第九〇話 これは、食人鬼です
アルバートがやって来た翌日。
ギルベルトはヴィルムに叩き起こされて、ぬくぬくとした布団から渋々這い出て来た。
「ふあぁぁぁっ、ねむぃぃ」
嫌々着替えて、寝室から出てくると――。
「ギルっ!」
君子がギルベルトに向かって抱き着いて来た。
しかも鍛えられた腹筋にスリスリと頬ずりをする、いつもならギルベルトからしないとこんなにスキンシップをしてくれないのに、今日は彼女の方からぐいぐいと来てくれる。
この不意打ちにギルベルトは驚いたが、すぐに喜びに変わる。
「えへへっ、おはよー」
「おう……」
ギルベルトは嬉しそうに彼女の頭を撫でる。
「……王子様にキーコ、そろそろご飯にしないと、冷めちゃいますよ」
熱々なのはアンネも嬉しいが、折角の御飯が冷めるのは困る。
アンネに言われて、君子は慌ててギルベルトから離れた。
しかし君子は名残惜しいのか、ギルベルトの裾をちょこんと掴んでいる。
その可愛さというのは、もう言葉で表す事が出来ないくらい。
ギルベルトはにやけてしまうのを、必死に抑えていた。
そんな彼を、アンネとシャネットはにやにやしながら見つめていた。
「さっ、今日はベアッグさんの自信作ですよー」
今日はジャガイモと鶏肉のポタージュと鮭のムニエル、ベアッグ特製プリンである。
「ふぁ~、今日も美味しそうですねぇ」
君子は席に着くと、手を合わせてきちんといただきますをして、ポタージュを食べる。
「…………んっ?」
一口食べた君子が、なぜか首を傾げた。
「どうしたのキーコ」
「えっ……いえ」
視線を前に向けると、ギルベルトは全く同じメニューをがつがつと勢いよく食べている。
「…………」
「そういえばギルベルト様、キャトリシアが予防接種を受けてくれと言っていましたよ」
はやり病にでもなってからでは遅い、早め早めのワクチンが大切なのだが――。
「嫌だっ、注射はきれぇだっ!」
戦いでさんざん重傷を負っているというのに、注射針の一本がなんだというのだ。
子供の様なギルベルトにヴィルムは溜め息をつく。
「全く、キーコも何か言って下さい」
「…………」
「キーコ?」
君子はスプーンを置いてしまっていた。
「どっどうしたのキーコ」
「なんか、あんまりお腹が空いてなくて……」
「えっでも」
「すいません、ちょっと部屋に戻ってます」
君子はそう言うとギルベルトの部屋を後にした。
「どうしたのでしょうか……」
朝食は一口食べただけで、ほとんど残っている。
君子はあまり好き嫌いしないタイプで、出されたご飯はいつも残さず食べているのに。
「体調が悪いのでしょうか?」
「昨日までは何ともなかったと思うのですが……」
何かあったのだろうか、ヴィルムがギルベルトに可笑しい所はなかったか聞こうと思ったのだが――、ギルベルトは君子の朝食まで食べていた。
「あっ? なンだヴィルム?」
「…………はぁ」
残したとはいえども他人の食事を勝手に食べるというのは王子の品格に関わる――という小言を言ったところで無駄なのでぐっと飲み込んだ。
「うっ……うううっ」
君子は洗面器に嘔吐していた。
「うっ……うううっ」
よほど苦しいのか息が荒く、胸を抑えていた。
立っている事もままならず、君子は床に座り込んでしまう。
「……を食べたい」
ふと口をついて出た言葉、それは君子にしか聞こえなかった。
だが、君子は自分が今何を望んでいるのかを理解して、戸惑う。
「あっあぁ……」
君子は蹲るとぷるぷると震えて、涙を流す。
誰にも聞こえない様に声を押し殺して、泣いていた。
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朝食が終わってしばらく経った頃、君子は戻って来た。
