第三十四夜 蛇と大君 -1-
アモルダート郊外でおこなわれたラーシュとキンクの一騎打ちは、観衆が息を呑んで見守る中、ラーシュの勝利に終わりました。
その結果に応じ、バーラムとキンクの間であらかじめ取り交わされていた約束が、遅滞なく履行されます。実際に裏でどのような取引がなされているのか、タルナールに知るすべはありませんでしたが、把握できた限りにおいて、それは次のようなものでした。
まず、シーカの軍勢は廃砦から撤収し、同地をアモルダートに返還しました。撤収した軍勢は徒歩二刻ほどの距離を本国側に退きましたが、完全に兵を引き揚げることはせず、新たに二百の増援を加え、再び野営地を築きはじめました。
それからアモルダートの街にシーカの使節が訪れ、バーラムの城館や、〈病人街〉の中心や、人の集まる広場などで、侵略行為の中止と向こう半年間の不可侵を、大々的に宣言しました。
使節はアモルダートの人々に気さくな態度で接し、ひと通りの役目を終えると、バーラムから親交の証にと送られた食料品や酒、香料などを積み込んだ馬車とともに、野営地へと戻っていきました。
こうして、一時的にせよ両者の和平が成りました。アモルダートからすれば、これで差し迫った脅威のひとつが取り除かれたことになります。シーカからすれば、他の勢力に先んじて、交渉で権益を確保する道を拓いたことになります。
政治的に重要なのは、この和平がシーカの侵攻から非常に短い期間で達成されたことです。快適な天幕の中、長々と話しあっていれば、その途中で必ずや他勢力の介入を招いたことでしょう。
多少の不確実を呑まねばならなかったとしても、素早く物事を決めるべし。この件において、バーラムは非常によい判断をしたと言えるのかもしれません。
さて一方、公の場で兄に土をつけたラーシュですが、いま述べたような政治的取引に利用されたこともあって、どうにもすっきりした気持ちにはなれない様子。こうなればやはり〈魔宮〉の奥を究めることこそが己の証を立てる道である、と意気込みを新たにしておりました。
そして、一騎打ちから二日が経ちました。ダバラッドやケッセルとはいまだ緊張した関係にあり、政治的な情勢は予断を許しませんが、ひとまず状況は小康。タルナールたちは〈病人街〉の常宿、一階の薄暗い酒場にて、次なる探索行の準備を進めておりました。
「バーラムはこれから、どうするつもりだろうな」
筵のうえに持ち物を広げ、買い足しておくべきものを確認しながら、ラーシュが言いました。
「兄貴と手を組んだぐらいじゃ、守護者や〈戦姫〉に対抗するのは難しい。全部にいい顔をして、のらりくらりとやるつもりか?」
長駆遠征中の〈戦姫〉はともかく、守護者がその気になりさえすれば、直属の軍や部族長たちに号令し、さらに大勢を動員することは難しくありません。もし全面的な衝突となれば、たとえシーカ軍が精強とはいえ、劣勢は免れないでしょう。
「どんなに間抜けな狩人でも、ふたつ以上の獲物を同時に追いかけることはしない」と、エトゥが言います。彼は夜の獣を捌くのに使う大振りなナイフを研いでは、その刃の腹に指を滑らせ、あるいは光にかざして鋭さを確かめておりました。「なにか狙いがあるんだろう。表からでは容易に分からない目的が」
「でも、それって私たちとか、アモルダートのためになるとは限らないでしょ」と、ネイネイが言いました。
彼女は自らの杖に取りつけられた灰水晶の表面をぴかぴかにするべく、目の細かい布で表面を拭っておりました。水晶が放つわずかに灰色がかった光は、タルナールたちが〈魔宮〉を探索する際の重要な灯りです。
「できるだけ時間を稼いで、どこかへ夜逃げするつもりなのかも」
タルナールも仲間たちの話を聞きながら、ふーむと考えを巡らせます。
和平が成立したことにより、鉱夫たちは再び〈魔宮〉へ潜ることができるようになりました。しかしながら、先の見通しにはまだ大いなる不安が残っております。
もし今後、守護者や〈戦姫〉が食指を伸ばしてくれば、また命がけで〈魔宮〉を守らなければならないかもしれません。そして実際に戦闘が発生するかどうかは、バーラムの手腕や判断にかかっています。
彼は人々の財産や仕事、生活を守ってくれるだろうか? あるいは街がどうなろうと、自らの富や安全を優先するだろうか?
