『 切望 』
【 ウィルキス3の月30日 : バルタス 】
まだ、二人の戦闘の余韻に浸る会場に
エレノアの声が、柔らかく響く。
『……セツナ。感謝する』
その言葉と同時に、エレノアが丁寧に頭を下げた。
全力で戦う予定だった、エレノアにとっては
不完全燃焼だっただろうに、そんな様子はみじんも見せることはなかった。
模擬戦が終わったことで、アラディスの顔色が戻り息を吐いていた。
暴れるのをやめているのだが、拘束はまだとけていないようだ。
アギトの拘束は、とっくに解かれていた。
『どういたしまして』
エレノアの礼を受け取り、セツナもまた綺麗な礼を見せ
そして、お互いが顔をあげ視線を交わしたあと
エレノアが舞台を降りるために、セツナに背を向け動こうとした瞬間
セツナが、甘く響く声音で言葉を紡いだ……。
『エレノアさん』
セツナの呼びかけで、エレノアが振り向く。
『もう少し、僕との時間を過ごしませんか?』
内緒話をするような、囁くような甘い声音。
人差し指を自分の口元に軽く当て
セツナは、どこか妖艶に笑う。
普段とは違う、セツナの様子にエレノアが息をのみ
囁くような声だったにもかかわらず、戦闘の余韻に浸っていた
観客達が、一瞬にして意識を引き戻されている。
『……』
『心の奥底に、そっと沈めてしまった願い。
叶えたいと思いませんか?』
甘く……。
ひたすらに甘い響きの誘惑に、エレノアの体が揺れた。
全てが黒でまとめられた衣装に
紫の瞳ではなく、陰りのある赤色の瞳……。
そして、薄茶色の髪ではなく……どこか、色気を感じさせる
薄い赤色の髪。その容姿の全て、囁く言葉の甘さの全てで
エレノアを落としにかかっているように
みえるのは、わしだけだろうか……。
セツナが先ほど語った、台本が脳裏に浮かぶ。
セツナが、あえて語らなかった部分。
『このひと時だけ……全てを忘れて……。
僕だけに、心を預けて?』
息をのんで、立ち尽くしているエレノアに
セツナは、今まで見せたことがないとろりと零れる
蜜のような甘さを含んだ視線をエレノアへと向けながら
まるで、ダンスに誘うかのように優雅に手を差し出す。
『優しく……は、できませんが。
貴方も、そう望まれるでしょうし……』
クスリと、エレノアを見つめながら妖艶に笑む。
『僕に、堕とされて? 白麗の翼……エレノア。
さぁ、僕の手を……』
セツナの囁きに、エレノアは硬直したように動けない。
そんなエレノアに、セツナがゆっくりと近づき
エレノアの手を取ろうとした瞬間
「エレノア!!!!」
心の奥底から絞り出したような、魂の叫びを込めた様な声が
会場に響き渡った。
その声に、エレノアの体が揺れ
勢いよく振り向き、アラディスを見る。
アラディスの声で、止まっていた時間が動き出したような
錯覚を覚えたが、実際あちらこちらから止めていた息を
吐き出すような音が重なったことから
時間は、とまっていたのかもしれない。
エレノアは、不安そうに見つめるアラディスに
笑いかけてから、セツナへと向き直った。
素早く自分の精神を、立て直す。
さすが、エレノアと言ったところか。
『……何か魔法をつかったのか?』
『いえ? 誓って魔法の類は使っていません』
【是】
『……』
『本気で、エレノアさんを堕としてみようかな、と
思いついたので』
『……え?』
差し出した手をそのままに、誘うように
エレノアに甘い瞳を向けて微笑む。
なぜか「やめろ!」と叫びたくなる衝動を抑えた。
その手を取るな、と……。
エレノアを止めたくなる衝動が湧き上がる。
「手を取るなといいたくなるわけ……」
「あぁ」
わしだけではなく、アルト以外のここに居る全員が
頷いているところを見ると、あまりいい状況ではないのかもしれない。
アラディスが本気で暴れ出し、ヤトが転移して
エレノアとセツナの近くへと寄った。
ヤトがそばに来たことで、セツナが軽く目を瞠る。
『あれ? ヤトさん?』
『正気か?』
ヤトが、真剣な表情でセツナを観察するように
上から下まで、ざっと視線を走らせた。
『僕は、いたって正気ですが』
『何を考えている?』
全く笑うことなく、問い詰めるヤトに
セツナも、真面目に答えることにしたようだ。
どこか妖艶な雰囲気は、綺麗に消え去っていた。
『エレノアさんとの約束の半分を
まだ果たしていないので、模擬戦の続きをしませんかと
誘っていただけです』
『……』
『……』
ヤトもエレノアも、ほっと息を吐きながらも
セツナを責めるような眼差しを向けている。
『あれ?』
『……何がどうなれば
あのようになるんだ?
