第八九話 駄目な子ね
新章突入~
ルーフェンは本格的な冬を迎えようとしていた。
昨夜最低気温を更新したばかり、春の気配は全くない。
「う~、寒いですぅ」
君子はベッドから起きると、すぐに暖炉へと向かった。
真っ赤になって燃える石炭の熱はとても温かくて、冷えた体に染み渡る。
「昨日は本当に寒かったわね」
「お庭に霜が出来てましたのです」
ルーフェンはヴェルハルガルドでも比較的南の領地。
そこで霜が降りるほどなのだから、北の方ではもっと寒いはずだ。
「今日はお鍋でも食べたいね、スラりん」
寒い日といえばお鍋、やっぱり体の中からぽかぽかしたい。
君子はそんな事を考えながら、髪の毛を整えていた。
「キーコ様、お客様で御座います」
「へっ? こんな時間にですか……」
まだ朝だ、今日はギルベルトもいるしマルナが来る日ではない。
一体誰が来たのかと思っていると――。
「キーコ」
「アルバートさんっ!」
フェルクスとルールアも一緒で、アルバートはいつもの様に君子を抱きしめる。
もう何度止めてくれと言っても全く効果がないので、君子はもう諦めた。
「悪いわね、公務で帝都に向かう途中でこっちに寄ったの」
だからこんな早い時間だったのだ、しかし帝都とルーフェンの方向は全く違う。
そんなついで感覚で寄れるような場所ではない。
「それすっごく大変だったんじゃ……うわっアルバートさん体が冷たいです、ちゃんと暖炉に当たって下さい」
君子はアルバートを暖炉の火に当たるように促す。
「アルバートさん朝ご飯は食べたんですか、良かったらご一緒にどうです?」
「折角のお誘いだが……、急いで帝都に行かなければならないのだ」
アルバートが君子の誘いを断るなど、帝都の公務はとても大切な物なのだろう。
だがそんな大切な事の合間に、なぜルーフェンに来たのだろうか。
「実はもうすぐスティ――」
「このクソバァァァァァァトォォォォォっ!」
アルバートが本題を話そうとした時、寝間着姿のギルベルトが乱入して来た。
いつもの事だが、言葉を遮られたアルバートは舌打ちをする。
「もう起きて来たか……」
「風に乗って、てめぇの匂いがして来たんだよぉ!」
「全く、永遠に眠っていれば良いものを……」
「てめぇ、キーコは俺のもンだぁ、触ンじゃねぇ!」
ギルベルトは拳を握ると、アルバートへ殴り掛かる。
しかしいつもの事、アルバートは特殊技能で避けると、ギルベルトを蹴り飛ばす。
「どわっ」
ソファを吹っ飛ばして壁に激突する、君子の部屋なのだが滅茶苦茶になってしまう。
「この……クソやろぉ」
「アルバート様に勝てる訳ねぇだろう、バーカだなぁっ!」
「うっせぇこの馬鹿!」
ギルベルトはソファをフェルクスにぶん投げる。
流石のフェルクスも油断していたのか、ソファの直撃を食らう。
「うぎょーっ……オレしゃま、しゃっ……いへぇ~」
騒がしい事この上ない。
この乱闘を止める力は君子にはないので、苦笑いを浮かべていると――。
『キーコ』
「(うわっ、あっアルバートさんっ!)」
突然の念話に驚いた、眼の前にいるのにわざわざ魔法を使うなんて。
よっぽど大事な要件なのだろうか、君子も神妙な面持ちで聞く。
『……実は、もうすぐ新月なのだ』
「(ふぇっ……新月?)」
そう言われてみるとだいぶ月が欠けて来た、あまり意識していなかったがあと十日もするとなくなるだろう。
だがそれがどうしたのだろうか、新月とアルバート何か関係があったのだろうか。
アルバートは言いづらいのか、十分すぎる間を開けてから続ける。
『私と、スティラの花を見ないか?』
スティラとは、冬の新月の夜に咲く花だ。
つる性植物で、その花がまるで星の様に輝くベルカリュースではポピュラーな花の一つである。
君子は以前この花をアルバートと見た事があった。
その光景はまるで星が降っている様で、君子はとても気に入っていたのだ。
『あと一〇日で花が咲くのだ、二人っきりで開花から見ないか……?』
(……はいっ、見たいですっ!)