戻って来てからは特に体調が悪い様子はなく、いつも通りだった。
しかし一つだけいつもと違う所があるとすれば、やけにギルベルトにべたべたしている。
いつもはギルベルトの方が君子に抱き着いたり撫でたりとスキンシップをしているのに、今は逆だ。
君子はギルベルトに密着していて、時折抱き着いたり手を握ったり頬ずりをしたりする。
アンネ達は急に積極的になった君子に驚いたが、にやにやと笑いながら見ていた。
そして――その翌日。
君子はまだギルベルトにべたべたとしていた。
ギルベルトに寄り掛かって、首筋に頬をすり寄せている。
「ンっ……キーコぉ」
ちょっとくすぐったいが、君子がこうやって自分からスキンシップをしてくれるのは嬉しいから、ギルベルトも満足そうな笑みを浮かべていた。
「キーコ、また御飯食べなかったでしょう!」
しかしそんなラブラブな空気は、お怒り気味のアンネによって壊される。
彼女が怒るのも無理はなかった。
君子は昨日の朝食からろくにご飯を食べていない、それどころかアンネの記憶するかぎりでは、お茶も水も飲んでいない。
具合が悪いにしても、かなり異常だ。
「……うっ、だってお腹が空いてないんですもん」
「何言ってるの、ずっと食べてないのにそんな訳ないでしょう、ベアッグさんだって心配してるのよ」
「そうなのです、せめてミルクだけでも飲んでくださいなのです」
君子の急な絶食を、アンネもシャネットも心配していた。
食欲がなくても食べられそうな、温かいミルクと柔らかいパンを君子に差し出す。
しかし君子はよほど嫌なのか顔をそむける。
「良いです……本当に食欲がないんです」
「まさかダイエットなの? でも絶食は体に悪いわ」
「少しは何かを食べないとなのです」
君子も女、体重を気にしても不思議はない。
だがこんなダイエットはあまりにも体に悪すぎる。
「いっ良いです……本当にお腹が空いてないんです」
「そんな訳ないでしょう、昨日から何にも食べても飲んでもないのよ」
「良いんです、大丈夫なんですっ、ほっといて下さいっ!」
君子はそう強く否定するが、アンネは無理矢理にでもミルクを飲ませようとコップを近づけた。
しかし――。
「ほっといてって言ってるじゃないですかぁっ!」
君子はアンネを突き飛ばした。
油断していた事もあるが、アンネが思った以上に力が強くてCランクのはずが転んでしまう。
その拍子にコップを落として、高そうなコップは割れてしまった。
「……アンネさんっ!」
君子はすぐに自分がしてしまった事を理解して、アンネへと駆け寄る。
「ごめんなさい……、大丈夫ですかアンネさん」
「大丈夫、ちょっと吃驚しただけだから」
「あっ……本当にごめんなさい」
君子はとても落ち込んだ様子で、掛けてしまったコップの破片を拾い集める。
「駄目よキーコ、怪我でもしたら大変よ」
「わたしが拾うので、やめて下さいなのですぅ!」
破片で君子が怪我でもしたら大変だ、アンネとシャネットが止める。
しかし、アンネを突き飛ばしてしまった事がよほどショックらしく、罪滅ぼしの様に拾い続ける。
「ごめんなさいアンネさん、ミルクかかりませんでしたか?」
「大丈夫よ……、私こそちょっと強引だったわ」
君子は本当にショックらしく項垂れる。
アンネとシャネットが彼女を宥めて、どうにか君子は小さいながらも笑みを浮かべてくれた。
だが――その時。
「いって」
ギルベルトが声を上げた。
それに反応して、皆の視線はギルベルトをへと向けられる。
「ギルベルト様、いかがなさいました!」
ヴィルムがすぐに駆け寄ると、ギルベルトの人差し指から血が出ていた。
どうやら割れたコップの破片を拾った時に切ってしまったようだ。