普通に誘えばいいだろう?』
『優しく誘うばかりだと、飽きられると
教えてもらったので、実践してみようかなって?』
『……誰が、そんな、くだらないことを、吹き込んだ?』
エレノアが、本気の怒りを見せていた。
エレノアは、滅多な事では怒ることがない分
怒らせると非常に怖い。
セツナは、抵抗することなく
さらりと、余計な事を吹き込んだ犯人達を売った。
『サーラさん達に教えていただきました』
『……ほぉ』
『優雅さと甘さが必要で、妖艶な雰囲気を醸し出して
それでいて、少しだけ強引な態度がきゅんとくるから
きっと、どんな誘いでも了承してくれるわよ、と言われました』
あれは、了承するというより
魅了して、魅せられている間に
了承させるといったほうが正しいと思うのだが。
『……そうか。
全て落ち着いたら、サーラ達と話をしてみよう。
私も、詳しく聞いてみたい気がしてきた』
きっと、今頃サーラとわしの娘達は
顔色を変えているに違いない。
しかし、サーラや娘達の言動もどうかと思うが
支離滅裂な事を言われて、それを忠実に実行できる
セツナのほうが、おかしいのではないだろうか?
同じ事を言われたとして、わしには到底
できるとは思えない……。サフィールとアギトを見ると
眉間に皺を寄せながら、首を傾げていた。
『きゅんときましたか?』
『……』
きゅんといった可愛いモノではなく、どこかの魔王が
本気で堕落させるように見えたのは、きっとわしだけではない。
『優雅と妖艶と甘さと少しの強引というのは
なかなかに、難しいお題だったのですが
どうでしたか? 僕の妻に試す前に
練習してみたんですが、喜んでくれるでしょうか?』
『……』
エレノアは、微妙な表情を浮かべながら黙り込む。
「あれはないわけ」
「確かに」
「お前もバルタスも、サーラと女達を
いい加減、どうにかしたほうがいいわけ」
「……」
「……」
「まぁ、練習台になるのは
サーラかエレノアだとおもうけど」
「なぜだ!」
「他の奴らを練習台にしたら、本気にするかもしれないだろう
そんな危険な賭けを、セツナが犯すとは思えないわけ」
「すぐにやめさせよう」
「きつく注意しておこう」
「それがいいわけ」
『……とりあえず
私の願いは、もう叶えてもらえたが?』
珍しく、エレノアは返事を保留にし
話題を変えることにしたらしい。
セツナは、話を流されたにもかかわらず
気にした様子はない。
だが、少しだけ口角が上がっているところ見ると
自分の行動の結果を、ある程度想定していたのかもしれない。
あの年代にしては珍しく
セツナは自分の事を正確に把握している。
自分の容姿が、他人にどう映っているか
自分の声が、どのように作用するのか……。
きっと、サーラや娘達は
本人の知らないところで、セツナの実験や研究に
貢献しているはずだ……。
セツナの口元を見て、エレノアがスッと目を細める。
エレノアもわしと同じことを考えたのだろう。
『……セツナ?』
『はい』
エレノアに呼ばれ、まじめな顔で返事をしているが
その目は、どこか笑みを湛えている。
『……面倒になったんだな?』
『いいえ?』
「あー。エレノアに全部丸投げたのか」
アギトが、片手で口元を覆いながら嘆息する。
「気持ちはわかるわけ。
きっと、読書の邪魔をされたのがむかついたわけ」
「それは、お前の事だろう?」
「そうともいうわけ」
『色々と情報を、教えていただけるのは
有難いのですが……。僕の妻は本当に
可愛らしい人なので、先ほどのような態度を取ると
きっと、怖がらせてしまうと思うんです』
トゥーリの事を語る……。
セツナの笑みが、その瞳がとろりと溶けるような
甘さを見せた。先ほどの比ではない。
演技ではない、本当のセツナの感情を含んだ表情に
一番近くで、その表情を見ることになった