君子はほとんど即答で答えてくれた。
それを聞いてアルバートは先ほどまでの言い難そうな口ぶりが嘘の様に、軽やかに話始める。
『なら迎えに来よう、椅子やテーブルを置いて、そうだなファニアになにか美味いモノでも頼んでおこう、そうだなそれが良い』
(はいっ、私も何かお菓子でも作っていきますね)
以前聖都で、ギルベルトを抑える係をしてもらったお礼をまだしていなかった。
それにスティラの花も見たいしちょうどいい。
「なに見詰め合ってンだっ!」
ギルベルトがアルバートと君子の間に入って、二人の視線が合うのを阻止する。
しかし既に念話で話終わっているアルバートは、部屋を後にする。
「邪魔をしたな、行くぞ」
「はっはい、ほら行くわよフェルクス」
「うっふぉふぁ~、星がクルクル~」
ソファの下敷きにされてのびているフェルクスを、ルールアが回収して引きずっていく。
あっさりと帰って行ったのを見てギルベルトは、逆に不気味がっていた。
「……なンだ、あいつ」
こんなあっさり帰っていくと、むしろ張り合いがない。
君子はそんなギルベルトに着替えと寝ぐせを直すように促す。
「さっ早く朝ご飯にしよう」
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帝都 ガルド城。
ルーフェンから急いで帝都にやって来たアルバートは公務に追われていた。
本来ルーフェンに行く余裕などなかったのだが、無理矢理時間を作って来たのだ。
朝早くシューデンベルを出発したので、ルールアは欠伸が止まらず、フェルクスにおいては立ったまま眠っていた。
「こらフェルクス、おふぃなふぁい」
しかしアルバートは昨夜遅くまで領主の仕事をして、かなり眠いに決まっているのに、欠伸一つしない。
やはり完璧な王子であるアルバートは、この程度の事では疲れないのだろう。
「ルールア、この後の予定は?」
「はい、軍の重役との会食があります」
いつまでもギルベルトだけに国攻めをさせるつもりはない。
アルバートもそろそろ魔王として兵を率いようといていた。
その為に解体されたフォルドの軍とジャロードの軍の兵をもらい受けようとしていた。
一部はギルベルトの軍に編入されたが、まだ多くが残っており、それを編成し、強大な軍を作り上げようとしているのだ。
(いつまでもギルベルトに先を越させる訳には行かぬ、私も一国を落としキーコに相応しい魔王とならねば)
なるべく強い兵を集める為に、軍幹部へと根回しをしているのだ。
「……ルールア、お前はキーコと仲が良いだろう、最近何か欲しいモノがあるかどうか聞いているか?」
「えっ……あー、そう言えば前に髪留めが欲しいって言ってました」
「髪留めか」
「……私が何か見繕って来ましょうか?」
帝都の方がシューデンベルよりも品ぞろえの良い店が多い。
しかし滞在できる時間は今日の夕刻まで、予定が詰まっていてとても買いに行く余裕はない。
だからルールアが買いに行くと言ったのだが――。
「いや……私が選ぼう、似合う物を見繕いたい」
「はい、では予定を調整しますね」
ルールアはそう言うと、ちょっと嬉しそうに笑った。
そんな彼女を見てフェルクスは暇そうに尋ねる。
「何笑ってんだよルールアぁ」
「だってアルバート様、似合う物を自分で選びたいって」
「あっ? 女になら前にもプレゼントしてただろう」
アルバートは魔王になる為にいろいろな所に根回しをして、様々な有力貴族の令嬢に言い寄っていた時にプレゼント渡していた。
特別珍しいものだとは思わない。
「馬鹿ね、そう言う女に渡してたのは全部あたしが選んでたのよ」
アルバートが利用する為だけに言い寄った女性の物は全く選ばなかった。
しかし君子に渡す物は、自分で選ぶと言っている。
「アルバート様は完璧な王子だから、あたしみたいな庶民はとっつきにくいとずっと思ってたんだけど、最近はとってもやりやすいわ」
今までアルバートは何を考えているのか分からず、傍にいると緊張して息苦しくなる時があった。
しかし最近はそれがだいぶ軽減されて、なんだか心に余裕があるように見える。
「アルバート様笑う様にもなったし、全部キーコのおかげね」
このアルバートの変化は歓迎すべきものだ。
アルバートも君子にどんな髪留めを贈ろうか考えているのか、どこか表情が楽しそうだ。
そんな彼を見て、ルールアは自然と笑みを浮かべた。
そう、『彼女』が現れるまでは――。
「アルバート」
それは綺麗な声、しかしどこか冷たく刃を髣髴とさせる鋭さがある。
「――――」
ただ女に呼び止められただけなのに、アルバートは明らかに不自然に立ち止まった。
彼が振り返ったのを見て、ルールア達も視線を声の主の方へと向ける。
立っていたのは、青紫色のドレスに身を包んだ女性。
歳はそれなりにいっている様に思えるが、顔立ちが美しくシワもシミもない柔肌なので、年齢が全く分からない。
