるのは自然です。
さて、三人のうちふたりは蛇が始末するとして、残るひとりは自分でなんとかしなければなりません。マヌーカは急いで荷物を漁り、念のために準備しておいた即効毒の吹き矢を手に取りました。
しかしとのとき、廊下に意外な人物が姿を現しました。
千鳥足のシャルカン太子です。
「なんじゃ、貴様らは! 宮殿で物騒なものを振りかざしおって! 浮かれるといっても限度があるぞ!」
シャルカン太子は呂律の回らぬ舌で、自らのことは棚にあげつつ近衛兵たちを叱り飛ばしました。
「ほう、生意気な顔をしておる。貴様ら、兄上の手下じゃな。我と喧嘩をするつもりか? 乳香通りの酒場で鍛えた我の鉄拳を喰らいたいか」
近衛兵たちが酒場仕込みの鉄拳を怖れたかどうかは分かりません。しかしさすがにシャルカン太子の御前でマヌーカの殺害を強行し、騒ぎを起こすのはまずいと考えたのでしょう。彼らは互いに顔を見あわせてから渋々刀を納め、そそくさと廊下を引き返していきました。
「ん? 誰じゃ、錠をおろしたのは」
一方のシャルカン太子はというと、なぜかその場を立ち去ることなく、マヌーカの部屋の扉を開けようとし、挙句には拳でドンドンと叩きはじめました。
しばらく無視してみても彼はなかなか諦めませんでしたので、マヌーカが仕方なく錠を外して扉を開けますと、太子はきょとんとした顔になってこう言いました。
「誰じゃ? なぜ我の部屋におる。さては盗人か?」
「シャルカンさま、部屋を間違えておいでです。ここはわたくしの部屋」
「ああ、そうか、そうか。まあよいわ。宴会場では、兄上が倒れたと大騒ぎになっておってな、うるさくてかなわんから、どこかで休もうと思っていたところじゃ。このさいお主の部屋でも構わぬから、しばし貸してくれ。
……む、お主は女か? それにしては随分と図体がでかいのう。しかしなかなか可愛い顔をしておるではないか。我とともに酒を飲まぬか。いや、酒はやめておこう。水を持ってきてくれ。シャーベット水でもよい」
太子はマヌーカの許可も求めずふらふらと部屋に入り込み、床のうえにどっかりと腰をおろしました。
「……そこの棚にある水薬を飲めば、多少は酔いが覚めるかと」
「おう、お主は典医か。気が利くのう」
「それから、カリームさまはまもなく息を引き取られるでしょう」
「うん? なぜそう思う」
「わたくしが死毒を盛ったからにございます」
「面白い冗談じゃ!」と、シャルカン太子は膝を叩いて大笑しましたが、マヌーカが静かな表情を保ったままでいると、やがてそこに真実の色を見て取ったようでした。
シャルカン太子は棚にあった水薬を一気に飲み干し、まずいのう! と叫んだあと、それなりにまともな目つきを取り戻し、マヌーカに説明を要求しました。
マヌーカは、カリーム太子から命じられたこと――シャルカン太子の暗殺――について、包み隠さず話して聞かせました。しかしシャルカン太子はさして驚いた様子も見せず、むしろマヌーカが裏切りを働いた理由の方に興味を持ったようでした。
「我はお主に目をかけたやったことなどないぞ。名も知らぬ。庇う理由もないと思うが、さては垣間見で惚れさせてしまったかのう」
「わたくしはもう宮殿を離れますが、ひとつお願いがございます」
最後の言葉は涼やかに無視して、マヌーカは言いました。
「お願いじゃと? 申してみよ」
「後宮に住まう方々が、放逐されることも、ないがしろにされることもなく、楽しき暮らしが送れるよう、くれぐれも取り計らってくださいませ。妃さまも含め、みな、気立てのよい女性たちばかりですから。潔癖なカリームさまのもとでは、おそらく叶わぬ願いでしょうが、あなたさまなら、あるいは」
「仲良うしておったのだな。それが兄上を毒殺した理由か? 万人を納得させるにはちと足りぬと思うが、まあよい。女たちに関して心配するな。見目麗しき女たちに冷たく当たるなど、やろうとしてもできぬことじゃ。唯一なる者の御名にかけて約束しよう。結果として、お主には命を救われたわけだしのう」
「ありがたく存じます」
「しかし将来の守護者とは、なんとも面倒な立場に追いやってくれたものよ! 罰として少々過激にお仕置きしてやりたいところじゃが、いまは急ぐのであろう? 貸しにしておいてやるから、さっさと行くがよい」
「お慈悲を賜りましたこと、重ね重ね感謝いたします。返済はいずれ」
「父上が存命のうちは、刺客からうまく逃げることじゃ。最後に、お主の名ぐらいは聞いておくとしようか」
「ザク=ワクと申します」
「麗しいとは言えぬが、賢そうな名であるな。だが、しばらくは別の名を使ったほうがよいかもしれぬ。うむ、マヌーカというのはどうじゃ。昔ねんごろになったことのある女の名でな。そやつもお主ほどではないが、背が高かった。それほど賢くはなかったが」
「よき名、ありがたく頂戴いたします。遠からず訪れるあなたさまの治世が、風雅で楽しみ多きものとならんことを」
「まあ、息災でやるがよい。いずれまた会おうぞ」
そうしてマヌーカはシャルカン太子に見送られて部屋をあとにし、カリーム太子が死んだ混乱に乗じて、三年過ごした宮殿を去りました。
カリヴィラを脱出するさいには、立ち塞がった兵士を幾人か殺し、その後も差し向けられた刺客を殺し、ムジルタの里から送られてきた魔術師たちを殺しました。
やがて、カリーム太子を殺した毒婦ザク=ワク、蛇の術師ザク=ワクの噂は広まり、邪悪な魔術師の筆頭として挙げられるほど、市井の人々にも知られていったのでした。