エレノアが、一瞬で頬を染めた。
セツナの本当の甘さを含んだ笑みを見て
先ほどの笑みや表情が、完全に作られたものであると
この状況を見ている全ての者が、理解させられるほどの
差が、そこにはあった。
彼女の事を考えているのだろう。
優しく目を細め、甘く笑うセツナに
女性達が、息を止めてセツナを注視していた。
『……っ』
エレノアが、軽く咳払いをすると
セツナの甘さを含んだ笑みが、霧散するように消え
会場の女性達から、溜息に近い声が落とされた。
『……練習じゃなかったのか?』
怖がらせるとわかっていて
練習する必要があったのかという、エレノアの問いに
セツナは、頷きながら答える。
『練習でしたよ。
その結果、使えないことが判明したんです。
だって、エレノアさん引いていたじゃないですか……』
『……』
その表現は正しくない。
正確には、セツナの魅力にのまれていた、と
言ったほうが正しい。
自分の感情を入れずに、演じただけのモノに
あのエレノアが、一瞬でものまれたのだから
末恐ろしいとしか、いいようがない。
『……私なら、怖がらないと?』
『あは、あはははは』
軽く睨むような目を向けられたセツナが
笑ってごまかす。
『……私が本当に
落ちていたらどうするんだ?』
『大丈夫ですよ。
エレノアさんは、そういった意味では
絶対に、僕に落とされませんから』
『……その根拠はどこから来るんだ?』
深く溜息を吐くエレノアに
セツナが楽しそうに、言葉を紡いだ。
『僕の、紛い物の好意で彩られた呼びかけと
心の底から、いや魂の叫び? ともいえる
真実の愛がこめられた呼びかけ……。
どちらが、エレノアさんの心に響いたのか
一目瞭然じゃないですか?』
『……っ』
『何度、同じことを繰り返しても
例えば、僕が魅了するために貴方に魔法を使ったとしても
貴方は、必ず真実の愛で貴方の名前を叫んでくれる人の声を
選ぶ……。僕はそう思います』
『……まいったなぁ』
本当に困ったように、エレノアが呟き
片手で、自分の目元をおさえ俯く。
その耳が、少し赤く染まっていた。
今日のエレノアは、表情が豊かだ。
セツナが、引き出しているのだろうが
エレノアの信者が、また一層増えるような気がする。
セツナはそれ以上、エレノアを追い詰めることはなく
静かに、ヤトからの話を聞いてはいなかった。
うんうん、と素直に頷いているように見えるだけで
多分、適当に聞いている。
ヤトとセツナとのやり取りは
同盟を組んでいるチームの人間にしか
聞こえていないのだろう。
観客席から、ヤトにあまり怒らないで上げて! と
あちらこちらから、女性の声が飛んでいる様子を見れば
きっと周りには、静かにヤトの説教を聞き
素直に反省しているように見えているのだろう。
だが、実際は……。
だって、サーラさん達が、とか
僕に惚れ直してくれると、言われましたし、とか
僕だって、普通にトゥーリに嫌われないか不安ですし、とか
でも、練習もなしにトゥーリに試して引かれるのは、とか
責任転換とトゥーリに対する惚気を交えて、言い訳をしていた。
時々肩を揺らしているのは、どうやら笑っているらしい。
ヤトも別に怒っているわけではなく、他の女性には
絶対に同じことをするなと、釘を刺しているだけなのだが。
サーラと娘達もこれに懲りて
セツナに、興味本位で下手な提案をすれば
手酷く反撃されると学んだ事だろう。
多分ではあるが、サーラも娘達も
セツナとトゥーリの恋の話が、聞きたくて
仕方なかったのだと思う。
だから、トゥーリを引き合いに出し
色々と提案しながら、話を聞こうとしたに違いないが
セツナは、相手をするのが面倒になったんだろう。
最初から考えていたのか、途中から付け足したのかは
分からないが、サーラ達を確実に黙らせる
機会を、きっと窺っていたのではないだろうか……。