「ギルベルト様、そのような事メイドにやらせておけばよいのです、これでは王子としての品位に――」
「わ~分かった分かったってのぉ!」
もはや見慣れたやり取り、ただの日常の光景。
そうそのはずだった。
「あっあああっ……」
君子はなぜか目を見開いて、怯えた表情を浮かべている。
なんの変哲もないいつもの光景のはずなのに、君子は苦しそうに胸を抑える。
「どうしたのキーコ!」
「苦しいのですか、キーコさん!」
その苦しみ方に、皆すぐに異常事態だと察した。
アンネとシャネットは苦しむ彼女の背中をさすったり声を掛けたりする。
ヴィルムはすぐにキャトリシアを呼ぶようイルゼに命令する。
「キーコぉっ!」
ギルベルトは君子へと駆け寄ろうとしたが――。
「だめ……」
君子は苦しみながら、どうにか絞り出すように言う。
かすれる様な小さな声だが、それでも必死さは伝わって来た。
「もう……我慢できないぃ、うっうううううっ」
蹲り苦しむ君子の言葉の意味を、誰も理解できなかった。
ただ薄れる理性の中、必死に言った。
「逃げてぇ……ギルぅ……」
「――えっ」
その意味を尋ねる暇はなかった。
「うがあああああああああああああっ!」
ただ次の瞬間には、獣の様な唸り声を上げてギルベルトへ向かって走った。
Eランクとは思えないほどのスピード、アンネもシャネットも目で追う事さえできない。
君子の右手がギルベルトへと届きそうなその時――。
「――ぐっ!」
ヴィルムが君子へとタックルして、取り押さえた。
そのまま彼女の腹の上に馬乗りになって、動けない様にする。
「キーコっ!」
「近づいてはなりません、ギルベルト様!」
心配で近づこうとしたギルベルトを、ヴィルムが止めた。
「なっなンで……キーコ?」
明らかに異常な君子が心配で仕方がないギルベルトだったが、ようやくそれを視認した。
「……赤い眼?」
君子の瞳の色が、血の様に真っ赤な色に代わっていた。
それだけではない、八重歯が長く鋭くなっていている。
彼女は異邦人、人間である筈なのにまるで異種族の様だ。
その異質な光景に言葉を失ったギルベルトに、ヴィルムが告げる。
この恐ろしいモノの正体を――。
「これは、食人鬼です」
食人鬼。
人の血肉を食らう怪物である。
元々は普通の人でも食人鬼になると理性を失い、親しい人や愛する人でも襲う。
これは呪いの一種であり、それをかける事が出来るのはよほどの呪術師か――あるいは吸血鬼だけである。
「うぐうううっ、うがああああっ!」
君子は吠えながら赤い眼でギルベルトを睨む。
彼女の口から垂れるよだれが、何よりも食人鬼になってしまった証だった。
「とにかく今は、キーコを取り押さえます」
ヴィルムはそう言うと近くにあった布を君子の口の中に押し込む。
かなり酷い扱いだと思われるが、口を塞ぐ事こそが食人鬼を抑え込む一番有効な方法だ。
「んっんんんっ、んんんん~~~~っ」
苦しそうにもがく君子の姿が、あまりにもいたたまれなかった。
「……キーコぉ」
ギルベルトは、ただ苦しむ君子を見ている事しかできなかった。
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「……間違えニャく、食人鬼の症例ニャ」
キャトリシアがやって来たのは、それから一時間もしないくらいだ。
取り押さえられた君子はやがて意識を失った。
ひとまず彼女の寝室のベッドで寝かせはしたものの、部屋にはカギをかけてヴィルムとアンネとシャネットを除いた全ての者を部屋には近づけない様に命じた。
「なんて事だ……、まさかキーコが食人鬼になってしまうなんて」
ヴィルムは今まで見た事がないくらい、深刻な表情をしていた。
それほど食人鬼という存在は厄介なのだ。
「キャトリシアさん、キーコは治るんですか?」