かなり高価なサファイアのネックレスを下げ、見事な金細工を施した扇を持っている。
だが、何よりも目を奪われたのが、彼女がアルバートと同じ銀髪だったという事。
アルバートは先ほどまでの笑みが嘘の様に、何を考えているのか分からない無表情で呟く。
「…………アルテミシア」
ルールアは聞いた事のない名前。
一体誰かと思っていると、女はアルバートによく似た何を考えているのか分からない無表情で言った。
「そんな呼び方をするように躾けたつもりはありませんよ、アルバート」
一国の王子である彼をそう叱る、そんな事が出来る人物は限られている。
戸惑うルールアを無視して、アルバートは言い直す。
「…………お久しぶりです、母上」
アルテミシア=ティマナ・ジェルマノース。
大国ヴェルハルガルドで、王族の次に高貴な一族といわれているのが、ジェルマノース家。
その現在の当主であるのが、アルテミシア=ティマナ。
そして彼女こそ、アルバートの実の母である。
「どれくらいぶりでしょうね、三〇年ぶりくらいかしら?」
「七五年ぶりですよ」
到底親子の会話とは思えない、どこかギスギスとしている。
「ジェルマノースの屋敷から出て来て、一体どうなされたのですか母上」
「息子の顔を見に来たのですよ、わたくしは母親ですから」
だがアルテミシアの視線は、アルバートの顔から耳へと向かう。
二対あったはずの銀色のピアス、しかし今は右耳には一つしか付けられていない。
「アルバート、貴方が母を悲しませるような出来の悪い子だとは思いませんでしたわ」
「なっ、アルバート様は魔王になるほどの実力を持った方です、いくら実の母親でもそんな風に言わなくても……」
主の酷い言われようにルールアは反論した。
アルバートは王子の中でもエリートと呼ばれるほどの実力を持っている、たった六人しかなれない魔王にだってなった、出来が悪いわけがない。
「そんなの、当たり前でしょう?」
しかしアルテミシアはそう言い切った。
魔王になったアルバートを褒める事もない、ルールアはそんな彼女に怒りさえ覚え、言い返そうとしたのだが、アルバートが先に口を開く。
「母上用向きはなんでしょうか、私はこれから会食があり急いで向かわなければならないのですが?」
「まぁ補佐官の無礼さが貴方にまでうつったのアルバート? もっと優秀な補佐官がいたのに、こんな身分の低い者を据えるなんて……高貴たる吸血鬼の血を継ぐ者として愚か極まりない行為でしょう」
確かにルールアもフェルクスも貴族でも何でもない、同じ補佐官でもヴィルムの様に貴族の生まれではないが、アルバートの補佐官として誰よりも彼に忠誠を誓い、彼の為に働いて来た。
それをそんな風に踏みにじるなんて許せない。
しかし主の母という事もあり、ルールアは必死に怒りを押し殺していた。
「…………ご用件はなんでしょうか?」
アルバートはそんな無情な母の言葉にも冷静に対応する。
ただ淡々と要件を聞く彼に、アルテミシアもそれ以上は止めて本題に入る。
「貴方がそのピアスを、わたくしの許可もなくどこぞの女に与えたと聞いたので見に来たのですよ」
「…………」
「わたくしが屋敷から出て来ないからといって、何も知らない訳ではなくてよアルバート」
以前帝都で行った魔王の就任を祝うパーティ、あそこでアルバートのピアスをつける君子は世の貴族令嬢達を震撼させた。
あのエリート王子のアルバートのピアスをつけた女、その噂はアルテミシアにも届いていたのだろう。
「しかも異邦人で、あの売女の息子の女だっていうじゃない……」
「…………」
ギルベルトのピアスをつけているので見ればそれは解るだろう、しかし異邦人だという事まで知っているという事は調べがついている。
「でもわたくしは解っているわ、本当はあの出来損ないをけん制する為でしょう?」
「…………」
ギルベルトよりもアルバートの方が王子としての格が上。
そんな彼のピアスを、あえてギルベルトが好意を持っている女性につけさせれば、それだけで十分精神的な揺さぶりが出来る。
「それは……」
違うとルールアは否定したかったが、言えないくらいこの場の空気がピリピリしている。
「でもお遊びはそれぐらいになさい」
アルテミシアはアルバートの頬に触れる、母が子に触れているのにどういう訳かそこにひとかけらの温もりもない。
母が触れているのに、アルバートは感情が分からない無表情を浮かべていた。
そんな彼に、アルテミシアは――。
「ピアスを取り戻して来なさい」
その言葉はあまりにもひどい。
彼女は、アルバートがけん制目的などではなく好意を持ってつけさせている事を解っている。
「貴方にはあんな不細工よりももっと相応しい身分の女がいるわ、ピアスは貴方の権力の為に使う物よ」
アルバートの気持ちなど何も考えない、ただ権力と地位だけの為にこのピアスを使おうとしている。