正直、その機会が訪れたとしても
公式行事の最中に、取り入れてしまう神経は理解できないが……。
やはり、セツナはジャックの弟子なのだろうなぁ。
ただ、サーラ達の事はともかく
セツナが、あのような演技までして何を求めているのか
何をしようとしているのか……それが分からない。
分からないから、纏わりつく不安が消えない。
セツナが一瞬見せた、憎悪を宿していた瞳も
酷く気にかかる。
ヤトもそれとなく、セツナに聞いてはいるが
セツナは答える気はなさそうだった。
『さて、教えて頂いた方法でのお誘いは
失敗したようなので、僕らしく誘う事にしましょうか』
ヤトからの話も一段落し、エレノアが落ち着きを
取り戻したのを見計らって、セツナがエレノアに声をかけた。
『大丈夫です。選ぶのはエレノアさんですよ。
僕が無理強いすることはありません』
『……』
胡散臭い笑顔をはりつけ、セツナがそう断言すると
アラディスの額に、青筋が浮かんだ。
今のセツナの台詞を聞いて、きっと全ての人の脳裏に浮かんだものは
先ほどの言葉だろう……。
【まぁ、どのような誘惑をするにせよ。
最後の選択肢は女性騎士に託します。
後輩騎士を選ぶのか、それとも婚約者を選ぶのかを
決めるのは、女性騎士です】
『……貴殿は、何か嫌な事があったのか?』
『え? ありませんよ?』
『……そうか?』
エレノアは多分、アラディスで遊んでいるのかと
聞きたかったのかもしれない。
セツナの言動は、どう見ても
アラディスを故意に、煽っているようにしか見えない。
そこにどんな意図が隠されているのか
エレノアにもわからないようだ。
エレノアの困惑に、多分気がついていながらも
セツナは、気にすることなく話を続けていく。
『エレノアさん。
全力を出してみたいと思いませんか?』
『……なぜ?』
何故と問いながらも、エレノアの声が期待で
微かに、かすれている。
『先ほども言いましたが
約束したでしょう? ジャックから継いだ
力と技術をエレノアさんの為に捧げると』
『……それ、は』
『正直、冒険者の指針となるような戦闘と
ジャックから継いだ、力と技術をエレノアさんの為に
捧げるという約束は、両立できなさそうだったので
分けることにしたんです。当初予定していたように
初めから全力で戦ってしまうと、黒だけにしか見えない戦闘で
何をしているのかわからないままに、終わってしまう結果に
なりそうだったので。見えもしない戦闘を指針にしてほしいと
告げたところで、何の参考にもならないでしょうから』
『……確かに』
『エレノアさん。
僕は、今後ハルで開催される武闘大会に冒険者として
参加することはできません。リシアの守護者を継いだことで
公式な場での模擬戦は、基本総帥の許可が必要になるでしょう。
エレノアさんとは同盟を組んでいますから、お互い訓練として
戦う事があるかもしれませんが、全力を出すことはできない。
それは、黒である貴方自身が理解されているかと』
エレノアの視線が、迷うように揺れ動く。
『僕は、エレノアさんの選択に任せます』
『……』
エレノアの、本心は戦う事に向いている。
だが、エレノアは先ほどアラディスと視線を合わせたことで
アラディスが、不安に思っていることを感じ取ったはずだ。
だから、迷い悩んでいるのだろう。
きっと、アラディスがここで「やめてくれ」と叫べば
エレノアは、戦う事を諦めるはずだ。
「エレノア」
アラディスが、葛藤しているエレノアの姿を見て
小さな声で、彼女の名前を呟く。
「エレノア……」
アラディスもまた、その背を押してやりたい気持ちと
失ってしまうかもしれない恐怖との狭間で葛藤していた。
アラディスが、歯を食いしばり俯き
一度大きく息を吐き出し、そしてその肺に決意を詰め込むように
空気を満たす。ゆっくりと、顔をあげ覚悟を決めた目を