「食人鬼は病気では無いニャ、これは呪い……医者ではどうする事も出来ニャい」
「そんな……じゃっじゃあキーコはこのまま怪物になっちゃうんですか!」
人の血肉を食う怪物になってしまうなんてあんまりだ。
「ですが……気になる事が在ります」
「気にニャること?」
「キーコが近くにいるアンネやシャネットではなく、わざわざ一番遠くにいたギルベルトを襲った」
「……そうか、食人鬼は見境なく人を襲う怪物、普通なら近くにいた二人を先に襲ったはずニャ」
眼の前に食い物があるのに、わざわざ遠くのものを食べようとするのは不自然だ。
それが人の血肉を食うだけ食人鬼が、近くではなく遠くのものを食べる、血肉なら老若男女問わず襲うのに――。
「キーコはあの時、ギルベルト様に対して『逃げろ』と言いました、まるで食人鬼になった自分がギルベルト様を襲う事を解っていたようです」
「……それは変ニャ、普通の食人鬼は自我を失っていて特定の人物を襲うなんてありえないニャ」
ヴィルムもキャトリシアも前例のない、この症例に戸惑っていた。
そんな中――。
「ん……あ……」
「キャトリシアさん、キーコが!」
ヴィルムはいつでも君子を取り押さえられるように構える。
「……アンネ、さん……、キャットリシアさん」
しかし君子の意識はかなりしっかりとしている。
普通は食人鬼になると自我を失い、会話するどころか人を認識することも出来ない。
そして何より食人鬼の特徴である赤い瞳から、元の黒い瞳に戻っている。
「…………あっ、ぎっギルは、わっ私、ギルを……」
どうやら食人鬼になりかけた時の記憶があるらしい。
怯える彼女にヴィルムがすぐに口を開く。
「大丈夫です、ギルベルト様は無事です」
「…………よかったぁ」
君子はそれを聞いて、心の底から安心したようだ。
それを見て、ヴィルムは今の彼女が完全に普通の状態だと確信した。
「……キーコ、やはり貴方は自覚症状があったのですね」
ヴィルムの問いに、君子は弱弱しく頷いた。
「…………ずっと、気のせいだと思ってたんです、でもだんだん空腹が酷くなるにつれて、ギルが、ギルが美味しそうに見えて来て……」
君子は涙を流して、そう言った。
それもそうだろう、生きている人間を美味しそうなどというなんて、化物以外の何物でもない、自分がそんなものになり果ててしまうなんて、怖かったに違いない。
「もっと早く言わなくちゃって思ったんですけど……、どうしても言えなくて」
無理もない、こんな事言えるはずがない。
彼女を責める者など誰もいなかった、必死に我慢していた彼女はむしろ賞賛すべきだ。
「……キーコが食人鬼の呪いを受けた可能性が高いのは、やはりあの蝙蝠でしょう」
つい二日前、君子は蝙蝠に噛まれたと言っていた。
しかし血も出ていなかったので、結局気のせいという事になってしまったのだ。
あのときもっと詳しく調べていたら、こんな事にはならなかっただろう。
後悔しても遅い、もう彼女は発症してしまったのだから。
だがこの呪いをどう解けばいいのか、博識なヴィルムも分からない。
(一体……どうすれば)
ヴィルムが必死に思考を巡らせている時だった。
立ち入り禁止にしていたはずなのに、ドアが開く。
「キーコ……大丈夫かぁ?」
ギルベルトが心配そうに覗いて来た。
誰よりも君子の事を心配していたのは彼だ、彼女がこんな事に成って心配でいてもたってもいられなくなったのだ。
しかし――ギルベルトの顔を見た途端。
「うっうがあああああああっ」
君子が再び苦しみ出した。
黒に戻っていた瞳が、また血の様に赤い色になる。
「まずい、また食人鬼に!」
「キーコっしっかりしてぇっ!」
「キーコさんっ!」
ヴィルムとアンネとシャネットは、すぐにベッドの上で暴れる君子を取り押さえた。