それはまるで以前のアルバートと同じだ。
あれほど君子を愛しているアルバートが、いくら母親とはいえども言う事を聞く訳がない、ルールアはそう確信していたのだが――。
「…………はい、母上」
「――アルバート様ぁ!」
あんなに君子の事を愛しているのにピアスを取るなんて、それではせっかく変わって来たアルバートがまた元に戻ってしまう。
「そう、それでこそ我がジェルマノース家の血を継ぐ者よ」
アルテミシアはそう言って笑みを浮かべると、扇をぱたんと畳む。
すると石柱の後ろから執事服を着た男が現れて、彼女に肩掛けを差し出す。
「屋敷に帰るわよ、レーダン」
「はい、アルテミシア様」
レーダンと呼ばれた男は、深々と頭を下げながらそう言う。
しかしふとアルバートを見ると蔑んだ目で睨む。
「……混血め」
「なっ――なんて言ったのよぉアンタぁ!」
初めて聞く言葉だったが、男の態度で彼がアルバートを蔑んだというのは解った。
しかし、怒るルールアの言葉など全く聞こえていない様に無視して、二人は去っていく。
今にも追いかけて蹴りを食らわせそうなルールアを、アルバートが止める。
「止めろ、ルールア……」
「でっでも、あいつアルバート様の事を!」
いくら母親の従者だとしても、一国の王子であるアルバートを蔑むなど、本来不敬罪で処罰されても可笑しくはない。
しかしそれでもアルバートは彼女を止める。
「……ジェルマノースの者は、皆ああいう奴らだ」
ジェルマノース家、ルールアも名前くらいは知っているヴェルハルガルドで最も高貴な一族であり、何より吸血鬼の一族。
それ以外は何もかも謎に包まれていて、補佐官だというのにルールアも名前くらいしか知らなかった。
「…………あっアルバート様、本当にキーコからピアスを?」
あんなに熱心にアプローチしていたのに、本当にピアスを取ってしまうのか、ルールアが怖くなってそう言ったのだがアルバートは何も答えてはくれない。
困ったルールアは、同じ補佐官であるフェルクスに助けを求める。
「(ちょっとフェルクス、アンタもアルバート様になんか言って――)」
しかし、フェルクスはあろうことか壁に寄り掛かって寝ていた。
やけに無口だとは思っていたが、あんな張り詰めた空気の中でよくもまぁ寝ていられるものだ。
呆れたルールアは最早喋る事も出来ない程だ。
フォローを出来ずにいると――、聞き覚えのある事がした。
「アルバート」
振り返ると、そこにはベルフォートが立っていた。
いつもは低い声でやけにハイテンションなのだが、今日はまるで別人の様に冷静で大人しい。
彼の変わりようにルールアが驚いていると、静かに続ける。
「話があるの」
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ベルフォートはアルバートを応接間へと連れて来た。
ポンテ茶を出して来たのだが、到底口をつける気にはなれない。
「兄様私は忙しいのです、いつもの悪ふざけならば、また今度にして頂きたいのですが」
アルバートは見るからに機嫌が悪い、今の彼には誰も話しかけたくないだろう。
だがベルフォートは、静かに口を開く。
「アルバート、キーコちゃんからピアスを取るのはやめなさい」
「…………」
「アルテミシアさんが何を言っても、貴方は貴方の気持ちを優先するべきよ」
どうやら一連の話を聞いていたらしい。
それで余計にアルバートの機嫌は悪くなる。
「兄様には、関係のない事だ」
大きなお世話、アルバートは先ほどよりもずっと強い口調で、拒絶しているのは明らかだ。
「いいえ、関係あるわ」
しかしベルフォートは冷静な口調で続ける。
「貴方はアタシによく似てるもの」
「どっどこがぁ―――ってっ、すっすいません……」
ルールアは相手が王子だという事も忘れて、そう突っ込んでしまった。
だが、アルバートとベルフォートは真逆の存在なのだから、無理もないだろう。
ベルフォートはルールアを咎める事はなく、いつものおふざけからは想像もつかない程、落ち着いた口調で続ける。
「アタシも今の貴方みたいに母親から色々押さえつけられていたから……」
「……ベルフォート兄様が?」
ベルフォートの母は、アルバートが生まれるずっと前にはやり病で死んだ。
だからどんな人だったのかも知らないし、彼女が生きていた頃のベルフォートがどのようだったかを知らない。
ベルフォートはポンテ茶を一口飲むと、昔話を始める。
「アタシの母親はヒルデ姉さんの母親と、どちらが父上の正妻に相応しいか争っていたわ」
ベネディクトの子供は全員母親が違う、だから母親の間で誰がヴェルハルガルドという大国を治める魔王帝の正妻に相応しいかという争いが勃発していた。
大国の王妃という立場は、正に地位ある女性の頂点と言っていいだろう。
だが生まれたのは姉、ここで男児が生まれていればその後の争いは激化しなかったのだ。