エレノアへと真直ぐに向けた。
「迷うな! エレノア!」
エレノアの背を押すように、アラディスが叫ぶ。
「己が進む道を、真直ぐに進め!!」
アラディスの声に、エレノアが振り返り
目を瞠って、アラディスを凝視する。
アラディスは、そんなエレノアの視線を
真直ぐに受け止め、そして笑った。
エレノアからは、アラディスの拳の震えは
見えてはいないだろう。無意識の恐怖と戦いながら
全てを自分の心の中に沈め、エレノアが全力で戦えるように
アラディスは、笑って見せた。
『……アラディス』
エレノアが、アラディスの名を呟き
そして、何かを話そうとした瞬間にセツナの声が響く。
『心は定まりましたか?』
二人の間に割り込んだセツナの態度に
アラディスが、怒りの視線をセツナへと向けた。
セツナは、そんなアラディスの視線を静かに受け
そして、微かに目を細めて何かを呟いたようだが
わしには、何を呟いたのかは聞こえない。
だが、アラディスには聞こえたらしく
セツナのつぶやきと同時に、殺気が膨れ上がり
握られた拳が、恐怖ではなく怒りで震えている。
「アラディス?」
「セツナは、お前に何を言ったわけ?」
「っ……。口に出したくもない!」
怒りを宿した視線を、セツナへと向け
自分の体が動けば、躊躇なくセツナへと切りかかるであろう
気迫をアラディスはみなぎらせていた。
態度の変わったアラディスに、エレノアが首を傾げ
顔だけを動かして、後ろにいるセツナを見るが
セツナは穏やかな瞳をエレノアに向けていた……。
『はじめましょうか?』
エレノアを誘うような声音で、問うセツナに
アラディスを気にしながらも、エレノアははっきりと頷く。
『……よろしく頼む』
『はい』
エレノアとセツナを傍で見守っていた、ヤトがここで動き出し
模擬戦をするにあたって、規則は先ほどと同じにすることを告げた。
会場の内外も、固唾をのんで二人の様子を窺っていたが
ヤトが、二人の模擬戦を宣言したことにより
先ほどの戦闘より、高度な戦いが観戦できるとあって
興奮と熱気が、会場中に満ちていく。
ちなみに、かけ金の変更は認められず継続されることになったが
特に、不満などは聞こえてこなかった。
『……総帥、剣を交換してもらえるか』
休憩を挟むかと、ヤトに聞かれていたが
二人同時に必要ないと答え、準備の時間だけを願い
準備が終わり次第、戦闘が開始されることとなった。
エレノアは、ヤトに預けていた剣を受け取り
先ほど使っていた剣を、またヤトへと預けている。
『……』
ヤトから受け取った剣を、エレノアはじっと見つめ
そして、その剣を大切そうに胸に抱き俯いた。
小さく何かを呟いているが、何を呟いているのかは
わし達には届かない。
ただ、ヤトが珍しく表情を変えている。
『……セツナ』
『はい』
エレノアが、セツナに何かを話しているが
こちらには聞こえない。エレノアの真剣な表情と
セツナの真剣な眼差しに、アラディスが苛々と
体を揺らす。まるで飢えた熊のようだ……。
暫くして、また声が響くようになったが
観客達が反応していないところを見ると
わしらだけに、聞こえているようだ。
魔法の詠唱を悟らせずに
コロコロと、範囲を切り替えているようだが
負担にならないのだろうか?
上位精霊のクッカと契約しているから
ちょっとやそっとでは、魔力切れになることはないと
サフィールは話していたが、わしにはその辺りの事は
判断ができない。サフィールが何も言わないところを見ると
大丈夫なんだろうが。
『だから、顔色がすぐれなかったんですね』
自分の思考を中断し、セツナ達の会話へと耳を澄ます。
『……そんなに、酷かったか?』
『はい』
首を傾げるエレノアに、セツナが頷き
ヤトも同意するように深く頷いた。
『……セツナ。お願いできるか?