そうしなければ、今にもギルベルトの血と肉を求めて駆け出して行きそうだ。
「ギルベルト様、早く部屋から離れて下さい!」
「でっでも、キーコが……」
あんなに苦しんでいる君子を放っておけない。
ギルベルトも何とかしたいのだが、それはむしろ逆効果だ。
「があああああっ、うっうぐああああああああああ」
獣の様に吠える君子。
それは皆が知っている彼女ではない、こんなの君子じゃない。
「キーコは貴方に反応しているのです! ギルベルト様が近くにいては苦しむだけです!」
「うっ……」
ヴィルムの言葉にギルベルトは傷ついたが、彼に出来ることなどない。
戸惑いと悲しみ、双方が合わさった表情で彼は寝室を後にした。
「うっぐうううっ、あっぐううっ! ぎるぅっぎるぅっ!」
ベッドに押さえつけられながらも、君子はギルベルトを求めていた。
よだれを垂らして苦しむ彼女は、いたたまれない。
だが、これでヴィルムは確信した。
「…………キーコは、ギルベルト様だけを『食べ物』と認識している」
普通の食人鬼は老若男女、とにかく人であれば、どんな者でも襲う。
しかし今の君子は、近くにいるアンネとシャネット、そしてキャトリシアとヴィルムには目をくれず、ギルベルトだけを狙っている。
その証拠に、ギルベルトが現れるまでは元の君子に戻っていた。
つまりこれは、ただの呪いなどではない――。
「これは……キーコを使ったギルベルト様の暗殺です」
今までギルベルトを狙って来た者はいた。
ジャロードは君子を人質して、ギルベルトの唯一の弱点を突いて来た。
だが、この呪いは本当に質が悪い。
君子を食人鬼にして、ギルベルトを食い殺させようとしているのだ。
「今まで反吐が出るくらいの謀略や暗殺を見た事はありますが、これほどまでに性格がねじ曲がった暗殺を見るのは初めてです……よりによって、キーコにギルベルト様を殺させようなんて」
ギルベルトが君子に手を出せない事を解ってやっている。
しかも食人鬼という、いかなる殺人の手段の中でもトップクラスに残虐な物を選んで――。
冷静沈着な氷の魔人である筈のヴィルムが、歯ぎしりをするほどの怒りを見せた。
既に君子はルーフェン城の皆にとって重要な存在、それをこんな風に苦しめて、血を求める怪物にして、ギルベルトの命を狙う。
こんな悪逆非道な所業、絶対に許せない。
「キーコにギルベルト様を殺させるものですか、絶対に……」
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薄暗い部屋の中、卓上用の水晶玉が置いてある。
そこに映るのは、ギルベルトの血肉を求めて苦しむ君子の姿だ。
「ふふっ、上々のようねぇ」
それを見て悪魔の様な笑みを浮かべるのは、アルバートの母アルテミシアである。
胸元がかなり強調された部屋着は、貴族の女とは思えないほどきわどい。
ドアの近くには、彼女の召使いであるレーダンが立っている。
「愛する女が自分の命を狙う、あの平民の息子にはお似合いなシチュエーションね」
アルテミシアが人差し指をくいっと動かすと、一匹の蝙蝠が指に止まる。
君子を噛んだ、あの蝙蝠だ。
「……あの混血はよろしいのですが、アルテミシア様のお言葉に背いたのですよ」
ピアスを取り返せと言ったのにその命令に背いた事が、レーダンは許せない。
「私に命じて下されば、いかようにも始末いたしますよ」
仮にも相手は一国の王子だというのに、物怖じすることなく平然と言う。
その言動は、どこか王族という物を軽んじている。
「止めなさい」
「しかし――」
「止めて置け」
レーダンが口を開こうとしたのだが、それを止める声が天蓋付きのベッドからした。