それは鉱夫たちのみならず、アモルダート住民全体の関心事でありました。そしてネイネイが口にしたバーラム逐電の懸念は、井戸端や辻や軒下で交わされる噂の中でも、特に人々の心配を掻き立てるものでした。
いまのところバーラムの代わりになる者はおりませんから、彼が突然消えることになれば、アモルダートは空家も同じ。置き去られた富を目当てに兵たち殺到し、猛然と略奪に走るかもしれません。
そうすればこの豊かな街は、一夜にして破壊と混乱の坩堝となり、笑うのは無慈悲な火事場泥棒たちと、死の御使いだけということになるでしょう。
タルナールがそのようなことを心配しつつ、探索の準備を進めていたとき、ばたんと宿の扉を開き、戸口に姿を現す者がありました。とはいえ人の出入りなど時間を問わずしょっちゅうなので、はじめは扉の近くにいる者以外、大した注意を払いませんでした。
しかし、それとなく目を遣ったひとりがはっと息を呑み、酒に夢中だった同輩の肩を叩きますと、そのうちみな次々と、宿の戸口に立つ男の正体に気づき、意外そうに声をあげました。
鉱夫たちの注目を浴びた男は、泰然とした様子で酒場を見渡し、こう言いました。
「このたびはご苦労であったな」
バーラムです。タルナールが知る限り、宿はおろか〈病人街〉にすら姿を見せたことのなかった男が、護衛も連れずにひょっこりと現れたのです。
「特に、ラーシュ・ギルザルト。お主の働きはまことに大であった。ようもあの勇将キンクを打ち破ったものよ」
二十人近くの鉱夫がたむろする薄暗い酒場の中、バーラムは扉に手をかけたまま、首を傾げるような姿勢でラーシュに目を向けました。鉱夫の過半は、ただバーラムが現れたということのみに気を取られておりましたが、タルナールは彼の振舞いや顔つきが、以前と異なっているのを感じ取りました。
タルナールがはじめてアモルダートを訪れたとき、城館で相対したバーラムの目には、生まれつきの金持ちとは違う、飢えたような輝きが宿っておりました。それは類まれなる才気を持つ者特有の、ぎらぎらとして強い輝きでありました。
にもかかわらず、バーラムは非常に落ち着いた人間でした。タルナールには、彼がその必要と効用を理解したうえで、財を見せびらかしたり、他者を疑ったりしているのだと考えておりました。
要するに、才気に溢れ、なおかつ抑制の効いた人間であるというのが、バーラムに対するタルナールの評でした。バーラムがラーシュとキンクの一騎打ちを提案したときも、タルナールはその非情に怒りを覚えこそすれ、バーラムの判断が妥当であるかどうかを疑うことはありませんでした。
しかし彼がふらりと宿を訪れた、いまこのとき。タルナールはバーラムの表情に、言葉で表現するのが容易でない、強い妄念のようなものを感じたのです。天幕からまろび出てきた麻薬の服用者が、幻覚を見て恍惚としているような、不気味な様態に似たものを想起したのです。
しかしバーラムに麻薬を服用っている様子はなく、かといって酒に酔っている様子もありません。それでもタルナールは、彼が心の均衡を欠きつつあるのではないか? という印象を抱かずにはいられませんでした。
確かに、ここ最近のアモルダートを取り巻く情勢は、並々ならぬものではありません。自らの富を守るためとはいえ、海千山千の猛者たちと政治的に渡りあうなどということは、常人の想像に余るような重圧でしょう。
しかしほとんど身ひとつから財を成し、アモルダートの如き立派な街さえ造りあげた傑物が、これほどの短期間で心を持ち崩してしまうことなど、果たしてあり得るものでしょうか。
もしかすると、扉から差し込む光の加減や、タルナールが持つバーラムに対する疑念といったものが、彼の姿をそのように見せただけなのかもしれませんが……。
タルナールは違和感を覚えつつも、自らが受けた印象にいまひとつ確信が持てず、したがって傍らにいるラーシュやネイネイやエトゥにも、あえてそれを伝えることはしませんでした。
「いままでのように励むがよい。いままで以上に励むがよい。〈魔宮〉の奥を目指せ。そこにはより多くの富がある。お前たちが目にしたこともないような、素晴らしいものが埋まっておる。……では、マヌーカ。引き続き滞りなく差配せよ」
「仰せのままにいたします。バーラムさま」
マヌーカの涼やかな声を最後まで聞かず、バーラムが踵を返して宿を去りますと、いっとき静かにしていた鉱夫たちが、再びざわめきはじめました。彼らが囁く話の大半はもちろん、バーラムが来訪した意図についてのものでした。
「バーラムがこんな風にやってきたことはあるのか?」と、タルナールはラーシュに尋ねました。
「いいや。でも、俺たちもずっと宿にいるわけじゃないからな。もしかしたら来たことがあったのかもしれない」
「この宿ができたころは、何度かいらっしゃったと記憶しています」と、近くにいたマヌーカが口を挟みます。「しかしここ一年以上は、〈病人街〉への訪問すら絶えてありませんでした」
マヌーカがいつからこの宿にいるのか、タルナールは知りません。しかし大半の鉱夫より古参であるのは確実でしょう。
そんな彼女の目から見れば、さきほどのバーラムの様子にも、なにか気づくところがあったのではないか。タルナールは尋ねてみたくなりましたが、マヌーカはすぐに調合薬へと注意を戻し、なにやら非常に繊細な手作業をはじめてしまいましたので、質問の好機と思えたものは、あえなく流れ去ってしまいました。