オウカ達に、頼んでみよう』
『僕とエレノアさんだけの
秘密でもよかったのに』
『……いや、二人の秘密にしても
何の意味もないだろう?』
『確かに、仕方ないので
ヤトさんを入れることにしましょう』
『……』
『……』
『冗談です』
会話の内容はわからないが、少し緊張しているように見えた
ヤトとエレノアが視線を交わし、自然に肩の力を抜いていた。
『何を秘密にするというのかね?』
セツナの不穏な言動に、オウカが転移で飛んでくる。
『なんでもありません』
『嘘をつくんじゃない。
さぁ。きりきりと話さないか』
オウカの、眉を吊り上げた表情に
セツナは軽く息を吐いた。
『今日の僕は、エレノアさんの味方ですから。
エレノアさんの願いを一番に聞くとします。
これで大丈夫ですよ。
エレノアさんの声は、エレノアさんのチームとサーラさん。
同盟チームの黒と白。そしてオウカさん達にしか届いていません。
会場の人達には、先ほどから僕達が準備をしているように
見えていますから、好きなようにされてください。
オウカさんがこちらに来たことも、隠蔽しているので
安心してください』
『……そうか、すまない』
『いいえ。僕も聞かないほうがいいのなら
耳を塞ぎますが』
『……いや。セツナにも聞いてほしい
良ければ、アルトにも』
『はい』
エレノアは、セツナに頷いてからヤトを見た。
『エレノア?』
『……本来ならば、国の催しの最中に
私情を挟んだ会話をするのはどうかと思うが
どうしても、伝えておきたいことがある。
オウカ……私情を挟むことを許してもらえるか?』
オウカは躊躇することなく頷く。
『珍しいこともあるものだな。
好きにするといい。大会はもう終了しているし
先ほどの試合は、冒険者達にとって
素晴らしく有意義なものだった。
これ以上、二人に求めることはない。
ここから先は、セツナとエレノアの時間としてもらって
構わない。ただし、私も理由を聞くことが条件だ』
『……感謝する。ヤト』
エレノアが、公式行事の最中に
総帥とは呼ばずに、ヤトと呼ぶのを初めて聞いた気がする。
『母上……』
ヤトもまた、エレノアを黒としてではなく
母としての言葉として受け止めると決めたようだ。
エレノアが、視線をヤトから
胸元に抱いている、剣へと落とす。
『……この剣は、ファライル。
君の父親が、君の為に誂えた剣だ。
私が、君を身ごもったと知ったファライルは
浮かれに浮かれて、当分先の話だというのに
君が家庭を持つ時の事を考え
君と君の伴侶。そして、生まれてくる孫を
守れるようにと、準備した。
彼の一族に伝わる伝統で、婚約の祝いとして
父親が自分の息子の為に用意する剣だ。
ヤトが娘ならば、私が用意することになっていた。
これを、ヤトに渡すか正直迷った。
だが、アラディスが絶対にヤトに渡すべきだと
私の背中を押してくれた……』
「エレノア……」
わしの隣で、アラディスが息をつめながら
エレノアの話を、一言も聞き逃すまいとしている。
『……この剣の存在を知っているのは
今では、私とアラディス。そして、私の父だけだ。
だから、君がこの剣を使えるのであれば
しがらみを気にすることなく、使うといい』
エレノアが語りだした内容に
皆が、表情を引き締めた。
セツナがあまりにも、軽く話していたために
ここまで、深い話をするとは思っていなかったのだ。
オウカもまさか、このような話になるとは
思っていなかったのだろう。驚きの表情を浮かべていたが
すぐに、真剣に聞く体勢を取っていた。
セツナは、エレノアが自然に話せるように
意図して、軽い表現を選んでいたのかもしれない。
『……君は大切な人から、君だけの剣を授けられているようだから
不要ならば、君に息子が生まれた時にでも譲ってやってほしい。
彼の一族の血を受け継いでいるのは……。
もう君しか残っていないから。ファライルの血筋が
存在していた証として、君の傍に……』
『私の為に、残してくださったものを
誰かに譲る気はありません』
『……ありがとう』
ここでエレノアは、一度息を吐き