声の主は寝起きなのか、少し気怠そうだ。
「起きていたのね、まだ眠っているのかと思ったわ」
アルテミシアは息子と話していた時よりも、どこか嬉しそうな表情を浮かべていた。
「でも……眠ってはいられないわよねぇ、さんざん貴方の邪魔をしたあの小僧が、面白い事になっているんだから」
ベッドから起きて来た者に向けて微笑む。
「ねぇ、デュネアン」
魔王将デュネアン。
聖都襲撃、ギルベルトの暗殺を裏で糸を引いていた男。
それが魔王帝の息子アルバートの母親と一緒にいる。
「抜かるなよ、あの末弟はしぶとい」
「そんなヘマはしないわぁ、その為にわざわざあの不細工な小娘を『特別』な食人鬼にしたのよぉ」
デュネアンはアルテミシアの肩になれなれしく手をおくと、水晶玉を見る。
映っているのは食人鬼として苦しむ君子と、彼女の為に何もできず苦悩するギルベルト。
「思えば一〇〇年前も、こいつに邪魔をされた」
「ユータァンの鉱山の件は、本当に残念だったわぁ」
それは一〇〇年前ギルベルトがラーシャと暮らしていた領地だ。
元々大した事はない中規模の領地だったが、そこに金鉱があると解ったのが一〇〇年前。
新たに領主を据える事になり、ジェルマノースが推したのは唯一軍属でない王子ロベルト。
全く血縁のないロベルトをジェルマノースが推した事に誰もが驚いたのだ。
「あの使えない王子なら、領主の地位欲しさに私達の言いなりになると思ったのに」
「全くだ……、金鉱の金を横流しする予定が台無しだ」
しかし野望は、追放された王子ギルベルトによって阻まれた。
ロベルトは領主になる事を放棄して、弟ギルベルトを王族に戻す事を選んだ。
結局ユータァンの領主は、別の者に決まってしまった。
「ユータァンの鉱山を諦め、ジャロードを使って横領をさせていたというのに、それを阻んだのもあの末弟だった……」
一度ならず二度までも野望の邪魔をしたギルベルトに対するデュネアンの恨みは深い。
「今度こそ、必ず殺してくれる」
水晶玉に映るギルベルトを、睨みつけていた。
そんな彼の手を、アルテミシアが握る。
「これで、デュネアンが国を取るのも近いわね」
アルテミシアは嬉しそうに、更に続ける。
「貴方がヴェルハルガルド王、私が王妃……その日が待ち遠しいわ」
デュネアンはアルテミシアを後ろから抱きしめる。
「あぁ……そう遠くはないさ」
その笑みはどこかまがまがしいモノを含んでいた。
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ルーフェン城は厳戒態勢がとられた。
君子は病気になったという事にして、人払いのかん口令が敷かれた。
食人鬼というのは発症次第殺すのが一般的、君子が食人鬼と分かれば使用人やルーフェンの市民が恐怖から暴動を起こしかねない。
しかしそんな事よりも一番の問題は――。
「……キーコが、餓死?」
キャトリシアから告げられたのは、君子の体の問題だった。
「食人鬼は血肉しか食べられない……、アンネの話だとキーコは丸二日何も食べていない、それどころか水も飲んでいないらしいニャ」
君子は既に脱水による症状が出ている。
このままなんの処置もしなければ、死んでしまう。
「食人鬼は、血肉を与えれば与えるほど強くなり食欲も旺盛になってしまうニャ、だから点滴での栄養補給を試みるニャ」
現にキャトリシアが前に所属していた医療集団も、食人鬼の研究をしていた時は点滴による栄養補給で、血を与えずに延命させていた。
「空腹感は残ってしまうが、これで延命は出来るニャ」
まだ呪解の方法も分かっていない現状では、君子を出来るだけ生かす事は最も優先するべき事。
ヴィルムに許可を貰ったキャトリシアは、早速点滴を開始する。
アンネとシャネットが心配そうに君子の手を握っていた。