「姉さんが女だから、父さんの後を継ぐ可能性がアタシにも回って来たわけ……でも姉さんの母親だって正妻の座を狙ってるわけだから、まー泥沼よ」
互いに根回しをして出し抜いたり貶めようとしたりする。
その様を見て育ったのは他でもないベルフォートだ。
「やれ姉と仲良くするな、やれ王子としての気品を持てお前は将来魔王になるの……結局優秀な王子を生んだから自分が正妻に相応しい、そう言いたかっただけなのよ」
子供は母親の権力の為の道具、そこに子供の意志など関係なかった。
「ベルフォート様は、反抗しなかったんですか」
ルールアがもし同じ立場だったら、絶対に反抗している。
家出など非行に走りそうなものだ。
「生まれた時からずっとそう言い続けられて来たから、母親に反抗しようなんて思いもしなかったわ……むしろ反抗する方が疲れるから、言いなりになってる方が楽なのよ」
「…………そんな」
「あっ姉さんは違うわよ、あの人はもう自由奔放の猪突猛進の首狩りガールだったから、母親の言う事なんて何一つ聞いてなかったわ」
今の彼女を見ているとその光景が簡単に想像できる。
「姉さんは母親同士が正妻争いをしている事なんてなんにも気が付かないで、ハルバード振り回してるだけだった、アタシはそんな風に自分勝手に生きられる姉さんが心のどこかで羨ましくて仕方がなかったわ」
裏で母親同士が醜い争いをしているというのに、ブリュンヒルデはそんな事にまるで気が付かずに、自由にまっすぐに自分のしたいように生きたいようにしていた。
「貴方はそんな昔のアタシによく似てるわ」
「……だから何だというのですか、兄様」
アルバートは感情が分からない無表情で、そう冷たく言い返した。
どんな言葉も今の彼には響かない、ただ早くこんな話を止めたいという空気を出している彼に向かって、ベルフォートは続ける。
「貴方、本当はギルベルトと仲良くしたいんでしょう?」
ベルフォートは一体何を言っているのだ。
顔を合わせただけで殴り合うのは日常茶飯事、悪い時は殺し合いにまで発展するというのに、一体それのどこに仲良くしたいという気持ちがあるというのだろう。
「アルテミシアさんに言われたから、貴方はギルベルトを嫌ってるんでしょう? でも貴方の本当の気持ちは、ギルベルトと仲良くしたいって思ってるんじゃない?」
「…………そんな事はない」
「アタシと貴方はよく似てるわ、だから自分の気持ちを押さえつけている貴方以上に貴方の気持ちが解るの、本当は家族と仲良くしたいと思ってるのよ」
母親からブリュンヒルデと仲良くするなと言われ続け、必死に嫌いになろうとしていたあの時のベルフォートと、アルバートはよく似ている。
だから自分の気持ちを自分で分からない彼よりも、ずっとよくわかる。
しかしアルバートは――。
「くだらない」
それだけ言ってお茶に口をつける事なく、立ち上がる。
部屋から出て行こうとする彼に、ベルフォートは忠告する。
「アルバート、損得だけで周囲の事を図ってはいつか貴方の心が壊れてしまうわ、もっと自分の気持ちを大切にしなさい」
「…………」
だがアルバートは兄の言葉に返事をする事はなかった。
黙って部屋を後にする彼を、ルールアはすぐに追いかけようとするが、それをベルフォートが止めた。
「追わないであげて」
「でっでも……、アルバート様を一人になんてしておけません」
アルテミシアに会ってから、アルバートの様子が可笑しい、一人にしておくのは不安だ。
「アタシとルールアちゃんがこれ以上何を言っても、あの子は聞かないわ」
確かにアルバートの性格を考えると、これ以上は何を言っても無駄だろう。
それどころか余計に心を閉ざしてしまう。
「アタシの場合姉さんがああいう性格の人だったから、親同士が争っている事に気が付かないで、アタシに対しても普通に接してくれたわ」
自分の気持ちを押さえつけて、損得だけで物事を図っていたベルフォートに変わるきっかけを与えてくれたのはブリュンヒルデだった。
「アタシがお洋服が好きだって、デザインして作りたいって言ったのを一番応援してくれたのは姉さんだった、アタシの女口調を認めてくれたのも姉さん、本当に姉さんがいなかったら今のアタシは無いでしょうね」
母親が流行り病で死んでベルフォートは今までの溜めに溜まったものが爆発したかの様に、現在の様な性格になった。
ブリュンヒルデの支えがなければベルフォートはとっくに壊れてしまっていただろう。
アルバートも押さえつけられている気持ちに気が付かなければ、最悪な事が起こるかもしれない。
「あとはもう……キーコちゃん次第ね」
ベルフォートとルールアは、心配そうに冷たい風が吹いている外を見詰めるのだった。
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――あらあら坊ちゃんどうしたんですか?