肺の中に入っている空気を入れ替えるように
深く息を吐き、そして新しい空気を肺に入れてから
続きを話しだす。
『……本来ならば、その剣を君に渡す前に
ファライルが、君に伝えるはずだったものがある。
ファライルが、いや……彼の一族が得意とした
剣技を伝えるはずだった。
彼は、君に教える事をとても楽しみにしていたよ。
まだ生まれてもなかったし、性別もわからなかったのに。
どうやったら、わかりやすく教えることができるだろうかと
真剣に悩んでいた』
その時の情景を思い出したのか
エレノアが、淡い笑みを浮かべた。
『……私は、模擬戦をこの剣を使って戦うつもりだ。
ファライルが、君に伝えたかった剣技を
ファライルが、君のために用意した剣で
私が、彼に代わり……君に伝えることになる。
ファライルと私からの、婚約の贈り物だと思ってほしい。
リオウには、また別のものを贈るつもりだ』
『はい』
『……ヤト。ファライルの剣技は
剣に魔力を纏わせて戦う独特のモノだった。
ファライルと結婚するまで
その剣技は、彼の一族の血筋しか使えないものだと聞いていた。
だが、実際は彼の一族が秘匿する剣技なのだと教えてもらった』
『それを、ここで話してもよかったのですか?』
『……構わない。
もう、その一族の血を引くものは君しかいない』
『……』
『……私は、彼の一族に迎えられたことで
その剣技を教えてもらう事ができた。
だが、実際に使ったことがあるのは
ファライルとの訓練だけだった。私が使えることを
知られるわけにはいかなかったから』
エレノアは、失くした自分の伴侶の事を
淡々と語っていく……。
『……正直、自分の全力を出してもファライルの剣技には
到底届かないだろう。
私は、ファライルとの模擬戦で一度も勝てたことがない。
今の私と、ファライルが戦えば
三本に一本とれるかどうかといったところだ。
それほど、君の父親は強かった。
誰もが認めるほどに、武勇に優れた人だった。
ファライルはその力を極め、自在に扱っていたけれど
その剣技の扱いはとても難しい……。
それでも、その剣技を使えるのが私だけならば
ファライルと、彼の一族が存在した証として
それを君に、残すべきだとずっと思っていた。
その為に、訓練をするつもりだった……。
だが、魔力を使う事ができなければこの剣技は使えない』
呪いのせいで、エレノアは魔力の使用を
サフィールから禁じられていたし、基本使う事ができないように
されている。
『……今回が、最初で最後の機会となるかもしれない。
たとえ、魔力が扱えるようになったとしても
未熟な私の剣技では、一切手加減ができない。
下手をすると、相手を殺す事になってしまう可能性が高い。
ファライルが相手だったからこそ
私は安心して、剣技を学ぶことができていた』
エレノアの告白に、クリスとアルヴァンがセツナを見る。
セツナは、殺す事になるかもしれないと聞いても平然としている。
『……セツナに、模擬戦を頼んだときにはまだ
そういった意識はなかった。サフィールから魔法を解いてもらい
魔力が使えると知った瞬間に、欲が出た……。
セツナならば、私が全力を出そうとも。
どれほど未熟な剣技で、手加減ができなかろうとも
傷一つ負う事はない……。彼はそれだけの力量を持ち
どうあがいても、私が勝つことはないだろう。
今度いつこんな機会が訪れるかわからない。
もしかしたら、伝えることができないまま
命を落とすことがあるかもしれないと……考えたら
叫びたくなるほどの衝動を覚えた……。
彼が生きた証を君に伝えたいと……』
エレノアの頬に一筋の涙が伝わり落ちる。
『……私の私情に、セツナを巻き込むことを
心苦しく思うが、彼は許してくれた……。
未完成なものを見せることに、躊躇する想いもある。
だが……それでも、私はこの機会を逃したくはない。
国としての公式行事に、私の私情を挟むことを
どうか、どうか許してもらえないだろうか』
エレノアが、オウカに深く頭を下げる。
エレノアにわずかに遅れて、ヤトも頭を下げたのだった。