「これで一安心ニャ、先輩に連絡をして呪解に詳しい人を紹介してもらうニャ」
「私もなるべく人を当たってみようと思います」
何はともあれ一安心、皆は安どの溜め息を付いた。
しかし――。
「うっうああっ、ああああっああああっ!」
突然君子が胸を抑えて苦しみ始めた。
予想しない事態に、医者であるキャトリシアも驚いて、君子に駆け寄る。
「なっなにが起こっているニャ!」
「キーコ、どうしたの!」
「キーコさん、キーコさんっ!」
君子の症状はどんどん悪くなり、痙攣まで起こしている。
ただ事ではないと感じたキャトリシアは、急いで点滴の針を抜いた。
すると君子の痙攣が止まり、徐々に呼吸も安定していく。
「……キーコ、大丈夫!」
「キーコさんっ、大丈夫なのですか!」
アンネとシャネットは泣きそうになりながら、背中をさすったり頭を撫でたりする。
「一体……今のは」
アナフィラキシーショックも考えられるが、以前君子から血液を提供して貰ったときに調べたので、アレルギーを持っていないのは知っている。
点滴の成分が問題なのではない、点滴自体が問題なのだ。
「まさか……血液以外は何も摂れニャいのか……」
普通の食人鬼は食べるという行為でなく投与という形の点滴ならば、拒絶反応がなく栄養をかろうじて補給できる。
しかし君子はその点滴さえも拒絶する、無理矢理投与された栄養を体が受け付け無い。
食人鬼になったのに自我を保っているなど、君子は明らかに他とは違う。
いや、そもそもギルベルトだけを『食物』と認識するので、誰の血液でもいいわけではない。
君子が食べられるのは、たった一人の血肉――。
「……ギルベルト王子しか、キーコは食べられニャい」
「そんな、そんな事をさせる訳にはいきません!」
ヴィルムはギルベルトの補佐官だ、主の血や肉を君子に与える訳にはいかない。
アンネとシャネットもソレを知って青ざめる。
「そんな……私の血は! キーコの為なら私の血をいくら抜いても構いません!」
「シャネットもなのです! シャネットの血をキーコさんになのです!」
二人は泣きながらそう言ってくれたが、キャトリシアは首を横に振った。
「駄目ニャ……、ギルベルト王子の血でないとキーコはさっきの様に拒絶反応を起こしてしまうニャ」
「そんな……、そんなのあんまりですよぉ」
「酷い、酷すぎなのですぅ」
脱水症状で意識が朦朧としている君子、早く処置を施さなければ死んでしまう。
「食人鬼を生かすだけなら、何人かの人に献血をしてもらえば済む話ニャ……、多分キーコの身近には血を提供してくれる人はたくさんいる」
現にアンネとシャネット、それにキャトリシアやヴィルムだって、君子の為なら献血をしてもいいと思っている。
ベアッグだってユウやラン、それにこの城で働く使用人達だってそうだ。
「……キーコは王子一人しか食えない、このまま何もしなければ餓死する……、しかしキーコが王子を食い殺してしまえば食べるものが無くなり餓死する、この呪いはキーコだけは絶対に死ぬように出来ている」
キャトリシアはぷるぷると震えていた。
それは恐怖からでも好奇心によるものでもない。
「これは命の冒涜、こんな呪いをかけた奴を私は絶対に許さない!」
医者として、命に係わるものとして彼女はこんな呪いを容認できない。
せっかく板について来た口癖と一人称を忘れるくらい、彼女は怒っていた。
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「……以上が、現在のキーコの状態です」
ヴィルムは、自室のソファに座っているギルベルトへと報告をしていた。
彼がいると君子は食人鬼の発作を起こしてしまうので、ギルベルトの部屋で行ったのだ。