――分かりました、おやつが食べたいんですね
優しい所が好きだった、ちょっと素朴な笑顔が良かった。
――なら坊ちゃんが好きなプリンをお持ちしますよ
ブラウンの眼が琥珀の様で、吸い込まれるように綺麗だった。
――なんで分かるかって? うふふ私は坊ちゃんの事なら何でもわかりますよ
――私はちゃあんと、坊ちゃんの事を見てますから
理解してくれるそのメイドを気に入っていた。
そう気に入っていた、気に入っていたのに――。
――アルバート、貴方も飲みなさい
「――――っ」
アルバートが眼を開けると、眼前に広がるのは夕日に照らされて真っ赤な雲海。
新たな愛馬となった黒いワイバーンに乗り、南東へと向かっている最中だった。
「…………夢か」
いろいろと考え事をしている間に、白昼夢を見てしまった。
時間としては一瞬の事だろうが、ワイバーンの繰りは神経を使う、そんな時にぼーっとしてしまうなど今までではありえない事だ。
しかもよりによってあんな昔の事を思い出すなんて――。
「…………、私の気持ちか」
そんなもの、とっくの昔にどこかへやってしまった。
今までだって損得で考え、割り切って捨てて来たのだ。
これからもそうやって生きていけばいいだけだ。
「…………」
アルバートは感情のない無表情のままルーフェンを目指す。
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ルーフェン城。
「ふぁ~、今日はなんだか眠いです」
君子は大きな欠伸をしながら、寝間着へと着替えていた。
既に夕飯もお風呂も済ませ、ギルベルトとの食後の談笑もお開きとなり、就寝しようとしている所である。
「今日も寒くなりそうだから、暖炉はつけたままにするわね」
「はい、ありがとうございますアンネさん」
「このマホービンにポンテ茶を淹れておいたのです、枕元に置いておくのです」
どうも暖炉をつけっぱなしにしていると夜に喉が渇くので、水筒に飲み物を入れて貰う様にしたのだ。
君子はお礼を言うと、スラりんを専用のベッドへ寝かせて、自身も布団の中に潜る。
「おやすみキーコ」
「おやすみなさいなのです」
「はい、おやすみなさい」
アンネとシャネットがランプの明かりを消す。
部屋にはかなり痩せた月の微かな明かりだけになる。
君子は眼を閉じると、まどろみの中に身を委ねた。
しかしどれくらいか経った頃、君子は何かの気配を感じて眼が覚めた。
「……んっ?」
また何かの勘違いだろうと思ったが、気になったのでそちらをなんとなく向いた。
そこには男が立っていた。
明かりがなく、ただうっすらと見える背格好で男と解るだけ。
君子ビクっと飛び上がり、声も出せない程驚く。
まさか強盗だろうか、ぶるぶると震えていると――男は歩を進めて月明りの元へとやって来た。
「あっ、アルバートさん」
知っている顔を見て、君子は心からの安堵の溜め息をついた。
二人は寝室から応接室にうつった。
あんなホラー映画みたいな状況を目の当たりにして目が冴えてしまった。
ランプを点けると迷惑かとも思ったが、四階にいるのはギルベルトだけ。
もうとっくに寝てしまっただろうから、少しだけ光量を抑えて点けた。
「あっギル起きて来ないですかね」
「今はこちらが風下だから大丈夫だ」
「そうですか……、そうだお茶飲みますか?」
君子は水筒とカップを持ってそう言うのだが、アルバートは首を横に振る。
「そうですか……、でもこんな時間に一体どうしたんですか?」
今朝スティラの花を見ようと誘って来たばかりなのに、どうしてまた来たのだろうか。
不思議そうに見つめる君子に、アルバートはしばらく間を開けると、感情の読めない無表情で口を開いた。
「実は、ピアスを返して貰いに来たのだ」
返して貰うというのはある意味適切ではない。
このピアスはアルバートの意思で、何も知らない彼女に勝手につけたのだ。
勝手につけて勝手に取り返す、あまりにも横暴。
(……キーコは、返すだろう)
このピアスをつけようと、一体どれほどの令嬢が戦いを繰り広げている事か。
だが君子はこのピアスの意味を知らない。
だから、言われればいつもの様に二つ返事で返してくれるだろう。
ピアスがあるから、君子と繋がりがあるような気がした。