「…………、キーコは治るのか?」
「……何とも、キーコにかけられた呪いはかなり高度な物、これを呪解出来る魔法使いとなると、なかなか……」
重い沈黙、君子の現状はそれくらい悪いものだった。
ヴィルムもキャトリシアも、なんと彼に言っていいのか分からない。
長い沈黙の後、ギルベルトが口を開く。
「……キーコは血を飲めば、良くなるのか?」
「そっそうニャ、今のキーコの症状は飲まず食わずによる脱水と栄養不足、食人鬼になったキーコは、血肉でそれを補う事が出来るニャ」
ギルベルトはそれを聞くと、少しの沈黙の後口を開いた。
「なら、俺の血をキーコに飲ませろ」
「なっ……、なりませんギルベルト様!」
主であるギルベルトの血を与える事は補佐官として絶対に賛成できない。
血を与えるなど、あまりにも危険すぎる。
キャトリシアも君子を助けたいが、その為にギルベルトの血を飲ませる事を躊躇う。
食人鬼は血を与えれば与えるほど強くなり、食欲も旺盛になる。
一度与えてしまえば、君子はより一層ギルベルトの血を求めるだろう。
医者としてそんな許可は出したくはなかったが――。
「良いからやれ、キーコを絶対に死なせるンじゃねぇ!」
ギルベルトはそう言うと、袖をまくり上げて腕をキャトリシアへと向ける。
注射をあれほど嫌がっていたというのに、君子の事がそれほど大切なのだろう。
彼の迫力に押されて、キャトリシアは注射器へと手を伸ばす事しかできなかった。
「キーコ、起きて……」
脱水症状で意識が朦朧としている君子に、アンネとシャネットが声を掛ける。
肩をしばらく揺らし続けると、重い瞼が微かに開いた。
「…………あんね、さん」
か細い声は元気がなく、ちょっとした物音でかき消されてしまいそうだ。
それが今の君子の命を表しているようで、とても怖い。
アンネとシャネットは、必死に笑顔を作る。
「キャトリシアさんがお薬を持ってきてくれたのよ」
「そうなのです、きっとすぐによくなるのです」
「……、く、すり?」
そんなものがあるのかと戸惑う君子に、キャトリシアがそれを見せる。
ガラスで出来た器に、赤い液体が注がれていた。
ぐい飲みくらいの大きさに、半分にも満たないくらい量だけ。
「あっ……」
君子の瞳が徐々に赤みを帯びる。
すると先ほどまでの死にかけが嘘の様に、キャトリシアからガラスの器を奪い取った。
しかし、彼女の理性が飲む事をためらう。
「うっ……」
薬が嘘である事くらい君子にも分かる。
食人鬼という怪物になった自分の体が、分かっているのだ。
これが――ギルベルトの血である事を理解している。
だがもう君子の体は空腹の限界を超えていた。
「…………っ」
一口、血を飲んだ。
本当に少し、喉も潤せない程の量だったが、それでも脱水を起こしていた食人鬼には十分。
「あぐっあっ……」
憑りつかれた様に血を飲む。
よほど美味しいのか、グラスを舐めてまで少しでも多く味わおうとする。
その姿が化物になってしまったという事の証。
アンネもシャネットも、ヴィルムもキャトリシアもその変わり様に言葉を失う。
食人鬼である君子を助けるとはいえども、血を与えるのは失敗だったのではと思ってしまった。
しかし――。
「うっ……うぅ」
君子の眼から、一筋だけ涙がこぼれていた。
それを見て、ヴィルム達は自身を愚かだと恥じた。
彼女は何も変わっていない、こんな風になってしまい、ギルベルトの血を飲まなければ生きていけない事が悲しくて泣いている。
脱水を起こしていなければ、本当はもっとたくさんの涙が出ていたに違いない。
「…………キーコ」
絶対に君子を死なせないし、ギルベルトを食い殺させたりしない。
皆、一筋の涙の重みを理解して、強くそう思った――。