だからピアスを返してもらうという事は、彼女との繋がりもなくなるという事だ。
(……何をためらう、以前に戻るだけだ)
君子に会う前に戻るだけ、前の様に損得で物事を選ぶ生活に戻るだけ。
十分すぎるくらいの間を開けて――、君子は答えた。
「嫌です」
それは、あまりにも予想していなかった答えだ。
考えていなかったので、頭がその意味を理解するのに時間がかかって、言葉をなかなか返せなかった。
「なぜだ……キーコ」
戸惑うアルバートに、君子はちょっと考えると口を開く。
「……だってアルバートさん、全然私の眼を見ないんですもん」
言われてみれば確かに、いつもは君子の眼をしっかりと見て話す。
それは彼女を愛しているから、少しでも見詰めていたいという事の現れだ。
いつも通り平静を装っていたつもりなのに、君子はそれを見抜いた。
「別にピアスを返すのは良いですよ、これはアルバートさんのモノですから……でもアルバートさん、なんだか朝より悲しい顔をしてますよ」
「……それは」
「本当は、ピアスを返して欲しくないんじゃないんですか?」
君子は何もかも解っている。
アルバートは感情が読めない無表情をしたつもりだったのに、今まで誰も分からなかったのに、彼女には悟られてしまった。
アルバートは予想とは全く違った君子の反応に完全にペースを崩されてしまって、何も答える事が出来なかった。
だがその無言で、君子は理解する。
「……誰かに言われたんですね?」
ピアスの返却にアルバートの意思がなければ、それしか考えられない。
王子である高貴な身分に命令できる人が誰なのか君子には全く推測できないが、これくらいなら容易に想像がつく。
アルバートは、君子の的確な問いに弱弱しく頷いた。
それを見て、君子は仕方がなさそうに溜め息を付く。
「私はアルバートさんの事情はよく知りませんけど……でも、今のアルバートさんは前のアルバートさんに無理に戻ろうとします」
「…………」
「私は、前みたいに人を寄せ付けない怖い感じのアルバートさんよりも、今の明るくて色んな表情をしてくれるアルバートさんの方が良いです」
初めて会った頃はとても怖くて仕方がなかったけれど、こうやって交流を深めて彼が徐々に表情を見せてくれるようになってからは、恐怖は消えむしろ好感出来るようになって来た。
だから、またそんな怖いアルバートに戻って欲しくはないのだ。
「…………キーコ」
ふいに言われた言葉に、アルバートは面食らう。
「じゃあこうしましょう、私がアルバートさんのピアスを気に入って返してくれないって、そうすればアルバートさんのせいにはなりませんよ」
「だが……」
「そうして下さい、ピアスをつけていればアルバートさんが今のままでいてくれるなら、私はそっちの方がいいです」
君子はそう言って笑ってくれた。
事情を何一つ知らないから、こんな笑顔を見せてくれるのだろう。
でも今は――。
「えっ――うわぁっ!」
アルバートは君子を抱きしめて来た。
かなり強引で、男性の体重をひ弱な君子が支えられる筈もなく、そのままソファに押し倒された。
「うえっ!」
今は夜中だし、ランプの明かりはなんだかムードもあるし、それに二人っきり。
まさかこの期に及んでセクハラかと、思って体が強張ったのだが――。
「……アルバートさん?」
耳にキスもしないしおしりも触らない、ただ君子を強いけど優しく抱きしめてくれる。
君子の体勢では、アルバートの顔は見えないがそれでもなんとなく解る。
「キーコ……、有難う」
そのお礼は理解してくれた事への感謝の気持ち。
君子はいつだって、アルバートを理解してくれる。
「ちゃんと見てれば分かりますよ、アルバートさん」
君子は笑顔を浮かべながら、アルバートの背中を優しく撫でた。
この少女の温もりと優しさが、一体どれだけの安らぎをくれる事だろうか。
アルバートは、大切そうにずっと抱きしめていた。
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「ふわぁ~あ」
翌日、君子は大きな欠伸をかながら着替えていた。
昨夜アルバートが帰ったのは結局明け方の少し前くらいだ。
あまり睡眠が出来なかったので、ちょっと眠い。
「キーコおはよう……って珍しいわねまだ着替えてないなんて」
「あははっ、なかなか眠れなくて」
アルバートがあんな夜中に来た事がギルベルトにバレたら、きっと癇癪を起して大変な事になるのでここは黙っておく。
「あれ……なんなのです?」
応接間の方にいたシャネットが何か見つけたのか、暖炉の傍に立っていた。
君子は着替えを止めると、アンネと共にそれに近づく。
暖炉の傍に置いてあった置物の横に、何か黒いふさふさとしたモノがいる。
「……あっ、蝙蝠?」
見るとそれは小さな蝙蝠だった。
図鑑でしか見た事がなかったので、実際に見るのは初めてだ。
「なんでこんな所にいるんでしょう……」
昨日は何もいなかったのに、一体どこから入って来たのだろうか。
野生の蝙蝠は病原菌を持っているかもしれないし、このままにはしておけない。
アンネが誰か人でも呼んで来て駆除して貰おうとした時だ。
「ひゃああっ」
突然蝙蝠が羽ばたいて、こちらへと向かって来た。
ちょっとふさふさで可愛いなぁと思ったが、こうやっていざ向かって来られると怖い。
君子とシャネットは手を振って追っ払おうとする。
「あいたっ!」
右の人差し指に激痛が走った。
慌てて手を抑える君子に蝙蝠は襲い掛かって来る、慌ててアンネが窓を開けると、近くにあったクッションを振り回して外へと追い出した。
「怖かったのですぅ」
「なんで蝙蝠がいたんでしょう……」
「それよりキーコ、どこか噛まれたのっ!」
「えっはい指を……、あれ?」
痛みがあった指を見るが、血は出ていないし歯型もない。
試しに圧迫しても、やはり血は出て来なかった。
「気のせいだったのかなぁ?」
痛みも一瞬で、もう何ともないし指も正常に動く。
「どーしたキーコ!」
「なんの騒ぎですか!」
慌てた様子で、ギルベルトとヴィルムがやって来た。
事情を説明すると、ヴィルムは暖炉から煙突を覗き込む。
「もしかするとここから入って来たのかもしれませんね」
「よりによってキーコの部屋に来るなんて、図々しい蝙蝠だわ」
「図々しいってそんな……」
「キーコさん、一応消毒をしましょうなのです」
血は出ていないし大丈夫だと思うのだが、シャネットがあまりにも心配しているので、一応念の為そうする事にする。
「くせぇ……」
「へっ?」
「……アルバートのクソ野郎の匂いがする」
君子の全身から冷や汗が一気に噴き出した。
鼻が良いギルベルトは、アルバートの僅かに残る匂いに気が付いてしまったのだ。
「えっあっ、ほっほら……昨日の朝アルバートさんが来たからだよ」
そう誤魔化そうとしたのだが、魔王帝譲りのギルベルトの嗅覚は騙されない。
「キーコからしてンだぞぉ」
昨夜沐浴をして着替えた君子から、アルバートの匂いがするのは可笑しい。
どう考えても沐浴をして寝間着に着替えた後に、彼と会ったとしか思えない。
「えっえっとぉ……こっこれはぁ、そっそぉ」
完全に証拠をつかまれた以上、もはや何を言って無駄だ。
自分の知らない所でよりによって大っ嫌いなアルバートに会うなんて――、ギルベルトは嫉妬を大爆発させる。
「キィィィィコォォォォっ!」
「やあああっごめんってばぁぁっ、変なとこ触らないでぇぇ~~」
こうして今日も、平和なルーフェンにギルベルトの怒号と君子の悲鳴が、響き渡るのだった。
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暗い部屋、もうとっくに夜は明けたというのに分厚いカーテンで窓を閉め切り、一切陽の光が入らない様にしている。
その部屋の中心に、直径二〇センチ近くはありそうな卓上用の水晶玉が置いてあった。
うすぼんやりと光る水晶玉に映っていたのは、ギルベルトと彼に抱っこされている君子。
ギルベルトのセクハラで君子は悲鳴を上げているのだが、他人から見るとそれはじゃれ合っている様にしか見えない。
そんな何気ない日常の光景を、嘲笑う者がいる。
「……ふふっ」
アルバートの母、アルテミシア。
水晶に映る君子の右耳で光る銀色のピアスを見ると、感情の読めない表情のまま小さく笑った。
そして、呟く。
「駄目な子ね、アルバート」
その声は、どこか怖さがあった。
得体のしれない恐怖があったのだが、それを知る者は誰一人いない。
アルテミシアは、水晶玉に映る君子を見下ろしていた。




